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2017.08.18 (Fri)

泉光院の足跡 248 腹痛

九日 晴天。滯庵。所用に付町へ出づ、貞衛門赤飯出す、金次郎加持頼みに付行く。十日 同天。無事。仁王三部。
十一日 雨天。米調へに出る、醫師晝過見舞あり、脉(みゃく)合ひ随分宜しきと云ヘリ。夜に入り風雨荒れて波の音高ければ一句、
   波よりも風こそにくし虫選み
十二日 曇天。平四郎病氣余程快方也、されど水汲み、飯炊き、薪取り、野菜調へに町へ出でたり、ああ大儀也。堂の縁に腰打掛け休息一句、
   浮き沈み因果の海や一葉舟
仁王一部。

やっぱり医者に診せると少しは病気もよくなるようだ。しかし2kmも離れた町までお米や野菜を買いに行って、帰りにそこらの山へ入って薪を拾い集め、井戸につるべを落として何杯も水を汲み上げ、飯を炊いたり芋を煮たり、そして病人の看病です。疲れたなぁ、もう。
お堂の縁側に腰をかけて、はるか遠くを見やれば太平洋。この気持ち、誰にしゃべれば気が落ち着くのだろうか。楊柳軒一葉という俳名を持っている泉光院です。何の因果でこんな所まで来て毎日無為に時を過ごしているのだろう。大海に浮かぶ葉っぱのようなもんだ、いまの俺は。
ワタクシも思うときがあります。晩飯を食べたあとの鍋や皿を洗って、明日のお米を研いで、たまには綺麗にしてやろうとクレンザーでシンクを磨いてピカピカになったのを眺めてから、近くのコンビニに行って明日朝の珈琲に入れるシュガースティックを買って、ついでにチョコレートも買ってきて、そうしてパソコンの前に据わって、今日もまたかくてありけり…と一句をひねる代わりに泉光院の境遇に同情しながらこうして指を動かしているこのヨリックという奴はいったい何だ!
   いいえ、それが「生きている」っていう事でございます。
ワタクシも炊事洗濯買物と、毎日イロイロやっておりますが、文明開化の21世紀、泉光院の苦労を思えば何でもないこと。電気に水道、年金に健保、あらゆる便宜がワタクシの廻りを取りまいているのです。その上たまには笛を吹いてみたり、ナナ・ムスクーリのレコードなどを聴きながら、吾身の来し方行く末を思ってシンミリしたりするのです。

牧之原の一面の茶畑が広がっている平坦な台地から菊川の方へ少し降りると「小夜の中山」という難所になります。
廣重版画「東海道五十三次之内 日坂 小夜の中山」。
日坂小夜の中山広重版画

よく見ると道の真ん中に大きな石があって、旅人が足を止めているようです。夜泣石といいます。
夜泣石伝説は実にたくさんあるので、簡単に書いておきましょう。

菊川の里に住む妊婦がいた。久延寺の觀音に信心篤く月に何度も参詣していた。ある日、日坂の途中にある大石のそばで盗賊に襲われ殺される。女の霊がこの石に籠もって、夜になると赤子の泣き声がする。久延寺の住職が見つけて子供は無事女の腹から取り出される。子供は水飴で育てられて成人し、敵である盗賊を討つ。といった話。
バリエーションがいっぱいあるのでほんの骨子だけです。妊婦の名前、子供の名前、盗賊の名前、みんな伝説には書いてありますが、そもそもこの話自体が作り話かも知れません。
日坂久延寺夜泣石
久延寺と境内にある夜泣石。
小夜の中山夜泣石

石は直径1mほどです。


小夜の中山茶屋

左が東海道。小夜の中山道。久延寺の隣りにある扇屋という茶屋。ここで子育飴を売っています。
日坂扇屋子育飴


壺に入っていて(最近はプラスティックの瓶だったりして)、割箸にクルクルと巻き取って嘗める、あの昔懐かしい飴です。硬く作って竹の皮で包んだお土産用の飴もあります。正しくは「子生長飴 こそだてあめ」と言うのだそうです。
日坂名物飴のもち

右は廣重の人物東海道五十三次「日阪 名物飴のもち」です。
左側の看板に「名物 飴のもち さよの中山」と書いてあって、茶屋の女が旅人に呼び込みをしている。
江戸時代中期には既に世に知られた物語になっていたようです。

夜泣石はもう一つあって、島田の方から国道1号線を新大井川橋を渡って急な坂を上がってトンネルを3つくぐってちょっと下って次のトンネルへ入る手前にあります。石のまわりには車を止める程度のスペースがあるのでゆっくり見ることが出来ます。
この石と、久延寺に祀られている石、どっちが本物だろうか。

廣重の絵には道の真ん中にあって、大名行列の時もそのままだった。
明治元年、明治天皇が京から新都「東京」へ上るとき片付けられたとも、久延寺の住職が寺の見世物にしようと久延寺の境内に移したとも、住職は明治十三年に浅草で開催された「勧業博覧会」に見世物に出そうとしたとも、…、いろんな話が伝わっておりますが、もともとは伝説です。深く追跡しないでおきましょう。
小夜の中山街道風景

小夜の中山、峠道です。江戸時代の東海道。
扇屋の所から次第に下り道となり、最後に急坂を下るといまの国道1号線にぶつかるのだが、それを横切って向こう側へ入ると日坂の宿になります。

『東海道名所図会』には「此所の名物に蕨餅(わらび餅)を製して沽(うる)也」とありますが、『東海道名所記』にはこんなことが書いてあります。蕨餅
「葛(くず)の粉にてつくり、豆の粉をまぶして旅人にすゝむるに、往來の人ひだるさ(空腹の事です)まぎれに蕨餅なりと思ひて、つゐに葛餅なりとは知らずかし」と、昔から蕨餅だと言って葛餅を売るのは当たり前だったようだ。右は「本物の」蕨餅。
この頃は葛粉はおろか、馬鈴薯澱粉から作るのが普通らしいです。京都のお菓子屋さんでも売っていたので、「蕨の粉で作ってるんですか」と聞きましたところ、「もちろん本当の蕨粉で作っておりますよ」と店員が答えてくれた。そのお店は、本店だけではなくて、駅ビルやデパ地下などいっぱいお店を出していて、夏の目玉商品で大量に販売しておりますから、どう考えても本物の蕨粉で作れるわけがない。かりに本物の蕨粉で作ったとすればあの値段で売るのは採算がとれない。江戸時代からニセモノがまかり通っているのだから、何を今更、そんなことを聞く方が野暮というものです。

平四郎はどうしているでしょうか。

十三日 晴天。平四郎病氣同斷。無事。仁王一部。
十四日 晴天。今日は予も氣晴しに托鉢に出で、晝時歸り休息す。平四郎は病氣故靈祭りも出來ず余所の祭を見て一句、
   余所ながら見るも手向けか靈祭り
金次より花米一升、清藏と云ふよりと云ふより初尾一包、味噌一重贈らる。
十五日 晴天。托鉢に出る。長治郎と云ふより餅一重上げる。回國乞食境界なれども聖靈へ靈膳を備へんと小豆飯等料理拵へたり。

靈(たま)祭というのは今でいうお盆の行事です。去年は「旅中なればうろつき廻り」、でちゃんと出来なかった。一昨年も托鉢をしているだけだった。その前の年は丹波にいて、聖霊祭のご馳走を所々のお宅で頂いた。
今年はこんな境涯になっているけれどもせめて佛様に御膳をあげなくっちゃ。
お盆に小豆飯を作るのはどこの風習でしょうか。泉光院の故郷なのかそれとも遠州の風習なのだろうか。
小豆餅小豆汁
北陸では小豆汁とか小豆餅などを拵えたりする所もある。
左、小豆餅。
右、小豆汁。

泉光院は小豆飯の他に何を拵えたのだろうか。里芋の煮っころがしとか、茄子の煮付けとか?
ちょっと省略して、

十七日 晴天。仁王二部。夜に入り鹿島明神社内地藏祭りあり詣づ。
十八日 雨天。仁王一部。庚申に付作法す。…
二十日 大風雨寅卯(北東方向)より吹く、夜に入り止む。仁王一部。夜に入り平四郎大癪、腹痛難澁を極めたり、夜明け平癒。

20日は台風が来た日だが、その晩、平四郎が猛烈な腹痛を起こした。癪というのは原因のはっきりわからない胸部・腹部の激痛、腹膜炎・胆石・虫垂炎などの総称なので、平四郎の激痛の正体ははっきりとはわからない。
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