2018-11- / 10-<< 123456789101112131415161718192021222324252627282930>>12-

2017.08.23 (Wed)

泉光院の足跡 249 丸山堂出立

平四郎が猛烈な腹痛を起こしたのだが、…夜明け平癒。…で少し楽になった。

廿一日 晴天。長悦と云ふ盲醫を頼み按摩針療。
廿二日 晴天。今日も盲醫見舞ふ、大分平癒す。木村氏より船中安全の祈禱頼みあり種々贈り物あり。
廿三日 晴天。金子一角弐買、米味噌等調へる。薬貰。金毘羅參りとて男二人泊る、上野國の者と云ふ。

盲醫に治療をして貰っている様だ。ワタクシの子供の時代(戦前です)、近所にこんな看板があるのを見ていた。「あんまはりやいと」。かなり長い間意味が判らなかったのだが「按摩・鍼・灸」のことだった。「やいと」がお灸のことです。こんな「盲醫」の需要があったのですね。
慶長一分金表裏

続いてこの日は…金子一角弐買、…ですから両替商のところへ行って小銭をいっぱい出して一分金を二枚買った。祈禱の謝礼などが大分たまったらしい。右が慶長の頃の一分金で、上が表、下が裏。このお金は角形ですから一分金のことを一角と言ったらしい。一個4.5gで、金の含有率は84%。まずまずの高品位の金貨です。あまり純金に近いと柔らかくって耐久性がなくなる。残りの16%は銀です。
慶長小判

小判は一個18gですから、一分金四枚で小判一両と交換出来る。この日から14日経った八月八日にも金子一角弐買、と書いているからかなり貯金が出来たようです。
一分金が四枚たまったので小判の姿をのせておきましょう。
左が慶長小判。

慶長から半世紀ほど経った元禄時代、金貨の改鋳が行われて、慶長小判二枚で元禄小判三枚を作った。つまり金の含有量が三分の二に減ったのです。この結果江戸幕府には大量の金が入って小判をたくさん鋳造できて、一時的には財政が豊かになったのだが、結局は貨幣価値が下落してしまうのです。
悪貨は良貨を駆逐する…というわけで、慶長小判を持っていた人はコッソリしまい込んで大切にした。元禄小判を作ったのは将軍綱吉で、側用人であった柳沢吉保が筆頭老中となって権勢をふるう頃、(水戸の隠居光圀がテレビドラマでは全国漫遊に出ている頃、そして柳沢吉保は悪役で出ています)のことです。

東海道、日坂宿の続きです。
宿場を出ると間もなく左手に事任(ことのまま)八幡宮というのがあります。掛川事任八幡宮
これは平安時代から伝わる神社の一つで、『枕草子』には「ことのまゝの明神、いとたのもし、」とあって、お願いしたことは何でもいうがままに叶えてくれる明神様として都にも聞こえていた。社殿はずっと奥へ行って左側、高い石段を上がった所にあります。写真が写しにくい社殿です。

掛川は城下町で、江戸時代初めは山内一豊で、彼が土佐国浦戸、高知に轉封になった後はつぎつぎと松平氏や井伊氏、太田氏といった徳川家譜代や親藩が移り住みました。掛川市内図七曲り
城下町によくあることですが、、ここも街道をいくつも屈曲させて「掛川の七曲り」といって判りにくくしている例です。
(愛知県岡崎の場合は四十七曲りと極端です)

東海道を赤線で入れておきました。左下隅にJR掛川駅があって、そこから真っ直ぐ上(北方向)に上がった所に掛川城があります。
掛川城天守閣

ここは豊臣系だった山内一豊が、徳川家康への対抗のために軍事上の拠点として天守閣を含む大きな城を築いたのだが、安政の大地震で城郭の大半が壊れてしまった。何を思ったか平成6年になって掛川市では御城を再建し、木造で立派なのを造ったのだが、NHK大河ドラマで一豊の妻が、へそくっておいた10両の小判を出して亭主のために名馬を買った、というあたりが評判になって観光客が集まった以外は大したこともありません。
掛川城二の丸御殿
むしろ(この天守閣の東方下の方にある)目立たないけれども二の丸御殿は、藩の儀式・政務を行うとともに、藩主の公邸でもあって、御殿建築としては京都の二条城などとともに全国で数ヶ所しか残存していないもので、國重文指定となっているこっちの方を大切にして、また観光用にも宣伝しなくちゃならないと思うのです。全部で七棟あって、建坪242坪(800㎡)と大きな建物です。

掛川の宿場を離れると二瀬川に架かる大池橋というのを渡ることになります。
廣重版画「東海道五十三次之内 掛川 秋葉山遠望」。
掛川秋葉山遠望東海道五十三次之内


右手遠方に見える険しい山が火伏の天狗三尺坊の棲むという秋葉山。

この橋を渡ると追分になっていて、東海道が直進、秋葉路が右折、となります。この絵では橋の向こうが描いてないので判らないのだが、秋葉路のところには鳥居が立っていた。
掛川人物東海道鳥居

右の廣重「人物東海道・掛川」で見ると、絵の左端の所に半分ほど鳥居が見えている。橋を渡ったところに二人の女が立っていて、そのすぐ先が秋葉路で鳥居、と言うわけです。保永堂版では橋と秋葉山、人物東海道で鳥居、両方あわせて秋葉路が確認できました。

泉光院も秋葉山へ行くのですが、この道は通らずに、いまの国道150号線、濱街道の方を通って見付宿から森町の方へ入り、光明山の下から秋葉山を目指すのです。それまでもう少し道草をしましょう。

東海道の方へ入ると遠州三山と言われている有名なお寺があります。
可睡齋(かすいさい)、油山寺(ゆさんじ)、法多山(はったさん)の三つ。

右が可睡齋で曹洞宗のお寺。可睡斎
第十一代住職の仙麟等膳は幼い頃の徳川家康を保護したので、後に濱松城主となった家康は旧恩を謝するために等膳を御城に招いたのでしたが、その席上で等膳は居眠りを始めてしまった。それを見た家来共は「無礼なり」と声を荒げたのだが、家康は、「和尚我を見ること愛児の如し、故に安んじて眠る。我その親愛の情を喜ぶ。和尚睡(ねむ)る可(べ)し。」といった。それ以後可睡齋と名を改めたという伝説です。
明治の廃佛棄釋の時、秋葉山から佛教系統の三尺坊(秋葉寺の本尊である天狗)
このお寺に移されて、有栖川熾仁(ありすかわたるひと)親王から「秋葉總本殿」の勅額と菊の紋章を賜り、火伏(ひぶせ)の靈場となった。牡丹の花咲く頃はこのお寺で綺麗な牡丹を見ることが出来るそうだがワタクシは見に行ってはいません。
油山寺霊水るりの滝
油山寺です。
霊水「るりの瀧」。8世紀の頃、この瀧の水で孝謙天皇の目の病を治したことで一躍有名になった。
油山寺三重塔

油山寺の山門は掛川城の城門であったのを明治に入ってからこのお寺に移したもので、重層本瓦葺、国指定重要文化財。三重塔(右)は建て始めてから完成までに36年という時間がかかっている(予算の関係だったらしい)ので、1・2層目が和様、3層目が唐様、と様式が変わっている(と世界遺産研究の会で見学に行ったとき教えてくれたのだが詳細はワタクシには判りません)のだそうです。これも国指定重要文化財。

遠州地方での「厄除觀音」として一番著名なのが法多山尊永寺。
法多山尊永寺仁王門

息子が死んでからはバカバカしくなって行かなくなったのだが、それまでは毎年正月三ヶ日のあいだにウンザリする渋滞の中、車を動かしてここへ行って、\3000払って御祈祷をして貰って木製の「家内安全」の御札を有難く戴いてきたものです。
右が二王門。
このお寺には、厄除けの御祈祷で大勢の人が押しかけるので、本堂は鉄筋コンクリの大きい建物で醜悪な状況になっている。御利益を求めて広い境内は人が一杯で、お帰りには「ハッタサン団子」の売店もお団子を買う人で一杯。
このお寺ではこの仁王門が唯一、「見るべき程のもの」です。寛永十七年(1640)建
立で、入母屋造柿(こけら)葺、国指定重要文化財です。中には仁王サンも入っています。

平四郎の病気は小康状態を保っている様だが、まだ長旅を続けるには無理があるようです。

廿四日 晴天。夜に入りだび場(荼毘場)地藏堂前に皆々來り、念佛やら、和讃やら、鉦鼓を打ち深更迄喧しき事也。
廿五日 半天。精げ米調へに行きたる所町中になし、因て能米を精げたり。
廿六日 晴天。夜に入り近所の老母共六七人集まり、念佛やら、巡禮歌やら唱へ日の出る迄居られたり眠たし眠たし。

三日に丸山堂へ引っ越してからかなりたちました。この丸山堂は単にお堂があるだけではなくて、境内には荼毘場(死体の焼却場)があり、地藏堂があり、旅人が来て宿泊していたり、村人たちが集まって念佛を唱えたりしている一種の集会場も兼ねている様だ。

廿七日より八月九日まで無事。日々加持人來るやら、祈禱やら、振舞に行くやら種々の事少々宛あり。

毎日毎日、平四郎の病気看病と、それに伴う主夫業が続いているようです。
単調な日々なので日記を12日分省略してしまった(七月は小の月だったので30日はありません)。でも実は、省略したのは佐土原藩の殿様及び醍醐寺三寶院に提出した清書本で、旅の間毎日欠かさず書いている下書き本の方は全部書いてあるのです。

八月十日 晴天。加持人來る。清左衛門宅より洗濯施行。平四郎病氣平癒し、今日彼岸の初日故に町へ托鉢に出たり。予は留守番。仁王一部。所々より初尾上る。
十一日 晴天。令齋子方へ藥禮遣し候處、施藥にし遣はすとて一錢も請けられず、因て半紙三百枚遣はす。所々より餞別贈り物あり。

長い間かかった平四郎の病気、ようやく平癒しました。
すると早速托鉢にまわっている。現金な人だ。なによりもお金を貯めたいらしい。
泉光院は後始末で、醫師の令齋さんに藥代を払おうと思ったら、施行だからいいよ、と言って治療費を受け取りません。医は仁術だ、というのでしょうか。
一ヶ月半もいれば友達とも信者ともつかぬ人たちがふえる。新藏、源藏、八兵衛、金次、清藏、長治郎、八郎兵衛、清右衛門、與市、木村氏、清左衛門、貞衛門、醫師令齋、…、ここには書かなかった人たちもいるけれども多くの出会いがあった。みんな親切な人たちだった。そんな人たちが餞別までくれる。江戸時代はいい時代でした。

十二日 曇天大北風。川崎町丸山堂立、辰の下刻。知音の者共見送る。當所より三里相良と云ふ町を通る。此所は先達て田沼氏居城の地、今に城跡あり、北に川あり、高石垣也。東南西は堀跡、石垣少々殘れり、内圍ひ三丁廻り、内は松山、平城、追手南向、門の跡石垣殘れり、北に搦手、此所も門の跡あり、外廓は堀の内諸士屋敷と見へたり、今田畑となれり。余所ながら哀れを催し古へ田沼氏の盛んなりし時を思ひやれり、今は跡形も無くなり、只鷓鴣の飛ぶ計りなれば一句、
   今は只雁の田沼となりにけり
宮の内儀左衛門と云ふに宿す。

榛原郡相良町(現在は牧之原市のうち)まで来ました。相良城は田沼意次が老中になった安永元年(1772)に築造した御城で、いま役場と資料館がある。
賄賂の田沼といわれたり、聡明で進歩的政治家といわれたり、毀誉褒貶さまざまな人ですが、この人のことをちょっと。

田沼意次は徳川吉宗の将軍就任に伴って紀州から赴任してきて、最初は600石の直参旗本として官僚の仲間入りをしました。
九代家重、十代家治に重用されて、明和~天明(1764~89)の頃、側用人、老中、と昇進しました。外国貿易の奨励、商業資本の経済力を利用した重商主義的な積極財政を進めて、そうしてこの間に加増を重ねて65,000石の大名にまで出世しました。
地元では田沼街道というのを開いて、いまの国道150号線という道路で、泉光院が宇都ノ谷峠の所から焼津を出てここまで歩いてきた道とほぼ重なる道を作ったのでした。相良仙台河岸石垣
御城の裏手には仙台伊達藩主から寄進されたという石材(これもワイロだったのでしょうか)で、千石船が発着できるという「仙台河岸」(右の石垣がその一部)という港湾設備を作りそれが今も残っていて、泉光院が見たという川のそばにある高石垣がそれに当たると思われます。

しかし天明六年(1786)、十一代家斉の将軍就任とともに、反田沼派の松平定信の老中就任によって田沼意次は失脚し、隠居させられて、奥州下村(福島県)10,000石に移封となり、相良城は天明七年、完全に破壊されてしまった。泉光院がここに来たのは1817年ですから、30年ほど前のことです。泉光院は田沼時代というのを良く知っているのです。だから今は田畑となってしまっている城跡を見て「哀れを催す」のでしょう。
田沼意次は積極財政、松平定信は緊縮財政、とそれなりに時代の要請もあったと思います。日本でいま必要なのは松平定信タイプの政治家でしょうか。彼が老中に就任すると早速各大名・旗本・諸役人に倹約令を出したのでした。
スポンサーサイト
21:29  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

*Comment

コメント:を投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメント:を表示  (非公開コメント:投稿可能)
 

▲PageTop

*Trackback

この記事のトラックバック URL

→http://azasosori.blog.fc2.com/tb.php/442-2e669e67

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック:

▲PageTop

 | BLOGTOP |