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2017.08.29 (Tue)

泉光院の足跡 251 遠州沖之須

No.248 腹痛 のところで夜泣石を、No.250 お櫃納め を書きましたがこの二つ、ともに遠州七不思議と言われているのです。ついでに残りの五つも簡単に書いておきましょう。

〇遠州灘の波の音 海岸から遠く離れた所でも、夜、波の音が聞こえる。西から聞こえると翌日は晴、東から聞こえると翌日は雨。
これは海岸から6kmほど離れているワタクシの家でも聞こえるからさほど不思議ではない。但し、音を反射する雲が適当な高さにあることが必要条件です。西風・東風も気圧配置を考えれば結果が晴雨に結びつくことはわかります。
〇三度栗 一年に三度結実する栗。遠州では弘法大師の発言によることになっている。周智郡にも菊川町にもあるそうです。新潟では親鸞聖人の発言で三度栗が福井村という所にあるというので泉光院が見物に行ったことを、No.180 越後七不思議の所に書いておきました。
〇天狗の火 天狗は秋葉山や小笠郡の高い山に住んでいて、夜になると灯をともして各地を歩くのだが、その速さは鳥も及ばないという。その火が近づくと命が危ないので、それが近づいたら履物を頭の上にかざすと難を逃れるという。
○京丸牡丹 周智郡春野町(今は浜松市天竜区春野町、浜松市の北の方)の山奥に京丸山(1469m)というのがありますが、そこには平家の落人が住んでいるという秘境があって人の近寄れない断崖に60年に一度だけ、花弁が三尺余もある大輪の牡丹の様な花が咲くという。いまはヤシオツツジがそうだといわれているのだが、あれは毎年咲きますから違うでしょう。それに、やっぱりそんな見事な花がどこか人の知らない断崖絶壁で60年に一度だけ、豪華に、妖艶に、咲いていると思いたいじゃないですか。
○片葉の芦 JR浜松駅の南の方の頭陀寺(ずだじ)に木下藤吉郎鎌研ぎの池というのがあって、秀吉がまだ藤吉郎と名乗っていた頃、濱松の松下加兵衛に奉公していて、草刈鎌の切れ味を試すのに芦の葉を削ぎ落としたからだという。
この片葉の芦は遠州各地に見られるもので別に何でもないものなのだが、説話は色々あるのです。
袋井市貫名では日蓮上人の父が房総に追放になった時、芦の葉がその人を慕って靡いた、というし、熊谷次郎直実の乗った馬が芦の葉の片側だけを食べたからだ、という話もある。熊谷次郎直実馬に乗る
この人は一ノ谷の合戦で平敦盛の首を取った時、この世の無常を感じて法然上人の元で出家して熊谷蓮生坊と名乗り、東国へ赴く時は、尻を西方浄土に居られる阿彌陀様の方に向けるのは畏れ多いといって、馬に乗っても右の絵の様に逆向きに乗って、馬が東を向いている時、自分の尻も東を向いている様にして乗った、という伝説の人。

他にも「無限の鐘」というのもあります。
掛川城の天守閣へ上って東北方を眺めると粟ヶ岳という姿の綺麗な山があって、『東海道名所図会』に、…むかし此山に無限の鐘と云ふがあり、此鐘を撞けば現世にては無限の財宝を得るといえども、未来は無間地獄に堕落すとなり、故に此山を無限山と云ふ。粟ヶ岳無間の鐘井戸
いま此鐘を尋ぬるに曾てなし、土人曰く、むかし此堂下に埋むと云ふ。…
人間の欲望の行き着く末は無間地獄に落ちる、ということでしょうか。
この鐘のあった阿波々神社の近くには無限の鐘を埋めた井戸というのがあるようです。

十四日 晴天。宮内村立、辰の刻。池の宮神主方へ行き御供へ申請け(もうしうけ)、夫より池新田と云ふに行き一宿す。至てむさき宅なれども海邊也、松林より月の上る氣色甚宜しきに乘じ宿したり。一句、
   月と虫此もてなしに舎(やど)りけり
十五日 晴天。池新田立、辰の刻。次の村へ行き托鉢、平四郎は夕方まで托鉢す。病後の疲れ來らん再發したらば惡しかりなんと留めたれども聞入れず、只今通りなれば近日の内、又々病い發らん事極せる。道々萬金丹を調へ服する事也。先年此邊の百姓共徒黨を組立て、城下へ押寄せたる由にて、今に頭取の者共入牢し居る由、因て回國の者宿これなし、内分にて喜衛門新田善藏と云ふ宅へ宿す。今晩は名月なれども何の風情もなく只一人庭前の月に對し、
   名月に何業もなし旅の空
當地横須賀領分なれば、
   横須賀を竪に照り透く今日の月

看病も、炊事洗濯もしないでまた回國修行の旅に出られるようになって、心は晴々としている。
中秋の名月です。今と違って空気は澄んでいてあたりは暗いし、虫のすだく声も心に染み入るようだ。宿が汚くっても気にならない。下手な句でも自然に口から出る。
平四郎は病み上がりなのに早速托鉢に精を出している。泉光院は気が気でない。病気が再発したら今度こそ死んじゃうぞと言って聞かせるのだが、薬屋で「萬金丹」なんて薬を買って飲んでいる。反魂丹越中富山
富山の売薬は元禄年間には始まって、その効き目とともに販売方法、「置き薬」という代金後払い方法で有名になった。
家庭常備薬を小さな葛籠に入れたのを、行商の販売員が一軒一軒まわって置いておくのです。そして一年後廻ってきて、使った分だけお金を取り、不足した分を補充しておく。ワタクシの子供の頃、富山の薬屋はワタクシの家にも来るのだが、その時は子供の喜ぶおもちゃ(多かったのは紙風船で、息を入れて膨らまして手鞠の様にして遊ぶ)も持ってきたのでした。
ワタクシは虚弱でしょっちゅうお腹をこわしていたので、そのたびに「熊の胃(熊胆圓という名前)」という藥を飴と一緒に吞んでいた。物凄く苦い薬なのだが、吞めばお腹の痛いのはすぐ治った。薬屋サンが来ると、♪越中富山の萬金丹♪と唄って紙風船で遊んだのでした。上の写真の反魂丹よりも萬金丹のほうが有名だった。
ずっと後になって、笛吹き哲子サンに…熊の胃という藥…をよく吞んでいた話をしたら、…アア、あれはね、苦味健胃剤と言って、苦いのを吞めば治るのヨ…と教えてくれた。そのころ哲子サンは金沢大学薬学部卒業後、国立金澤病院の薬局に勤めていた。

年表を見ていると泉光院がここに来た前年、1816年、「近畿・東海地方で大洪水」、「掛川・田中藩80ヶ村の農民が凶作による減免を求めで強訴、打壊し」という記事が見える。簡単な世界史年表でもこれだけ出てくるのだから、きっとかなり大がかりな反乱があったのでしょう。掛川だけではなくてこの横須賀藩(藩主西尾忠需、35,000石)15ヶ村でも同じようなことが起って、首謀者は捕らえられて入牢中だった。そんな時に他国から入ってくる胡散臭い人間は警戒される。だから宿をしてくれる人はなかなか見つからなかったのだが、内緒で善藏サンという人が泊めてくれた。
   今夜の月はいい月だなァ

十七日 晴天。大荒井村立、辰の刻。今日も道々托鉢、横須賀城下近き沖の洲と云ふ村は二百軒計りの所なれど善根宿一軒もなしと聞く、故に地藏院と云ふに宿す。濃州の大社參りの夫婦者當分住居し居る由也。
十八日 晴天。今日は滯留せよと申すに付滯庵。仁王一部。
十九日 晴天。平四郎病氣再發の様見ゆるに付今日も滯庵。予は横須賀城下中托鉢、御城少々山あり、東南に堀あり、家中御城より東、追手南向、圍ひ半道計り、北に山あり。
二十日 曇天。今日も滯在。仁王一部。晝前より大雨。
   秋雨や淋しきものゝ騒がしき

沖之須という所は国道150号の海岸寄りでちょうど掛川の南に当たるような場所です。ここでも泊めてくれそうな家がないようなので地藏院という庵に泊めてもらうことにした。
平四郎の具合が変だ。ちょっとここでストップしよう。
横須賀城跡玉石垣
横須賀城は明治になって壊されて、石垣と堀の一部が残っているだけだが、ここの石垣は天龍川の玉石を積み上げたとても珍しいものです。右の石垣がそれ。他では滅多に見られない石垣です。

廿一日 晴天。沖の須村立、辰の刻。庵主種々贈り物ありたり。且つ尼イワと云ふより國元美濃國クダリ村政藏と云ふ弟宅へ傳言又送り物等頼み遣はしたり。預かり行く。道々托鉢、八旗村仙藏と云ふに宿す。(注記 クダリ村は田栗村の誤らしい)

ここらで久しぶりに宮本先生に登場していただきます。

 文化十四年八月二十一日に遠州の沖の須村を発っております。(ここで上の日記を引用してあって)つまり沖の須村に美濃國田栗村の政藏という家から出てきた尼さんがおったわけです。そこで訪ねていって美濃国へ行っている十二月二日に、
 …田栗村夕方着く。先達て遠州沖の須村寄りの傳言、届物預りし政藏と云ふ宅へ頼み物等皆々相渡し今晩一宿す。…
とある。何でもないような記事ですが、昔の通信法ですね。非常に面白いと思ったんですが、尼さんのほうにすれば、自分の弟の家へやっぱり泊まって貰おうという意思があったんだと思う。この前もお話ししましたように、九州の若い者が山形県で世話になってて、それで郷里から山形へお礼状を出している。(このことは、No.195 赤湯 の項で書いておきました。日向国佐土原の甚吉という男が、山形県米澤藩領の成田村へ来て染屋金六さん宅で世話になって、そのお礼状を佐土原へ帰ってから届けている、という件です。やはり宮本先生の文も添えて書いておきました。)郵便局のなかった頃の一つの通信法はこういうものであったと共に、こういううるさいことを、うるさがらずに聞き届ける人があったんだと。この場合はそれが山伏であった。…

これを書いてある本は、宮本常一著『野田泉光院 旅人たちの歴史』(未来社刊1980)という本です。宮本常一は民俗学者ですから、民俗学の立場からみて興味のあることを若い民俗学者たちに、10回ほどの学習会でしゃべった速記を本にしたもので、このへんまで読んだ時、どうしても泉光院の日記本文に当たって見なきゃぁならないと思うようになった。
そしてその日記本文が、三一書房刊『日本庶民生活資料集成 第二巻』に採録されてあることを知り、浜松市立図書館の地下閉架倉庫でその膨大な(確か全18巻ほどある)全集を発見して、それからというもの、当時一番賢かったワープロ、一太郎ver.5でこの舊漢字舊かなづかひの全文をフロッピーディスクに入れておいたのでした。

ここは磐田郡浅羽町(現在は袋井市のうち)あたりの村です。

廿二日 曇天。滯在。近村托鉢に出る。有家と云ふ俳人宅へ行き晝過歸る、當八旗村にて珍木挟掴(注記 この木は何だかわかりません)の枝を見る。夜に入り有家話に見へたり、有家句あり別書に記す。即席一句あり、
   小刀や尊く廻る柿の皮
   覗かれて老曽の森や薄紅葉
予續墨して、
   鹿の音じみの深き山元
予一句前あり略す。
   萩垣の結目に床し奥座敷
有家續墨、
   月に耻かし雜巾の露
又俳人五人計り見へたり、予一句、
   老旅も憂を忘れし花野哉
皆々四更に歸る。
廿三日 晴天。平四郎は念佛の曲稽古するとて滯留す。予は仁王經にて日を送る。主人一句望みに付書付ける。
   浮雲の何障りなし月の宿
廿四日 雨天。今日も滯留して平四郎は念佛の節を習ふ。予は八旗八幡へ詣納經。本社南向松林の内に鎮座、晝前歸り晝寢。

長々と日記を書いてしまった。
泉光院は俳人仲間が出来たので句のやりとりをして楽しんでいる様だし、平四郎の宗派は浄土真宗らしくて、念佛に節(ふし)をつけて唄うのを稽古しているらしい。
浄土真宗には「節談(ふしだん)説教」というものがあって、佛教説話に節をつけて、民衆に語り聞かせる、というのがありました(浪花節によく煮た節回しです)。
永六輔・野坂昭如・小澤昭一の「中年御三家」というのが「大道芸」の蒐集に熱を上げていた事があって、バナナのたたき売りやガマの油売りの口上を集めたりした中に「節談説教」もあって、金澤の東本願寺別院で、彼らの主催で節談説教を聞く会が開かれて、ワタクシも横山サンと一緒に聴きに行ったのでした。平四郎の稽古したという「念佛の曲節」というのがおぼろげながら判る気がします。
中年御三家の蒐集した大道芸は、LPレコードになって確か上下二巻、全部で12枚ほどの全集に収められ、横山サンが買って、横山サンが死んで友人の中条サンが持って行き、中条サンが死んだので先日お詣りに行った時に保存されているのを確認したので、今度は機会があったらワタクシが頂こうと内心考えているのです。
袋井出茶屋ノ図広重

廣重「東海道五十三次之内 袋井 出茶屋ノ圖」。

出茶屋は宿場と宿場の間に作られた葦簀(よしず)張りの簡易な茶屋で、旅人や馬子、駕籠かき、人足などが休息をした。このような簡易な茶屋は街道のいたるところにあったようだ。

袋井出茶屋部分
右に部分を入れておきます。

街道の辻に石で簡単な竈が作ってあって、松の木の枝から薬罐をぶら下げてお湯を沸かしている。茶屋の女は火の加減を見ているのだろうか。右の駕籠かきの男は煙草に火をつけている。のどかな街道風景。袋井松並木


今の袋井あたりの旧東海道です。松並木ですがもっと大きかったのではないのだろうか。


このまま真っ直ぐ行けば見付の宿になって、遠江國分寺の法へ行く事が出来ます。
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