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2017.09.03 (Sun)

泉光院の足跡 252 遠江國分寺

廿五日 晴天。八旗村立、辰の刻。下に渡船あり、鎌田村と云ふに行き托鉢、當村善根宿あると六部より平四郎聞きて所々宿求むる所、三百軒計りの村に一軒もなし、是れ六部よりだましに逢ふたり、因て貝塚村と云ふに行き求むれども宿なし、據なく庄屋へ問合せたる所、當村は善根宿なし、此所の地藏堂へ通夜し玉へと教ふ、因て行きたる所庵主留守也。然れども名主より指圖なればとて藥師堂へ籠る。夕飯は晝飯の殘りを用ふ、庵主は尼也。初夜過ぎ歸り懇ろに座敷へ通し茶など煎じられたり。藥師奉納、
   月よりも瑠璃の光の今宵哉

太田川というのを船で渡ると鎌田村になります。
太田川渡し場跡
左は太田川渡し場跡。いまはその横に立派なコンクリートの大きな橋がある。
平四郎は六部から善根宿があるよ、と聞いたのだが、それは騙されたのであって仕方なしに今のヤマハ発動機㈱本社や東洋ベアリング㈱のある貝塚村の方へ行きました。
松林山古墳カラー
右が「松林山古墳」という静岡県最大の前方後円墳(全長116m・高さ13m)ですが、多分泉光院たちの通った道はこの古墳の右側だと思います。
この古墳の向こう側を削って東海道新幹線が通るようになったので古墳がいびつになってしまった。この近くには古墳が5つも集まっていて、御厨古墳群というのですが、付近には國府の跡や國分寺も会って、貝塚という地名からも、はるか古代からここには人が大勢住んでいたのでしょう。
庄屋さんに紹介して貰った庵は藥師堂だった。藥師瑠璃光如來というのがお薬師さまのお名前なのですから、それを取り込んで一句作った。
ここの尼さんは美人だったのだろうか。お茶を淹れて貰って、瑠璃の光を藥師如來よりもこの尼さんのほうに感じたのかも知れない(とすぐこういう風に感じてしまうのがyorickの悪い癖です)。ついでながら、この日の月は下弦の月で、細い月が上がってくるのは午前の2時か3時頃だと思う。お茶を淹れて貰っている頃はまだ月は出ていない。

廿六日 曇天。貝塚村立、辰の刻。庵主より振舞あり。夫より國分寺の方へ赴く。中泉村と云ふに行く、當所は東海道筋間の宿也、玉泉寺と云ふ禪寺へ宿す。作州の大社參り同宿、又三十四十位の女五六人計りの綿貰ひ共同宿、因て一句、
   名も知れぬ草も花野と呼ばれけり
廿七日 曇天。滯留し近村托鉢に出で晝過歸る。仁王一部。
廿八日 雨天。滯寺。見附の宿へ托鉢に行く。
廿九日 晴天。滯留して今日も托鉢に出る、作州の回國同宿。是れは持明院と云ふ本山修験也。六部になり回國せり。
晦日 曇天。中泉村立、辰の上刻。直ちに國分寺へ詣納經。本社南向、寺一ヶ寺、…

今のJR東海道線磐田駅前付近が中泉村で、『東海道名所図会』には「中泉 むかしの驛なり。此所遠州の國府と云ふ」で、國分寺跡や府八幡宮が残っている。
駅前から真っ直ぐ北に延びる繁華街が旧東海道の道で、駅から1kmほどの西側に遠江國分寺跡が、東側には鎮守社として建てられた府八幡宮があります。
遠江国分寺復元図CG遠江国分寺七重塔復元図













左がコンピューターグラフィックで復元した國分寺の姿で、右が七重塔。
國分寺復元図は南側(わずか南南東)から見ています。
遠江国分寺伽藍配置

伽藍配置図を入れておきました。
南大門、中門、金堂、講堂、僧坊が一直線上に並び、七重塔は回廊の中ではなくて西側に離れて建っている。
遠江国分寺跡真上から
右は真上からみた跡地の様子(調査中の時の写真です)。


國分尼寺も國分寺の北側一直線上に配置されてたらしい。
遠江国分寺塔跡基盤
左は七重塔の基壇の場所。いまはいろんな表示がしてあって随分わかりやすくなっています。
弘仁十年(819)に遠江・相模・飛騨三ヶ国の國分寺が炎上した、と歴史書に書いてあるらしいので、平安時代になってから間もなくの頃に焼けてしまったようだ。年表を見ると、…遠江・駿河両国に配した新羅人が反乱を起こす…とか、…凶作によって諸国租庸調(税金です)に未納を免除…といった項もこの年代には見えるので、京の都はともかく、遠く離れた地方では世情不安もあったのかも知れない。
府八幡宮楼門
國分寺跡と東海道の道を隔てて東側に、府八幡宮があります。
この神社は聖武天皇の時代、遠江の國司として赴任してきた櫻井王(さくらいのおおきみ)が国府の地に勧請した社で、祭神には足仲彦命、気長足姫命、誉田別命を祀っている。
この樓門は江戸時代初期に建てられたもので、見学に行った時、細部の木組みがとてもいい、と説明されたのだが殘念ながらワタクシにはよく判らなかった。
府八幡宮楼門横
横から見た形もいいですね。間口三間奥行二間、入母屋造り。神社ですから、門の左右には衣冠束帯の随神像が入っています。

櫻井王は聖武天皇の侍従として側近の地位にあったので信任も厚く、櫻井王が聖武天皇に奉った歌と返した歌が万葉集第八巻にあって、それを刻んだ万葉歌碑が近くにある。
府八幡万葉歌碑櫻井王
櫻井王
九月のその初雁の使いにも念う心は聞え来ぬかも
聖武天皇
大の浦のその長浜の寄する波寛けく君を念ふこの頃

地図見付宿
左は宝暦二年(1752)刊『新板東海道分間絵図』の見付宿付近の部分に、國分寺、府八幡などを入れておきました。
磐田市の中心部である中泉と見付宿付近には歴史の古い寺社がたくさんあります。

府八幡宮から東海道を北へ上がると見付宿で、そこから町へ入ると小路【見付では(こうじ)とは読まないで(しょうじ)と読みます】がたくさんあり、宿場時代の面影がその小路に残っているのです。そしてその小路の先には必ずお寺やお宮があるのです。

見付淡海國玉神社鳥居見付淡海國玉神社拝殿本殿


左が淡海國玉神社の鳥居で、右が本殿と拝殿。

見付天神鳥居見付天神茅の輪







はだか祭で有名な見付天神というのは通称で、正しくは矢奈比売神社で、その鳥居と拝殿。写した時がちょうど茅の輪の頃だったので大きな茅の輪が見えている。
祭神は矢奈比売命ですが、相殿として菅原道真が祀られているので天神さまなのです。
そして天神さまの乗物である牛が、それも願掛け牛として雌雄が向き合っています。
左が雌、右が雄のようです。見付天神願掛け牛

願をかける時は何か作法があるのだろうがワタクシには格別お願い事もなかったので調べてはありません。

この神社がいつ頃創建されたものか明確ではないのだが、『延喜式神名帳』には見えているのだそうだから平安の昔で、菅原道真を相殿として祀るようになったのが平安時代の正暦四年(993)で、太宰府より勧請したと伝えているからすでに1000年以上にもなる。
見付悉平太郎銅像
鳥居の近くに「悉平太郎 しっぺいたろう」という犬の銅像が見える。
正和年中(1315頃)に、ここに怪物が住みついて毎年人身御供を要求した。それを聞いた旅僧が堂にひそんでいると「信濃の悉平太郎に知らせるな」という怪物の声が聞こえる。方々聞いて廻った所、駒ヶ根市のあたり、光前寺にいた犬の名前とわかり、連れ帰ってこの怪物を退治した、というのが伝説。見付天神悉平太郎三代目
怪物は狒々(ひひ)で、悉平太郎も怪物と争った時の傷が元で間もなく死んでしまった。いまこの犬の三代目というのが飼われていますけれども、年代は全然合いませんねぇ。
奇祭といわれる「はだか祭」の神輿はこの神社から闇夜の中を淡海國玉神社まで渡御する事になっているそうです。このお祭りの様子はネットで動画になっているのでそれを見る方がいいでしょう。ワタクシが文字で書いてもつまらないだけです。
見付天神あわもち屋見付天神あわもち



見付天神へ来たら名物「あわもち」を食べましょう。



泉光院です。
…夫より見附の宿に出で、北に行くこと四里にして矢崎村と云ふに行きたれば、日も西山に落つる故、宿求むる處宿なし、旅人問屋定りあり、行き見れば異類異形の者共宿し居る故に名主方に問合せたる所、爰に辻堂あり宿せよとて茣蓙等借したり。飯は隣家にて炊く。今夜一句、
   助けられて地獄の秋の辻地藏

泉光院とは関係がないのだが、明治五年に学制が施行されて、見付ではとりあえずお寺の本堂を仮校舎として学校を始めたのだが、同時に新校舎の建築に取りかかった。校舎はモダンなものに、という意図のもとで作られ、明治八年には上棟式が行われ、餅撒きなどがあったりして大変な人出だったと記録されている。見付学校正面
最初は二階建てで、屋根の上に二層の楼閣が付けられていたのだが、明治18年に二階の天井部分を改築して今のような(左の写真)形になり、昭和44年には郷土資料の展示室になり、国の史跡に指定された。見付学校サイタサイタ
ワタクシが小学校一年生の時に使った国語の教科書、「サイタサイタサクラガサイタ」も展示されている。

泉光院は見付宿から秋葉山へ上るのに浜松経由ではなくて、森町の方へ出て遠江一の宮の小国神社と、浜松市天竜区の光明山へ詣ってから行く事になります。
見附天龍川図広重

廣重「東海道五十三次之内 見附 天龍川圖」

天龍川は泉光院は渡らなかったので、絵だけのせておきましょう。

天龍川は信濃国諏訪湖から流れ出て、途中伊那を通るので、中央アルプス・南アルプスの水を集めて流れ下るのでたいへんな暴れ川だった。流路はしょっちゅう変わって、いま浜松市内の小さな川になっている安間川や馬込川も天龍川だったこともある。明治時代になって金原明善という人が私財をなげうって天龍川中流域に植林をしたり河川改修をしたりしてほぼ今の範囲に収まるようになり、昭和になってから佐久間ダムとか秋葉ダム・船明ダムなどを拵えてようやく安定な川になった。金原明善生家
右は金原明善の御屋敷。一部業績を称えるための展示場になっている。

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