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2017.09.11 (Mon)

泉光院の足跡 253 秋葉山

九月一日 曇天。矢崎村立、辰の刻。此村より山中に入り、一里に一の宮あり、詣納經。御殿、神殿、舞殿、廻廊、御供所、樓門等大社、大いなる圍ゐ也。夫より大いなる峠を越へ、横川村と云ふに下り彌三郎と云ふに宿す。光明山麓也。

見付の宿を出た泉光院は天龍川を渡らずに北上して遠州森町のほうへ向かいます。
遠江一の宮は小國神社。小国神社十二段舞楽
小国神社境内

ここも平安期の『延喜式神名帳』に名前の見える古い社で、遠江一の宮の格式を今も備えている。オオナムチ(大己貴命)を祭神としていて、欽明天皇十六年(555)創建というから、聖徳太子が摂政になる40年ほど前のことです。創建当初は背後に聳える本宮山の頂きにあったと伝えている。いつの頃に下界へ降りてきたのかはわからない。文武天皇の時代(701)には「十二段の舞楽」が奉納されたと伝えていて、今日まで絶えることなく続けられている。(右の写真)
小國神社から山一つ隔てた東に天宮神社というのがあって、そこは田心(たごり)姫・市杵嶋(いちきしま)姫・湍津(たぎつ)姫の宗像三女神を祀っていて、この神社と小國神社で行われる舞楽は一対になっている、というのだが見ていないのでよく判りません。

泉光院は小國神社に詣納經をしてから、…夫より大いなる峠を越へ…てから光明山の麓へ行ったようです。今の地図では小國神社から少し戻って天竜浜名湖鉄道に沿った道から天竜二俣へ出ると光明山は近いように思います。だが泉光院は峠を越えました。
大平峠というのだろうか、今はもう廃道になってしまったような峠を越えて、天龍川の支流である横川へと出ました。(いま「道の駅横川」というのがあって、山中なのに何故かここのマグロの刺身が美味しいという事で有名)。
光明山(540m)は、秋葉山(866m)・春埜(はるの)山(872m)とともに北遠三靈山の一つであり江戸時代には修験の山として栄えていました。

二日 雨天。横川立、辰の下刻。直ちに光明山に登る。坂五十丁、絶頂に虚空藏堂、脇に笠鋒坊と云ふ宮あり、是天狗の宮也。南向、門前茶屋二軒、寺一ヶ寺、納經す。…

光明寺もやはり最初は山頂にありました。養老元年(717)に行基が開創したといわれるお寺すが、昭和6年、全山が炎上してしまった。それで昭和10年にずっと麓の方に移転して、車でも行けるようになっている。
光明山遺跡
左が光明山の山頂、昔の光明寺のあった場所です。いまは望遠鏡などが据えつけてあって、ハイカーがたまに訪れるだけ。とても展望がよくて、浜松市内から太平洋まで遠望できる。
光明寺本堂

右は麓のほうに出来た今の光明寺。
かなり前の事だが、こっちの方の光明寺で、北インドの音楽であるシタール(リュートに似た大きな弦楽器)とタブラ(大と小の二つの太鼓を指で叩く)の演奏会が開かれたことがあって聞きに行った。何というラーガ(音階のようなもので、インド音楽の基本となるような音列)だったか忘れてしまったが、2つ演奏してくれた。2曲で1時間半ほどかかった。

光明寺の本尊は智滿・能滿・福滿の三体虚空藏です。隣には笠鋒坊という天狗を祀る宮があった。また光明城というのもあって、戦国時代には今川・武田・徳川の各氏の抗争の場だった。いま絶頂に残っているのは石垣や石段だけだが、この時代はお寺とお城の区別というものははっきりしない。二股城址天守台
このあたりは天龍川が山峡から平野へ出る所で、戦略上重要な場所だったから、二俣城や笹岡城(二俣古城)や鳥羽山城や犬居城も築かれて、お城でいっぱいの場所です。
右は二俣城址。戦国時代末期のお城は大体この程度のものが多いのです。

…夫より又五十丁下り永澤村與三衛門と云ふに宿す。主人弓好物の人故深更迄弓の話

野田泉光院という人は佐土原安宮寺八代の住職であって、佐土原藩に召し抱えられていて藩の安泰と藩主の武運長久を祈念する僧侶であり、同時に武士としての野田成亮(しげすけ)であって、天流の棒術の名手であり、弓術では師範を勤めているのです。夜話に弓術の話になってお互いに興が乗って話が尽きることがなかった。

三日 晴天。永澤村立、辰の上刻。直ちに秋葉山へ登る。…

光明山を下りてからさらに山奥の方へ入ります。小さな峠を越えると春野町といって、気田川(天龍川の支流)の流域になって秋葉山の領域になります。秋葉神社三組町
ワタクシの住んでいる三組町というところは浜松市の中心部ですが、ここにも秋葉神社があって、徳川家康が浜松城にいた頃、秋葉山の本殿から叶(かのう)坊という天狗を分けて貰ってここにお社を建てたのでした。そんな縁もあってこの山奥の春野町と「姉妹町」という縁組をしていますので春野町から招待されてお祭に行った事があります。

秋葉天狗春野町名刺

左の大天狗は春野町役場の町長さんから頂いた名刺(上の方に住所氏名役職などが入っていますので消しておきました)に印刷されているもので、クルマでR362を走っているとすぐに目に付く巨大な天狗面です。この天狗が見えると…アア天狗の里へきたのだなァ…と思います。
そして秋葉山はこの天狗のお面のあたりから登るのです。
秋葉山東海道名所図会


右は『東海道名所図会』に記載の秋葉社。
図会には、
…近年都鄙(とひ=都と田舎)の參詣、暑寒を嫌はず蟻の如く道につどひ、秋葉講とて國々縣々に多くの人数を集め、月参りには宿々の泊り札、辻々別路の標石、あるひは石燈籠を建てて常夜を照らす。…
とあって、江戸時代には草鞋に脚絆、念珠を持った參詣人が講を組んで秋葉山詣りをしました。
辻つじに建つ秋葉燈籠です。
秋葉燈籠野崎
秋葉燈籠石造

御殿のように立派なのや、石で出来た実用的な燈籠や、鞘堂というのに納められたもの、さまざまです。
秋葉燈籠は日本国中各所に建てられていて、ワタクシの見た一番遠くのは、尾道市の千光寺から少し下がった所で大きい秋葉燈籠でした。
秋葉山天狗のお札

秋葉三尺坊は宝亀十年(779)に信濃國戸隠村に生まれて出家して修験者となり、27歳の時火難を救うべく不動三昧の法を極め、満願の日に不思議にも鳥形両翼の羽が生え、羂索を持つ迦樓羅(カルーラ・須彌山世界に住む八部衆の一人)の姿となり、空を飛べる神通力を授かった。すると白狐が現れ、三尺坊を乗せてこの秋葉山に留まったので、ここを修験の靈場としたのです。ときに第52代嵯峨天皇の頃、大同四年(809)十一月十六日のことであったといいます。これが霊験あらたかな「秋葉三尺坊大権現」。右が白狐に乗る姿。
そうして秋葉三尺坊は遠江の天狗の総帥となったのです。
以来、秋葉寺では本堂本尊に聖觀音を安置し、眞殿に秋葉三尺坊を祀るようになり、秋葉山は火難鎮護の霊験あらたかな山として諸人の信仰を集めるようになりました。

…麓より五十丁、本堂八間四面南向、柱は惣極朱金滅き(メッキ)、三尺坊の宮は今普請中也、南向、寺一ヶ寺、納經す。寺は十四間に十五間、門前茶屋三軒、寺詰め、僧俗にて百五十人計り。納經者に掛合出る、大椀に山盛り白米五合の飯と云ふ。汁も大椀盛り切り、當寺へ米付馬五匹飼い置き日々麓より五十丁付揚ぐる由。…

泉光院がここへ来た時は、秋葉寺は普請中だったようで、いま建っているこの門は文政時代の建築らしいからこれとは違った門だったと思います。
秋葉山随神門
秋葉山登山道丁石

麓から宮まで五十丁、急な登りが続きます。一丁ごとに「町石」というのが建てられていて、登山者に道程を教えています。右がその町石。一丁は約108mです。秋葉山登山道から気田川
100mほど登ると町石が、ゴクロウサン、ここは○○丁目ですよ、ガンバリマショウネ、と教えてくれる。
十丁ほど登ったところで振り返ると、足下に気田川の流れが美しい(左の写真)。

泉光院がここへ来た時は、秋葉寺の宿坊には僧俗あわせて150人もの人がいて、参拝客に掛合、つまり食事を出していたのです。5合の飯も入る大椀と,、同じく大椀一杯の汁を作って出した。それを賄うために常時五頭の馬を飼っておいて、毎日米を運び上げるほどだった。

これほど盛大だった秋葉寺も、明治四年に、当時の濱松縣の權参事(副知事のような役か?)石黒務によって廃寺とさせられたのです。理由は、廃佛棄釋。日本国は神の国であって、佛だとか釋迦だとかそのような汚らわしい物を祀るのはケシカラン!というわけです。
そしてその男は秋葉神社というのを建てて、自分の叔父の白石某というのを神主に仕立ててそこに入れたのです。
廃佛棄釋という明治政府の方針が、末端へくるとこのような利権がらみの話になるのです。今でも、例えば教育や厚生・福祉、といったものの政府の方針が、末端の自治体へきて、実際に執行するお役所の現場まで来るとずいぶん歪められたもにになり、さらには利権が絡んで悪事の温床になる例がよくみられます。
カルーラ全身
迦樓羅のいい例がありますので載せておきます。これは京都妙法院蓮華王院(三十三間堂)の二十八部衆のうちの迦樓羅像です。カルーラ頭部
先に載せておいた白狐に乗る秋葉三尺坊大権現の姿と似ているでしょう。、

左は奈良興福寺の八部衆(かの有名な阿修羅像の仲間です)の中の迦樓羅の頭部。こちらはくちばしがはっきり鳥の嘴のようになっていて、「烏天狗」の姿をはっきり見せています。
カルーラ奈良興福寺八部衆





秋葉神社秘仏三尺坊
こちらは秘佛となっている秋葉三尺坊大権現の像。
羽の生えていることや、嘴がとんがっている事など、迦樓羅と似ているのです。

秋葉天狗が火防天狗として信仰を集めるようになったのは次のような伝説によるものでしょう。
その昔、京都の御所の近くで大火があり、内裏の御殿も危うく炎上しようとしたとき、とつぜん白髪の老翁が白狐に乗って現れ、羽団扇をかざして炎に立ち向かうとたちまち火炎は向きを変えて、御所は難を逃れた。天皇は「汝は何者か」と尋ねると、「吾は遠州秋葉の三尺坊なり」と答えて炎と共に空中に消えたという。
これによって朝廷は正一位を秋葉大権現に贈ったという。
これは正徳元年(1711)、中御門天皇が秋葉三尺坊に正一位を贈り、改めて13年後に秋葉寺が勅願所となって、多くの下賜品が下されていることが伝説化されたものでしょう。秋葉神社火祭り
秋葉山では12月15~16日に火祭りが行われます。山伏の姿をした人が燃えさかる火の中を真言を唱えて歩く、四天の荒行というのをやります。
今、天狗といって誰もが思い出すのは左のような高い鼻、赤い顔のお面。




天狗の肉屋天狗面

昔は、黒い顔、鳶の嘴、金色の大きい翼、という烏天狗の姿でした。いつの間にこんなに変貌してしまったのだろう。
これからあとは余談ですが、左の天狗のお面は金沢市竪町の「天狗の肉屋」の正面小屋根に上がっている看板です。子供の頃お使いでここまでお肉を買いに来たことがあります。今でもこのお面が上がっていて、金沢では有名な肉屋です。金澤では「肉」というと牛肉のことであって、豚は食べなかった。ワタクシが遠州に住むようになって、勤めていた工場で組合の役員をして、年季が明けて「ご苦労さん会」を豊橋の料理屋でやることになりました。「すき焼き」をやってお酒を飲む、というので、それなりに期待をして行ったのだが、出てきたものは何と大量の白菜と豚肉、それにビールだった!これがすき焼きか?食文化の違いを感じたのはこれが最初だった。(天狗の鼻のことから随分話題が外れてしまったようだ。)

天狗は秋葉山だけではなくて、日本国中、高い山にはたいてい棲んでいた。有名なのは京都愛宕山の太郎坊、鞍馬山の僧正坊、それに秋葉山三尺坊を加えて日本三天狗というのだが、神奈川県最乘寺の道了薩埵も有名でした。
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