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2017.09.30 (Sat)

泉光院の足跡 256 今切

浜松城下へ入ってしまったのだが、その前に東海道と姫街道のことを少しばかり書いておきます。
中野町から少し行った所に東海道と姫街道の分かれ道があります。
東海道と本坂通L

東海道と姫街道の関係。下の赤い道が東海道で、上のピンク色が本坂道、俗に姫街道という道です。つまり浜名湖を渡るのが東海道で、それを避けて浜名湖の北を通って本坂峠を越えるのが姫街道。
本坂越分岐
天龍川を渡ってから中野町の東海道を少し歩くと左の写真の地点。安間から姫街道へ入る分岐点です。鳳来寺道道標安間公民館
ここを入ると先号で入れておいた「鳳来寺道」の道標のある場所へ出て、上の地図にあるように浜名湖の北を通って、気賀の関所、本坂峠を経て三河國御油宿で東海道と合流します。
姫街道三方ヶ原一里塚
左が浜松市内にある姫街道の一里塚。

気賀関所門

そしてこちらは気賀の関所。平成元年頃になって再建されたというのだからいったい何のために?
観光のために役に立つのだろうか。不思議な建造物です。

観光のためなら姫街道の名前の通りお姫様の行列を見せれば宜しいのです。
春の花見の頃に見られる「姫様道中」のシーン。
気賀姫様道中気賀姫様道中駕籠のお姫様







これだとずいぶん見物人も集まってきます。

姫街道も山道となればやはりきびしいです。本坂峠県境
楽な道ではありません。
ここが本坂峠の頂点。遠江國と三河國の境です。
だが何故この山道が姫街道?
それには次のような理由がありました。

1. 新居の関所は取り調べが厳重だ。
2. 舞坂と新居の間の舟渡しが嫌だ。
3. 浜名湖の渡しは「今切れの渡し」と呼ぶのだがその名前が不吉だ。
姫街道引佐峠石畳
これらの理由は特に女性にとって重要な理由でした。新居關所は箱根と同じく鉄砲改めと女改めが厳しかったのですし、舟渡しも怖がる女性が多く、また「縁が切れる」という連想で、嫁入りのさいは絶対に新居の渡しを通らなかったのでした。
かなり傷んでいるようですが石畳道も作られています。
姫街道一里塚細江町
そのため本坂越は女性の通行が多く、いつの間にか姫街道と呼ぶ習わしになったと言われています。だが江戸幕府の公式文書では常に「本坂越」が使われています。

左、細江町に残る一里塚跡の碑。

東海道へ戻りましょう。
はじめの方に出しておいた安間の分岐点からすこし進むと領界石があります。
街道筋からちょっと入り込んだ場所にあるからガイドブックには滅多に書かれていない。従是西浜松領全体
従是西浜松領お堂

「從是西濱松領 (これよりにしはままつりょう)」と彫ってあります。従是西浜松領庚申らしいもの

石碑の左後ろにある小さなお堂を覗いて見たら庚申の様なものや佛像らしきものやよくわからぬものが並んでいました。





東海道立場の松
風変わりな松の木があって、説明によると「立場跡」。
立場というのは、宿場と宿場の間にある休憩所のようなものです。見付宿と濱松宿の間は四里七丁(12.6km)もありますから、途中で休憩したりお茶を飲んだり、という場所が必要ですよね。
蒲神明宮大鳥居
大きな鳥居が見えてきます。
ずっと奥へ入ると蒲神社があるのです。
蒲の冠者範頼(源頼朝の弟、三河守源範頼)の領地だったらしい。この神社の神主はいまも源範頼の末裔だそうです。


馬込川橋
これは馬込川に架かる橋で「馬込橋」。この橋の手前(右側)に木戸があって、濱松宿の入口でした。いまも木戸町という名前です。この橋を渡れば濱松宿。
少し行くと「夢告地藏」が見えてきます。夢告地蔵ほか新町夢告地蔵新町

安政五年(1858)にコレラが流行ってその時に死んだ人を供養してお地蔵さんを造ったのだが、明治になってまた例の廃佛棄釋の騒ぎで土中に埋められてしまった。しばらく忘れられていたのだが、ある時町民の夢枕にこのお地蔵さんが現れて掘り出されてこの地に祀られたのでした。

お堂の中に入っているのが夢告地藏。右がそのお地蔵さん。ほかにも道ばたにあった佛像らしいものも一緒に合祀してあるようです。700mほど行くと昔濱松城の大手門があった場所になりますが、今は浜松市の中心部で、道は直角に左に(南方向に)曲がって本陣跡や旅籠町などと、かっては宿場らしい家並みが続いていたであろう町となり、その裏には、肴町・大工町・鍛治町・紺屋町etc、といった庶民生活の場になります。
子育地蔵菅原町全景

そこから少し行った成子町で東海道は右手に曲がって西に向かいます。ここの所で濱松宿はお終いになって、西の番所がありました。今はその近くにお地藏さんのお堂(右)があります。

子育地蔵菅原町ほか
子育地蔵菅原町


首の欠けたのや割れてしまったのや、全部で17体ほどの石佛が納められております。後列真ん中の摩耗のはげしいお地藏さんは台座に享保八年(1723)と彫られてあるらしいから徳川吉宗が将軍だった頃から祀られていたものと思われます。縁起によると、このお地藏さんに願をかけたところ子供が授かったというので、子育地藏尊。

この先に行くと、道の両側にお堂があって「二つ御堂」といいます。
奥州平泉の藤原秀衡(この人は源義経がまだ子供だった頃、成人するまで育てた人で、のちに義経が追われたときに秀衡を頼って弁慶とともに平泉まで逃避行をする、という時の人です)が京に出向いている時のこと、秀衡公が大病であるという知らせが平泉にいた愛妾のもとに届き、看護のために急遽京に向かったところ、ここで飛脚から秀衡公死去の知らせ(それは誤報だった!)を聞いた愛妾は、菩提を弔うためにここに堂を建て、自身も間もなくここで亡くなってしまった。二つ御堂北堂と神社

右は二つ御堂北御堂です。阿彌陀如來が祀られております。

間もなく秀衡は病気が回復して帰国のためここへ来てこの話を聞いて嘆き悲しみ、愛妾への感謝の気持ちで向かい側にお堂を建てて供養をした。
二つ御堂南堂
それがこちら、二つ御堂南御堂です。藥師如來が祀られています。
二つ御堂は向き合って建っています。
毎年十二月十四日、供養が行われているそうです。二つ御堂北堂馬頭観音
上の写真、北御堂の左側に小さなお堂が見えていますね。
扉を開けてみたら馬頭観音が入っていました。馬頭観音は頭上に馬の頭と宝冠を乗せ、三面六臂の憤怒像で、台座には「宿馬中」と刻まれている。馬頭観音は伝馬を仕事としていた人たちが交通安全祈念のために建てる場合が多いです。
従是東浜松領北側

左、「從是東濱松領」の領界石です。
先に出しておいた「從是西濱松領」と対になるものです。
JR高塚駅付近のスズキ自動車㈱本社の近くにあります。

こうしてみると、「濱松領」という領地はとても狭くて、東が安間川付近にあった「從是西濱松領」(日本橋から六十四里付近)の領界石から西はここの「從是東濱松領」(日本橋から六十六里半ほど)の領界石まで、東西わずか10kmほどで、、南北は海岸から山の麓までこれまたわずか30km程度の領地しかなかったことになるのです。
だから濱松城に入った大名も慶長七年の安平忠頼5万石、慶長十九年水野重仲2.5万石、元禄十六年本庄宗俊7万石、文化十年井上岑有6万石、と実にわずかな碌しか貰っていない大名ばかりなのでした。
前号で、…濱松は文化不毛の地、…と書いたのだが、殿様の給料がこんなわずかだったら文化という金食い虫を育てる余裕はないだろうとワタクシも納得してしまった。
舞阪杉並木1

東海道舞坂付近に残る松並木。
今に残るかなり長い(約700m)松並木です。浜松市の史跡に指定されていて、両側に369本の松が並んでいて、倒木や枯死があった場合は捕植をして保存を図っているそうです。

舞坂宿東の入口です。舞阪見付石垣
街道の両側に「見付石垣」というのが残っている。
ここは宿場に出入りする通行人を監視する場所で、大名の通行の際にはこの石垣の横に番人が立ち、人馬の出入りや治安の維持に当たった。この石垣は宝永六年(1709)の繪圖に描かれているのでそれ以前に設置されていたらしい。
舞坂一里塚南側常夜灯
このすぐ先に舞坂一里塚跡がある。日本橋から68里目。
一里塚は道の両側に造るのが本来なので、左の写真は南側の一里塚跡。常夜灯も立っている。


右の写真は北側の一里塚跡。舞坂新町北一里塚


明治七年の調査では一里塚の廣さは南北共に五歩(=平方坪、約16.5㎡)だったそうだが、その後人家が侵入したようで、江戸時代と様子は違っているのかも知れない。
舞坂宿脇本陣
舞坂宿脇本陣です。
東海道筋では本陣はいくつか残っているのだが、脇本陣が昔のままで残っているのは珍しい。東海道筋では唯一のものだそうです。
この向かい側に本陣が二軒、宮崎傳左衛門本陣と、源馬徳右衛門本陣があったのだが 今は両方ともなくなってこの脇本陣が残るだけです。

脇本陣の隣りに西町常夜灯が立っている。舞阪西町常夜灯秋葉対馬両皇大神宮
今切渡船場を目前にした場所です。
文化十年(1813)建立。
正面に「両皇大神宮」、右側面に「秋葉大権現」、左側面に「津嶋牛頭天王」、背面に「文化十癸酉二月□□ 願主西町中」と書いてあります。

ここまで来ればすぐ浜名湖の船着場。
舞坂側には北雁木、中雁木、南雁木の三ヶ所に雁木(がんぎ=スロープ状に石を敷きつめた船着場)が設けられた。
舞坂北雁木
左は北雁木。
灯台のような常夜灯が立っている。北雁木は諸侯(大名や公家、幕府役人)用で、中雁木が普通の武家、南雁木が庶民及び荷物用とされた。
ずいぶんな身分差別ですね。

ここで船に乗って次宿、荒井宿へ向かいます。

舞坂今切眞景広重

廣重「東海道五十三次之内
 舞坂 今切眞景」

浜名湖は明応七年(1498)八月二十四日の地震で海寄りの濱が切れて遠州灘とつながってしまった。
その際、切れた砂州を今切(いまぎれ)と呼びます。
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