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2017.10.06 (Fri)

泉光院の足跡 257 荒井關所

荒井渡舟ノ圖広重
舞坂から渡船に乗ると荒井宿に着きます。

廣重「東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ圖」

向こう岸の右端に関所の屋根が見える。関所の前が船着き場。
先を行く船は大名が乗っている御座船だろう、丸に笹龍胆の紋を染めぬいた幔幕を張り、吹き流しや白熊槍が立っている。
右が丸に笹龍胆(ささりんどう)の紋。丸に笹竜胆紋
龍胆の花と葉をかたどった紋章で葉が笹に似ているので笹龍胆紋と呼ばれている。りんどうは秋に藍色の美しい花を咲かせるので藤原時代からお公家さんの間で使われ、後に武家では清和源氏の流れをくむ家がよく使っているそうで、武家が天下を取るようになってからは、ちょっと偉くなった侍は我も我もと源氏の系統であると称して自分の家の系図を源氏に書き直して、姓の上に「源朝臣」をつけた。この龍胆紋ももちろんそうなんで、これだけではどこの大名か確定するのは難しい。
うしろの船に乗っているのは下っ端の中間(ちゅうげん)共で退屈そうに欠伸をしている。
渡し船を管理していたのは荒井宿のほうで、舞坂側には権利はなかったようです。
渡し賃を見ると、延享三年(1746)では「船一艘二百七十文也。一人前船賃と云ふ事はなし。船に乘合はす人数へ一艘の船賃割合せ出す也。」でしたが、それから100年ほど経った弘化四年(1847)だと「船借切り上下共四百十七文、乘合は割付人数次第」でした。乗る人数が多ければ船賃は安くなる勘定です。
船賃に限っていえば100年ほどの間の物価上昇率は150%。
現在の百年前というとほぼ明治の末年。その間の物価上昇率は10万%(1000倍)を超えているでしょう。なにしろ江戸時代は物価に限らずすべてに於いて非常に安定な時代でした。ワタクシの子供の頃(昭和10年代)、お祭りの時にもらう飴買い銭は30銭だった。今の子供、1000円くらいは欲しがるだろう。
新居関所です。昔は荒井と書きましたが今は新居です。
新居関所
船はこの手前の岸に着くので、下りたらすぐ御關所だった。

新居関所正面

左は新居関所の正面。

そして右は厳しい顔を見せている関所の御役人。新居関所内部

御役人の後には弓矢や槍・鉄砲などが並んでいる。不審な者は容赦はしないぞ!ということか。
徳川幕府は、西の方の旧豊臣方に属していた大名の反乱を非常に恐れていたので、このように箱根、そしてこの荒井の關所を厳重にしたのでした。
『諸國道中袖鏡(天保十年刊)』に、「御番所有、女、武具御改有也。吉田の城主より勤番也」。女・武具は言うまでもなく「入り鉄砲に出女」の取締。
新居関所女通行手形

男が通る場合は、「御關所上下共男は我が所を名乗り、其行先をいつわりなく申上げて通るべし。女は上下共御手形上る也」で、左がその「女手形」。

男は「○村の×助です、△町へ行きます」と言えばよかったのだが、女はこのような書付を提出し、確認を受けた。
新居関所鉄砲通行手形
右の書類は水戸藩主徳川光圀が京都から江戸へ鉄砲一挺を取り寄せる際に発行した手形。同じ徳川御三家のうちであっても武器の搬入は厳重にチェックを受けたのでした。
鉄砲や武器を江戸へ持ち込むことを厳しく取り締まるのはわかりますが、なぜ女の出国を厳しく取り締まったかというと、大名の奥方は江戸に、いわば人質としてずっと居ることになっているので、大名が参勤交代で國元へ戻っている時に、奥方が國元へ行けば人質が逃げ出したことになるのでそれが困るのです。
新居御關所にはこのような書類がたくさん残っていて、当時の管理が厳重であったことを今に物語っているのです。

無事御關所を通り抜けたあたりは商店街だった。かの彌次郎兵衛喜多八の両名はここでウナギの蒲焼きを食べていますし、戯作者・狂歌師として知られた太田蜀山人南畝は本来の仕事である幕府の役人として大坂銅座御用のため寛政十三年(1801)に出張した時、ここで「鰻よろしと聞きて、ある酒屋に立寄りて食すに、味ことによろし、駿河なる柏原のものと同日の論に非ず。」と激賞しているのです。
ワタクシがまだ湖西市あたりに住んでいた頃は浜名湖畔に鰻の養殖場が沢山あって鰻を出荷していました。うなぎ料理渥美
亡息一周忌の時、横浜のムジコン(Musica Conchertino の略)という亡息も一緒にやっていた古楽のアンサンブルの人たちを、まずお昼に駅前近くの創業1907年という老舗鰻屋でウナギを食べてもらった。お店の中に生け簀があって、お客の注文があってからウナギをさばく店だった。
右はウナギ料理いろいろ。上から時計回りに蒲焼き、肝吸い、白焼き、丼。
お店の勧めはタレをかけないで焼いた「白焼き」(下のお皿)。ウナギ本来の味をいかして甘くとろりとしたウナギを味わうのです。
法事のあと、エピファニーという亡息の好きだったフランス料理の店を貸切にして持ち寄った楽器でミニコンサートをしたのでした。

荒井の宿を出ると街道はやがて山にぶつかるので左に折れて海岸べりに出ます。白須賀宿はもともとは海岸沿いにあったのだが、宝永四年(1707)の地震と津波で壊滅したので汐見坂の上に移転しました。
白須賀広重汐見坂圖東海道五十三次

廣重「同会堂五十三次之内 白須賀 汐見阪圖」

絵は汐見坂の途中から見た風景。
眼下に遠州灘が広がり、白い帆が海に映える絶景を見ることが出来た。
ごく最近まで国道1号線がここを通っていたのでトラックがひっきりなしに轟音を響かせていて怖い道路だったのだが、以前有料だった浜名バイパス、汐見バイパスというのが無料になった途端、トラックはそっちの方に行ってしまったので、こっちを走るトラックは激減して、汐見坂から遠州灘
以前この坂の途中にちょっと平らな場所があっていつもトラックがたくさん止まっていた空地が空いたので、そこに車を止めるとちょうどこの景色とよく似た景色が眺められるようになった。違うのは沖の白帆に代わってタンカーや自動車運搬船が居ること。





右は白須賀の町並。昔の街道風景です。白須賀宿街並



白須賀の宿場を出ると遠江國から三河國に入ります。最初の宿場は二川宿。
二川猿ヶ馬場広重東海道

廣重「東海道五十三次之内 二川 猿ヶ馬場」

白須賀の先に猿ヶ馬場という小松の生えた原があった。今はこのあたりに日本を代表するような電気関係の工場が建ち並んでいて昔日の面影はない。
二川広重猿ヶ馬場茶屋

柏餅が名物だったようで、画面左の茶屋に「名物 かしハ餅」の看板が上がっていて、男が一人、注文しているのかお金を払っているのか。
二川広重猿ヶ馬場部分

三味線を背負った女が3人、やはり茶店に向かっている。盲目の彼女たちは三味線の弾き語りをして各地を廻っている瞽女(ごぜ)という女芸人です。娯楽の少なかった田舎では喜ばれました。
水上勉に「はなれ瞽女おりん」というのがあります。水上勉文学の中でも最高という評価の高い小説です。映画にもなりました。岩下志麻がこの映画で最優秀主演女優賞を貰いました。
二川の、この淋しい風景の中に瞽女がいることでいっそう寂寥感があふれ出ています。旅を続け、芸を売ることで生きている彼女たちの人生をも感じさせる一枚です。
二川宿の場所は国道1号線が町なかを通らなかったので今でも古い面影を残している町です。町のすぐそばをJR東海道線と東海道新幹線が通っているけれどもこれもほとんど町並には影響を与えなかった。
二川脇本陣二川脇本陣上段の間

左は二川宿本陣の馬場家。そして右が上段の間。
享保年間(1720年代)建築の表門、宝暦年間(1750年代)建築の母屋、文化年間(1800年代)建築の玄関、土藏などが豊橋市の補修で残っている。雪隠(トイレ)や風呂場も公開している。裏の空地には二川宿本陣資料館というのもあってよく出来ているそうです。
窟屋観音正面
JR東海道線(新幹線も)の二川駅から京都方面に向かって右手の窓から山の方を見ると小高い山(107m)の上に観音様の立っているのが見える。窟屋観音真横

岩屋觀音といいます。

明和二年(1765)と台座に記入してあった青銅製の觀音様だったのだが、この前の戦争の時に「供出」させられてしまって、いま立っているのは昭和25年の再建です。
電車でここを通った人はたいていこの観音様を見たことはあるでしょう。身長9尺6寸(約3m)のこの観音様は、江戸下谷の大工、茂平と善左衛門が寄進しました。彼らは豊川に架かる橋の設計施工を担当したのだが、壊れない橋を設計するために七日間お堂に籠もって祈願し、満願の日に、夢に觀音様が現れて、橋の最適勾配をることが出來て、無事橋は完成したのです。それでここに觀音様を寄進したのでした。

今の豊橋市が吉田の宿です。
吉田広重豊川橋東海道

廣重「東海道五十三次之内 吉田 豊川橋」

豊川橋は今の国道1号線の橋よりももう少し下流にあって、この絵のように吉田城からはるかに「小手をかざして」見る様な距離だった。吉田広重お城から遠望

吉田広重豊川橋拡大

この橋は長さが百二十間(約218m)あって、矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大橋に数えられていました。それだけに、架橋を請負った大工はお堂に籠もって祈願をしましたし、完成の暁にはお礼の気持ちを込めて觀音様の像を寄進したのでした。
豊川橋を大名行列が渡っている。それをお城の修理に来ている大工が珍しそうに眺めている。
吉田城天守閣
右の吉田城天守閣は築城当時のものではなくて、これも明治維新後にすべて取り払われてしまったのを昭和29年に復元したものです。

吉田城の城主も 濱松と同じように、「代々の諸侯連綿として居城し玉ふ。」と譜代の大名たちが次々とやって来ては次の領地に転勤なさる。しかも所領というのは非常に少なくて、濱松が5~7万石、ここ吉田も7万石といった程度。仙台伊達の62万石、加賀前田の102万石、薩摩島津の77万石といった外様大名に比べると将に雲泥の差。
それでも東海道の交通の要地として宿場はたいそう繁盛した。さらには当時のガイドブックにもあるように、「此宿大に繁華にして娼家多し」であって、「昔唄に曰く、♪吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で♪」というような唄が流行ったのです。吉田広重吉田通れば二階から

この唄は、俗説では家康の孫娘で豊臣秀頼の夫人であった千姫、吉田御殿に美男を招き入れた、といううわさ話によるものであって、おそらくは事実と異なるだろうと思います。

右の絵は廣重の「人物東海道五十三次 吉田」。
まさに二階から招いている図です。

二川から来た道は、吉田城の前を通って豊川橋を渡るのですが、その途中に創業文化年間という「菜飯田楽」を食べさせる「きく宗」というお店が今でも営業をしております。泉光院が歩いていた頃でもそのお店で菜飯田楽を食べることが出来たのです。


豊橋きく宗店の前豊橋きく宗菜飯田楽


このお店は昔は東海道に面していたのだが、吉田大橋が御城の近くに架け替えられて国道1号がそっちの方になったので、このお店の場所はちょっと捜しにくい裏通りになってしまった。
ワタクシは豊橋ではほとんど食事をしないのだが(前に書いた、白菜と豚肉のすき焼きの件のためです。豊橋の食べ物に嫌悪感を持っているのです)、饂飩の「東京庵」と、この「きく宗」だけは立ち寄って食べるのです。この菜飯はダシで炊いたご飯に大根の葉ッパを細かく刻んだのを混ぜ合わせただけのものなのだが、不思議と美味しい。
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