2018-11- / 10-<< 123456789101112131415161718192021222324252627282930>>12-

2017.10.10 (Tue)

泉光院の足跡 258 御油

しばらく泉光院と離ればなれになっていました。また一緒に行きましょう。

「No.254鳳来寺」 の項で、鳳来寺の参詣を済ませた泉光院は、…納經所より下ること十八丁、… 1425段の石段を下りて門谷へ出ました。…麓に樓門あり。夫より三里に大川あり、瀧川とて渡船あり此上に宿す。
まさか船の上で寝たわけではないだろう。瀧川村は大川である豊川上流の寒狭川の渡船場のある村だったようだ。寒狭川は鮎釣の名所で季節になると大勢の釣り人が入りますし、鮎料理を食べさせるお店などもあるのです。

六日 晴天。 瀧川村立、辰の刻。新城と云ふ旗本の陣屋町を通る。長さ十丁計り、夫より永山村と云ふに行く、坂太郎と云ふ宅に宿す、朝暮馳走あり。
七日 晴天。永山村立、辰の上刻。一の宮へ詣納經。杉山の内、本社南向、夫より國分寺へ詣納經す。寺一ヶ寺、東向、夫より八旗八幡へ詣納經。東向大社也。境内廣し、乍然貧地故か築地も多く破れたり。夫より東海道筋御油の驛へ出づ。

豊橋と飯田を結ぶ「伊那街道 (国道151)」で泉光院は新城へ来ました。ここは領主が菅沼氏7000石の旗本。一万石以上でないと大名とは言わないし、御城を持つほどの身分でもないので、陣屋があるだけだった。
砥鹿神社奥宮本宮山
三河國一の宮は砥鹿神社。
向こうに見える綺麗な山が本宮山785m。砥鹿神社の奥宮です。豊川の河原から見た山容。きれいな三角形で、神様がいるのにふさわしい山。
でも殆ど頂上までクルマで行けますよ。

砥鹿神社里宮拝殿
こちらは砥鹿神社の里宮の方。普通にお詣りをするのはこっちの方。泉光院もここで詣納經をしました。

JR飯田線三河一の宮駅からすぐ。クルマなら東名高速の豊川ICからすぐです。


次は三河國分寺です。最近になって発掘調査が行われたようですが、私有地らしくて盛大に発掘はできないらしいのです。
三河国分寺塔跡
右が「三河國分寺塔跡」という標柱の立っている竹藪で、この竹藪の中に塔の礎石が発見されたらしいのです。

この標柱の前の道を右へ少し離れたところに國分尼寺跡があって、こちらは盛大に発掘調査が行われ、金堂・講堂跡の礎石がきれいにでていますし、しかもワタクシが行った時には既に中門というのが復元建立されていました。
三河国分尼寺金堂礎石

左が基壇の上に乗った金堂礎石。
右下が復元成った中門。
その後行っていないのでわかりません。



三河国分尼寺再建中門
この中門、ちょっと安っぽく見えて、こんなもの造らない方がいいのではないだろうか。
もし礎石だけだったら、頭の中で奈良東大寺の轉害門のような、あるいは法隆寺の中門のような堂々としたのを思い浮かべることができるのに。
わざわざ「国分寺・国分尼寺跡」というのを自分の趣味で見に行く人だったら、礎石があるだけで充分建築当時の姿を思い浮かべることができようものを、と思うのでした。
それから…八旗八幡へ詣納經、…とあるのですが、八幡神社が見当たらなくて、地図上で「八幡町」というのがあるので、きっとその付近に八幡様があったのだろうと思います。
泉光院はそのあと東海道へ出て御油の町へ入るのだが、近くに豊川稲荷があるのでそれを見ておきましょう。
豊川稲荷本堂
このお寺は妙嚴寺といって千手観音を本尊としているのだが、秘佛吒枳尼(ダキーニー)眞天というヒンドゥー教由来の女神も祀られているのです。豊川稲荷厨子

そのダキーニーがいつの間にか狐と一緒になったのが日本のお稲荷さん。
いろいろ経緯はあるのだが省略して、商売繁盛の守護神として祀られるようになり、神社佛閣の片隅、だんだん広まってデパートの屋上や会社工場の隅っこ、至る所にお稲荷さんが祀られるようになってしまった。
左は豊川稲荷本殿。右はその中の御厨子。

と余川稲荷厨子の前の狐
カワイイ狐が二匹、、狛犬の代わりに並んでいます。



泉光院とこのあたりで出会いましょう。
三河國分寺・國分尼寺・八旗八幡などをお詣りして「追分」という所へ出ます。
そこは浜名湖の北から本坂峠を通ってきた姫街道と、東海道が交わる追分です。
御油追分秋葉燈籠

左は追分の所に立つ秋葉燈籠。
そして道標などがたくさん立っています。
「秋葉三尺坊大権現道」、「国幣小社砥鹿神社道 是より二里卅町」の道標が見えます。ここの秋葉燈籠はとても大きくてとても目立つ場所でした。ところがその廻りにいつの間にか民家などが建ってしまって見つけにくくなってしまいました。
クルマで国道1号線を走っていると(京都方面向きに走っていると)右手に見える筈なんですが今はとても見つけにくい情況です。
七日の日記の終わりの部分、…夫より東海道筋御油の驛へ出づ、日も西山に落つる故に八旗村の修験寺大塚坊と云ふに宿す。外に山伏一人同宿。
御油松並木

御油には今も立派な松並木。
これは昭和16年にはすでに国の天然記念物に指定されました。御油と赤坂の間およそ600mの間、江戸時代そのままに生え揃っていて、中には幹廻り4m近い巨木も残っています。
天正三年(1578)、織田信長の部下が植えて、慶長九年(1604)に徳川秀忠が整備させたものだといいます。ゆるくカーブしている道に、このように見事に育った松の木の間を歩くと、しばらくの間は浮世を離れた思いになること必定。


御油広重旅人留女東海道五十三次

だが廣重版画では松並木の風情ではなくて、旅人を旅籠に無理矢理引きずり込もうとしている圖。

「御油 旅人留女」





御油広重旅人留女部分
拡大してみましょう。

道の真ん中で二人連れの旅人を何としても泊めようとがんばっている二人の女。女たちは客の男よりも体格も大きく腕力もありそうだ。
横を通っている芸妓や窓から覗いている女と比べればその凄さがわかろうというものです。
こんなのに捕まればもうどうしようもない。
旅籠の室内にある看板の解説をしておきます。

御油旅籠看板M

左に大きく「竹之内版」と書いてあるのはこの「東海道五十三次之内」の画集の出版元である保永堂の屋号が「竹之内」です。その右上のちょっと大きい看板は、左から「一立齋圖」、「摺師平兵衛」、「彫工次郎兵エ」、「東海道繪圖」と書いてあって、この作品を手がけた版元、絵師、摺師、彫師などの名前がわかるようになっているのです。
ほかの絵でもこのようないわば宣伝のような文字が入っていたり、廣重の「ヒロ」を組み合わせた模様が風呂敷に染めてあったり、空に舞っている凧の絵柄になっていたりしているのです。
御油の町並です。
御油大正期

大正の初期。







御油平成期

平成の初期。






あまり変わってはいませんねぇ。

東海道五十三次のうち日本橋から35番目の宿場であった御油宿はその名がよく知られ、繁盛した宿場でした。天保十四年(1843)に江戸幕府が編纂した『東海道宿村大概帳』には、宿内人別1298人(男560人・女738人)、宿内惣家數316軒、と東海道筋では小さな方に属する宿場でしたが、本陣3、旅籠62、と濱松や吉田と肩を並べるほどたくさんの旅籠がありました。5軒に1軒は旅館だったのでした。当然のことながらお客の取り合い競争は激烈を極めたことでしょう。^o^)
スポンサーサイト
19:44  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

*Comment

コメント:を投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメント:を表示  (非公開コメント:投稿可能)
 

▲PageTop

*Trackback

この記事のトラックバック URL

→http://azasosori.blog.fc2.com/tb.php/453-fdcd4307

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック:

▲PageTop

 | BLOGTOP |