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2017.10.14 (Sat)

泉光院の足跡 259 棒鼻

徳川家康が関ヶ原の戦いで勝ったのが慶長五年(1600)で、その翌年には東海道に傳馬・宿駅の制度を布いたのですから、強力な政権を維持するためにはまず通信・運輸の確立が必要、と考えたのでしょう。幕府は、先にも書いたように、大目付と勘定奉行に「道中奉行」を兼務させました。大目付も勘定奉行も老中に直属する役職で、大目付は大名や高家などの監視役を、勘定奉行は幕府の財政責任を、と両者とも重要な役職だったし、旗本から選任されるのだが大名並みの待遇だった。定員は両方とも4~5人で、その筆頭が道中奉行を兼務したのでした。つまり「国道」を管理するのは政府のきわめて重要な仕事だと幕府は考えていたのです。
街道筋に宿駅をさだめ、それぞれの駅には馬を常備し(駅=驛という字が馬偏なのは、通信・運輸のために馬を準備しておく場所だからです)、「朱印」を捺した手形を所持した幕府などの公用の人と荷物を、次の宿場まで送り届ける役目が宿場の問屋の仕事でした。問屋は幕府の公務、つまり朱印状を持った人や荷物を無料で輸送されるようにしました。そしてその代わりに税金を免除したのです。
参勤交代という制度ができたのは、三代将軍家光の寛永十二年(1634)からで、この時はまだ外様大名だけに義務づけられた制度でしたが、寛永十九年(1642)になると譜代大名にも参勤交代を命じました。それに伴って大名の宿泊施設として「本陣」という宿泊施設も問屋場の近くに作られるようになりました。
一般人の旅行客は、泉光院もおおむねそうなのだが、布団や鍋釜は自弁で持って歩き、「木賃宿」というところで木賃=燃料代を支払って自炊をする、というのが「たてまえ」で、次第に食事を出したり布団を使わせたり酒を飲ませたり、そうして給仕をするという名目で「飯盛女」というのを置いたのでした。当時の旅行ガイドブックには「飯盛女」の代金が 必ず記載されています。

東海道ではおよそ二里(約8km)ごとに宿場が置かれ、旅行者が増えるとともに旅籠や茶屋、土産物屋なども軒を連ねるようになりました。中でも御油宿が東海道屈指の繁盛な宿場となったのはこんな理由が考えられます。
○東海道と姫街道・本坂峠道、秋葉路の追分だったこと、
○濱松・吉田・岡崎が城下町なので、お侍サンの居るような町はイヤだったこと、
○御油宿と次の赤坂宿がわずか十六丁(約1.7km)しか離れていないので、両宿とも飯盛女を置いて、競争して泊まり客を必死で奪い合うことになったこと、
などでしょう。
十返舎一九は『東海道中膝栗毛』で、「留女、いずれも面をかぶりたる如く塗り立てるが袖を引いてうるさければ…」と書いたのでした。
赤阪旅舎招婦ノ圖広重
赤坂宿です。
廣重「東海道五十三次之内 赤阪 旅舎招婦ノ圖」

飯盛女は宿場女郎とも言われ、宿泊客の食事の給仕をするばかりではなくて、枕席も共にしました。
御油の圖が強引に客を引っ張り込む圖だったのに、赤阪では豪華にできている飯盛旅籠の内部。
庭にはその頃珍しかった大蘇鉄が植えられています。

赤阪旅舎内部お食事
左の部屋の廊下には湯上がりの男が片肌に手拭いを引っかけ、部屋の中には横になってくつろいでいる男。そこへ女中が夕食の御膳を二つ運んできた。その横で按摩が「お疲れでござんしょう、肩や腰、お揉みしましょうか」と言っているのだろう。

右隣の部屋を覗いて見ましょう。

赤阪旅舎内部お化粧
女が二人、鏡に向かってお化粧に余念がない。
きっと先に書いたように、…お面をかぶったように真っ白に白粉を塗り込んで、…今夜の支度をしているのでしょうか。
右奥の押入にはお布団がいっぱいつまっている。みんな厚くて上等のお布団のようだ。

赤坂の宿場へ行くと、もと旅籠屋だった「大橋屋」があります。今でも営業をしているようで、予約を入れると泊めてくれるらしい。
赤阪大橋屋

一階は普通のガラス戸になったが、二階の出窓は昔ながらの連子格子を残しています。




赤阪宿大橋屋内部
大橋屋の内部。
入ったすぐは土間になっていて、暖簾をくぐった所が帳場(この写真のお部屋)。

入ってみると天井には駕籠が吊してあったり行燈が置いてあったり、往時の大きな旅籠の様子がしのばれます。
慶安二年(1649)の創業と伝え、今の主人で19代続いている老舗で、庭に蘇鉄はないけれども廣重の絵のモデルだといわれていて、この写真の建物は正徳五年(1716)頃に建てられたものだそうです。
泉光院がここを通った時すでにこの旅籠は営業していたわけですが、彼はこの宿場を素通りしているのです。
ここの所から東海道は殆ど今の国道1号線と重なり、名鉄名古屋本線の横を通るようになって、次の藤川宿に入ります。
藤川棒鼻ノ圖広重

廣重「東海道五十三次之内 藤川 棒鼻ノ圖」


藤川棒鼻ノ圖部分



棒鼻(ぼうばな)は宿場のはずれ。右の牓示杭(ぼうじくい)というのを宿場の出入口や、國境、領地といった場所の境界に立てた。

この絵は幕府が朝廷に馬を献上する時の行列です。
藤川棒鼻ノ圖献上馬御幣
馬が2頭、背に御幣が立てられている。
宿役人や旅人たちが土下座している中を、お馬が進む。
廣重は天保三年(1932)に幕府御馬献上の一行に加わって、この儀式の圖を描く命令を受けていたので、その時の経験をこの圖の中に描き込んだのでしょう。


八日 晴天。八旗村立、辰の刻。御油の宿を通り岡崎の城下菊屋と云ふに宿す。

岡崎の町は面白い所で、東海道が「二十七曲り」という具合に屈曲しているのです。
徳川家康が関東へ移った後、天正十八年(1590)田中吉政がここに移封されて入城してから、城下町を盛んにするため、東海道を御城の北側、外堀の内側、に移して、これで通行の人馬が城内をとおれるようにした。同時に外敵には御城までの距離を長くし、味方は間道を利用して防衛線までの距離を縮めることが出来るようにしたのでした。
時代が下がって太平の世が続くようになり、19世紀初頭のガイドブックには、「まこと岡崎城は本多中務大輔の城にしてその賑ひ駿府に次ぐべし。」と書かれ 楽しかったらしいその泊りは、 ♪岡崎女郎衆はよい女郎衆♪ と唄にうたわれたほど女郎衆が主役だった。この時代の旅行ガイドブックには、こんな所に書くのはいささかはばかれるのですが、宿場の女郎衆の評価やその揚げ代なども詳細に書かれてあって、ここ岡崎は「揚代二朱也」(単純な比較はできませんが1万円くらいでしょうか)と少々高価だったようだ。
岡崎分間延絵図
岡崎の二十七曲り、まず古地図で見ておきましょう。
左は文化年間(1804~1814)に道中奉行井上美濃守藤原利恭以下の役人が編纂して、文化丁卯(1807)年春正月に完成した「東海道分間延繪圖」というもので、巻物仕立てで二部作られ、一部は江戸城内紅葉山文庫に、もう一部は道中奉行所に保管したのです。この地図は幕府の管理する五街道とそれに付属する街道の詳細を記入したもので、実に詳細に作られています。巻物仕立てですから方位は正確ではありませんが、所々に東西南北の記号を入れてあるのでおよそのことはわかりますし、距離の縮尺は、一里を七尺二寸として、これは正確に縮尺されています。左上は岡崎城を中心としたごく一部だけをのせました。
岡崎二十七曲り現代
こちらは現在の1/25,000地形図の二十七曲りの部分、赤線が旧東海道。真ん中左寄りに小さな赤丸を入れたのが岡崎城。
実に見事に27曲りになっております。
岡崎市も最近これを観光の「売り」にして、曲がり角ごとに石碑を立てて「旧東海道二十七曲り」がわかりやすくなりました。こういう道に沿って歩いていると、店のたたずまいもかなり古いものが残っておりまして、古本屋に立ち寄って、柄にもなく中原中也や伊藤整の詩集とか、そんなものがかなり安く買えたので思わずたくさん買ってしまったのでした。

岡崎の宿は大きくて、本陣3、旅籠112、伝馬80疋、人足297人、駕籠100挺が常備されることになっていた。
泉光院が泊まった菊屋という旅籠はその112軒の内の一軒でしょうが27曲りのどこにあったのかはわかりません。宿賃を払って出された飯を喰って、宿場女郎衆にも縁があろう筈もないし、草臥れたので日記を一行書いてすぐ寝てしまった。

徳川家康は天文十一年(1542)十二月二十六日、この岡崎城で呱々の声をあげた。岡崎城天守閣
当時、城は今川義元配下の武将が管理していたのだが、義元が桶狭間で戦死した後、今川家で人質になっていた少年家康がこの城に戻って独立することになった。そして濱松城に移るまでの10年間をここで過ごしている。だからこの城は江戸時代になってからは由緒ある家柄の譜代大名が配置されている。
♪五万石でも岡崎様は、御城下まで船が着く …♪
と俗謡に唄われた船着き場は、この天守閣の南へ下った乙川(矢作川の支流)の川端にあって、帆掛け船が三河湾からここまで上り下りができた。港があるということは輸送の経費が大幅に削減きるのでとても便利です。大八車や馬の背、人の背による運搬を考えるとその効果は計り知れないことが理解できます。
岡崎城船着き場
左の写真、ちょっと見難いのだが大きな木の根元に石碑が立っていて、その下に船着き場があるのです。
世界遺産研究の会で岡崎城を見学に行った日はとても暑い日で、この船着き場までの坂を下がったり上がったりしたのだが、とても草臥れたのでアイスクリームを食べて、お城の周辺や内部は殆ど見なかった。どうせ鉄筋コンクリの再建御城だという思いがあるので中へ入っても仕方がない。

九日 晴天。岡崎城下立、辰の上刻。菊屋と云ふ名により重陽なれば一句、
   菊かさねとは世にありし名なるべし
大濱と云ふ間の宿へ行きたる所、大雨に成りたる故、多四郎と云ふ者の宅へ宿す。
十日 大風雨。據なく滯留。秋日晝寢。

九月九日に菊屋を出た。この日は重陽の節句です。(新暦では10月19日だった。)
菊の花の咲く季節なので菊の節句とも言います。陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽の極である九が重なるというのでこの日はとてもおめでたい日とされました。で、例によって一句作ったのだが、この句はいったい何でしょうね。
岡崎矢矧之橋東海道五十三次

廣重「東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋」




矢作川(やはぎ)に架かる矢矧(やはぎ)の橋は東海道第一の長い橋だった。
長さは二百八間(約374m)もあって、現在の鉄筋コンクリート橋の270mよりも100mも長かった。
豊臣秀吉がまだ日吉丸と呼ばれていた少年時代、この橋の上で野武士の蜂須賀小六と出会った話は『太閤記』で名高いのだが、本当のところ、戦国時代にはまだこの橋は出来ていない。江戸時代になってから架けられたものです。はじめは土橋で、寛永十一年(1634)にこの絵のような板橋になったのだが、何度も流されて、12回も架け替えられた。
岡崎矢矧之橋部分
矢矧の橋を大名行列が岡崎目指して進んでいる。向こうには三層の複合天守閣や隅櫓まで描き込まれた岡崎城と城下町が描き込まれている。
橋の上の行列は、はっきりとはわからないが殿様の乗った駕籠と、警護する近習(家臣)、先箱、槍、長持、挟箱、長柄傘、そしてそれらを運ぶ奉公人などが整然と並んでいる。ひときわ長い槍(この絵の左の方)は飾槍で、大名の威光を表すとともに、その先端の形から遠い所からでもどこの大名かわかった。
「鞠と殿様」という童謡がありましたね。
♪金紋先箱供揃い、御駕籠の傍には髭奴、毛槍を振り振り、やっこらさぁあのやっこらさ♪
この歌は紀州の殿様のお国入りの情景でした。手から離れた手鞠がお殿様の手に入って、その鞠は、♪山の蜜柑にな~ぁったげななったげな♪。
なかなかいい歌です。好きな歌です。

大濱は岡崎と次宿池鯉鮒(ちりゅう=知立)との間の宿です。大雨を幸い滯留して昼寝をしている。何が気に入ったのかここで二十七日まで滞在しています。
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