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2017.10.16 (Mon)

泉光院の足跡 260 八橋

十一日 晴天。滯留。近村托鉢す。今日は讃州高松少將京都御即位御祝儀江府將軍の御名代として御通行の行列を拝す。伊達檜小鳥毛槍二本、白熊長毛槍二本、猩々毛大槍二本、乘馬曳馬廿頭、弓臺十張、鐵砲廿挺、供廻り六百人計り賑々し。

讃岐高松藩主、松平頼義120,000石。仁孝天皇御即位の儀式に、江戸の将軍徳川家斉の名代として列席のために上京する。その行列にぶつかった。
仁孝天皇が即位したのはこの年の三月二十二日で、同じ日に先の光格天皇は上皇になっている。どんな事情で天皇が交代したのかワタクシの知る處ではない。天皇家というのは時の政治権力によって思うが儘に操られた場合が多いのだから怪しむには当たらない。
大名行列錦絵
600人の大名行列は見事なものだったでしょう。
左は錦絵に描かれた大名行列の一例です。
毛槍といってもいろいろあるのだ。泉光院はいろいろの種類の毛槍の名前を挙げているので捜してみたのだがワタクシの手持ちの資料では見当たらない。殘念。
こんな大きな大名領列となると一つの宿場に全員揃って宿泊というわけにはなかなか行かない。前後二つとか三つの宿場がいっぱいになったりする。前田の殿様は多い時には2000人の行列を作ったので、東海道とか中山道といった大きな街道でもこれだけの大行列が通行するとなるとかなり前からキチンと予定を立てておかないといけないので、だいたい半年から一年位前から各宿場宛に通行予定を連絡して準備を調えておく。それでも予定外の大雨とかハプニングとかで乱れると大騒ぎになる。本陣とか脇本陣など、通行が鉢合わせしないように事前に調整をしておくことも必要だった。だから、道中奉行の職を大目付と勘定奉行の中から兼帶で担当するのはまことに理に叶ったことだった。

十二日 晴天。滯在。托鉢に出づ。櫻の宮と云ふに祭禮あり詣づ、此祭禮馬を飾り鞍の上に幣を立て、種々作り物をなし、氏子供より上がる也。馬十六匹、一匹に三十人附く。其内四人計り鐵砲を持ち道々打つ也。又牧内村と云ふに觀音堂あり、此寺より因果經の和讃を印施に出せり、貰ひ行く、庵主松茸を呉れられたり。
十三日 晝より雨、滯在し少々托鉢せり。

櫻の宮というのはどこだかわかりませんが、祭禮の行列で馬を引き連れながら道々鉄砲を撃つというのは物騒な気がする。
このあたりで有名なお寺というと、源義経と浄瑠璃姫のラブロマンスの誓願寺とか、松平・徳川氏の菩提寺である大樹寺というのがあるのだが長い滯在の間泉光院はこれらの寺には立ち寄っていない。

十四日 晴天。 晝より大西風、初寒強き故托鉢少しにて歸る。扨此邊より尾州の内にては庭に大いなる池を掘り、水を溜め、塵を入れ肥料にする、其池の土を掘り上げて田畑に入れる、大方其池の傍らに井戸あり、其井戸には池の惡水洩れ入る也、因て惡水多し。
十五日 晴天。滯在。今日は昨日の大風に吹かれ眼病になれり、因て休息す。一句、
   西風に打たれて目まで紅葉せり
今日は故郷にては鎭主祭禮也。多く柿を賣物に出せり。因て一句、
   故郷の面影見ゆる熟柿かな
十六日 晴天。滯在。托鉢。梅の宮と云ふ祭禮に詣づ。

泉光院がこのように長く滞在しているときはたいてい宿主やご近所の人たちと仲良くなって、句のやりとりや、加持祈祷をやってあげて食べ物の差し入れを受けたりしているのだが、ここでは全くそんな気配はありません。

十七日 晴天。滯在。八つ橋の古蹟一見に行く、本街道より北に入ること八丁にして八つ橋村と云ふ。禪林一ヶ寺、書院の庭に少しの泉水ありて崩れ橋掛けたり、杜若(かきつばた)少々殘れり。業平竹と云ふは小金竹なり。一と本薄(ひともとすすき)など云ふあり、此寺より西十丁計りに小庵あり。此所も八つ橋の古跡と云ふ碑石立てり。古へを思ひダシ、八つ橋の古跡を尋ねてと前書し短冊を殘し置く。
   八つ橋や身に入み々々(しみじみ)と水の色
八橋かきつばた
知立の町の少し東の方に在原業平の古跡がいくつかあります。
有名なのは無量壽寺の庭園にある「八橋」です。国道1号線を車で知立から東へ走って、名鉄三河線を越えたあたりで旧東海道へ入ると間もなく標識があってここへ行く事が出来ました。
前にNo.245 宇都ノ谷峠 の項で業平のことは書いておいたのでここでは歌だけを書いておきます。


 
  らごろもつつなれにしましあらば
  るばるきぬるびをしぞおもふ

と、 かきつばた を頭に詠み込んだ歌を作って涙を流したので、それ以来ここは杜若の名所になった。
(かきつばた、にアンダーラインを入れておきました)
No.244 吐月峰 の所で吐月峰柴屋寺を、No.245 宇都ノ谷峠で在原業平のことを書いていた岡本かの子の小説、今度は八つ橋です。小説から引用します。

…私も街道に取憑かれたのであろうか。そんなに寂れていながらあの街道には、蔭に賑やかなものが潜んでいるようにも感じられた。一度は藤川から出発し岡崎で藤吉郎の矢矧の橋を見物し、池鯉鮒の町はずれにある八つ橋の古跡を探ねようというのであった。大根の花も莢になっている時分であった。そこはやや湿地がかった平野で、田圃と多少の高低のある沢地がだるく入り混じっていた。畦川が流れていて、濁った水にひとひらの板橋がかかっていた。悲しいくらい周囲は眼をさえぎるものもない。土地より高く川が流れているらしく、やや高い堤の上に点を打ったように枝葉を刈り込まれた松並木が見えるだけであった・「ここを写生しとき給え」と主人が言うので、私は矢立を取り出したが、標本的の画ばかり描いている私にはこの自然も蒔絵の模様のようにしか写されないので途中で止めてしまった。…

と『東海道五十三次』の中で書いている。
ワタクシは高校の国語の教科書で岡本かの子のこういう小説を習って、ついでに彼女の奇妙な夫婦生活のことや、晩年の耽美妖艶な物語も少しは読み、そうして何よりも東海道とか、古い街道の持つ魔力のようなものにいつの間にか染まってしまったようです。この小説は高校生の国語の教材としてはあまり妥当なものではないと後の文部省(いまは文部科学省)の役人は思ったのだろうか、最近の教科書には採用されていないようですね。ワタクシのような風来坊人間になっては日本の将来によくない、と思っているのであろう。

十九日 晴天。近所に祭禮あり參詣、序(ついで)に托鉢。
二十日 晴天。滯在。托鉢に出で晝歸る。
廿一日 晴天。滯在にて初茸狩りに出る。一句、
     茸狩りに出づるも頭陀の一つ也
廿二日 半天。股引仕立てる。同宿の僧、大濱の宿と云ふを興歌に詠めるに、予も物の名にして、
     今日も亦餘所の情けにあふ濱の 眞砂の數とつきぬ旅人
廿三日 大雨。滯在。晝過晴る。
廿四日 晴天。岡崎矢矧の橋御普請成就に付辰の刻渡り初め一見に行く。三夫婦渡り初めの式なり。只江戸よりの諸奉行當所の係の衆役方一見の上渡り初められたり。序に家中托鉢。

矢作橋の再建工事が完成したので渡り初めの式があった。今でも橋が出来た時には三夫婦(一族三世代夫婦)による渡り初めがあるのが普通だし、泉光院の時代でもそうだったのだが、この時は江戸から来た担当役人(きっと道中奉行配下の役人だったのだろう)と、地元の役人が工事の完了を確認して渡り初めの式を行ってお終いになった。泉光院は九日にここを通った時にはまだ橋は完成していなかったのかも知れないし、渡り初めの儀式は江戸からの役人の到着を待って行われるので、とりあえず渡れたのかも知れない。わざわざここまで儀式を見物に戻ってきたのだから、ついでに岡崎の家中(=武家屋敷町)で托鉢をした。
岡本かの子も矢矧の橋は木下藤吉郎(豊臣秀吉)が日吉丸であった頃、この橋で蜂須賀小六に拾われた場所だと思っていたようだ。ワタクシも子供の時は物語の本でこのことを読んで覚えていた。戦前の子供はみんなこの物語を読んで知っていた。

廿五日 滯在。晝より大雨に成る。徒然一句戯れに詠める、
     憂き事は娑婆の習ひと世を出ても 亦行く先に海川のあり
平四郎は夜に入りて歸り皆々濡れたり。欲には身もかゆる事也。
廿六日 晴天。滯留。終日休息明日出立の諸用仕舞方す。

ようやく出発する気になったようだ。これから先は、名古屋から、一の宮、岐阜、美濃、と進んで、No.251 遠州沖之洲 の項で書いておいた、沖之洲村のイワさんから頼まれた届け物を、美濃國田栗村の政藏さん宅へ届け、それからずっと南へ下って養老の滝を見て、津からお伊勢さんの方へ行って、、鳥羽で年宿をとってこの年を終えることになります。
泉光院のように思いのままに風に吹かれて歩いているようでも、…憂き事…があるのだろうか。あるとすれば平四郎と意見が合わない事ぐらいでしょう。彼は相変わらず托鉢に精を出していて、ずぶ濡れになって帰って来た。
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*Comment

■木遣り

コメントありがとうございます。姫サマから頂くととてもウレシイです。
木遣りで思い出すのはワタクシの祖父。
大工をしていましたので建前の折には唄ったらしいのだが、家へ戻ってからは余り唄わなかったようだ。
ワタクシが4ツになったころ、中国戦争、南京陥落で提灯行列があったことを覚えている。きっとその頃から建前があっても折詰を持って帰ることもあまりなかったようだし、お酒を呑むこともなかったように思う。それでもほんの一度か二度、聞いたことがあるのです。
ワタクシが少しばかり長じて、音楽が好きになったり、歌を歌うことが好きになったのは、きっと祖父の遺伝だと、ワタクシは信じているのです。
めでためでたの若松さまよ枝もしげれば葉も茂る・・・
すてきにおめでたい唄ですね。
ワタクシの父親は繁雄という名前だったのだが、ずっと中国戦争に行っていて、病で帰ってすぐ死んでしまったようだ。名前のようには繁らなかったようだ。
母親はワタクシを生んでからすぐ結核で死んでしまった。
戦前の日本の庶民の生活はこんなようなものでした。
ヨリックです |  2017.10.17(火) 19:57 |  URL |  [コメント:編集]

街道はいいですね。
旧東海道は華やかだったせいか、今でもその名残がありますね。

大名行列の毛槍で思い出しました。
昔、木遣りをちょっと習っていて、友人に話したら、「ええーっ! 雨宮さん、毛槍なんか習ってどうするの」と言われてしまいました。
「毛槍じゃなくて木遣り。めでためでたの若松さまよ」と歌って、やっと納得してもらいました。
雨宮清子(ちから姫) |  2017.10.16(月) 22:08 |  URL |  [コメント:編集]

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