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2017.10.25 (Wed)

泉光院の足跡 262 牛頭天王

熱田明神に詣納経した泉光院は、
…夫より名古屋城下へ一里町續き御菩提所建中禪寺と云ふに詣納經。客殿の後に御城主御靈屋あり拝す。樓門あり、門前町多し。夫より五百羅漢へ詣づ。御城外郭空堀凡一里廻り、追手口西にあり、天守は直ちに見ゆ、城内に家中屋敷多し。…
建中寺三門
左、建中寺の三門です。
3間重層入母屋造本瓦葺の大きな門で、これは慶安四年(1651)創立当時のが今も残っているようです。
泉光院の拝した御靈屋というのは明治になるまでは四廟あったといわれるが今は一つだけ残っているそうです。
また禪寺と書いているけれども今は浄土宗のお寺で、歴代藩主のお墓があります。

名古屋城天守閣櫻
名古屋城は高さ48m、五層の大天守閣は高層ビルの立ち並んでいる町の中からでも時々見えることがあります。泉光院の歩いていた頃はほかに高い建物がなかったからよく見えたでしょう。
金の鯱。名古屋城のシンボルです。雌雄一対。
鯱のモデルはインドの「マカラ」という龍に似た想像上の生き物で、水を吹いて火を消す事が出来ることから天守閣の上に据えられた。大坂城や江戸城にも金の鯱は飾られたのだが、火災や破壊などで残ったのは名古屋城だけになり、明治6年にウイーンの万国博覧会に出品した。最初に作った時は金の鱗の品位も高かったのだが、江戸時代中期になって尾張藩では支出が増大して財政が逼迫した時、金鯱の鱗をはがして金貨の純度を下げて余剰金を作り出して、悪化していた藩財政を改善する事に役立った。こんな事を3度もやったので終いには下から見上げても「色が悪くなった!」というので、鳥の糞防止のため、と称して鯱に金網をかぶせた。
現在輝いている金鯱は昭和38年に復元したものだが、金の純度は18金(純金は24金だから75%の純度)を88kg使った。費用は約4800万円だった。

…晝過城下を發し甚目寺と云ふ靈佛の觀音に詣づ。本堂南向十二間四面、樓門あり、納經す。日も西山に傾く故に門前の茶屋へ宿す。尾張大根とて名物也。此邊甚だ宜し。
甚目寺山門甚目寺三重塔







甚目寺の樓門と三重塔です。
尾張大根の絵

そして尾張大根。ずいぶん大きいですねぇ。





廿九日 晴天。甚目寺立、辰の刻。津島牛頭天王とて日本三ヶ寺の一社へ詣納經。本社南向、社地平原、境内山少々、町數多し、御師宅多し、樓門東向、町の南に大川を掘り入れる、木曽より流れ出る川筋也。六月祭禮には神船を始め山船多く浮かむと云ふ。…
津島神社船昼

名古屋の西、津島市にある津島神社は津島牛頭天王(ごずてんのう)といって、「津嶋、祇園牛頭天王の社あり六月十五日大祭也。」で、昼も夜も飾り立てた船が浮かぶことで有名です。
こちらは昼の船。



津島神社船夜

夜になると煌々と輝きます。






祇園というのは、中インド、シュラーバスティにあった、お釈迦様が雨安居(雨期の時の居住地)の時によく立ち寄って説法をした祇園精舎の事です。牛頭天王は祇園精舎の守護神で、八大龍王の眷属のようなものらしいのだが、それらはみな後世になって付加されてき8たものらしいから、あえて書かないでおきましょう。だいたいお釈迦様という人はそのような魔神に類するようなものは人間の「悟り」には不要な物として近づけなかった筈ですから。佛教が東方へ伝搬するに従って、しかも密教系統の考えが入るに従ってヒンドゥー教のいろんな神様が取り込まれてきて今のようなヴァラエティに富んだ有様になってしまったのです。
津島神社牛頭天王
左は津島神社の牛頭天王。奇怪な姿です。
牛頭天王を祀っているので一番有名なのは京都の八坂神社、さいたま市の氷川神社、福山市の素戔嗚神社。そのほか全国にある祇園社はみんな牛頭天王を祀っています。
牛頭天王は守護神としての一面を持っていて、外から来る悪魔などを徹底的にやっつける荒ぶる神の役割を持っているので、疫病除けの神様として信仰されるようになりました。
アマテラス系の神話では天照大神の弟である素戔嗚尊も荒ぶる神で、これと牛頭天王がいつの間にか重なってしまって、牛頭天王=スサノヲ=武塔神、という図式が出来たようで、それが「蘇民将来」の信仰と結びつくようなんです。

牛頭天王祭というのは、酷暑の夏に疫病などが流行しないように祈願する祭である場合が多いのです。京都の祇園祭、博多の山笠、などのように。
津島神社の川祭は古くは旧暦六月十四・十五日に行われましたが、今は7月第4土曜日とその翌日の日曜日。
津島神社宵船一隻

「宵祭」。これは左のように2隻のの船を繋いでその真ん中に高い眞柱を立てて、そこに一年の月数12個の提灯をつけ、その下に半球状に一年の日数365個(閏年は366個)の提灯を付ける。そのほかの飾り提灯なども合わせて一隻あたり550個ほどの提灯がつきます。それが五隻なので、一回の祭で最低でも2750ほどの提灯がつきます。明治以前の蠟燭は、櫨の実からとれる木蝋で作るのですから高価な貴重品でした。だからこの祭を支える地域の人たちの金銭負担は大変なものだったでしょう。この提灯の下は神聖な場所で、いかなる悪魔も入り込めない場所でもあるのです。
この船が巡航を終えると、さっそく翌朝に行われる「朝祭」の船に仕立て直さなくてはなりません。
津島神社朝船一隻

右が「朝祭」の船。
最高部には能装束をまとった人形が乗ります。
先頭を行く当番船は必ず『高砂』。ほかの4隻は毎年能の番組が変わるので、それを見るのも楽しみです。お囃子は篠笛なんかではなくて、能管による笛の独奏曲が吹かれるのです。

五隻の先頭には「一江車」という佐屋町一江地区の船が加わって、それには10人のフンドシ姿の若者が布鉾を持って、途中から天王川に飛び込んで、津島神社に通じる岸まで泳いでいって、神社に布鉾を奉納します。

朝祭の終わった日の深夜、社殿に奉納されていた「神葭流し」という大切な行事が行われます。「神葭」は一年間本堂に納められていて、参詣の人びとの祈願を受け止めていたのを流して、そして次の一年間のために新しい「神葭」を納めるのです。

もう一度、前の方にのせてある船の運航写真をじっくり眺めて下さい。
この船の運航は、京都祇園祭の「山・鉾」の運行と同じような意味を持つものでしょうし、「神葭」も蘇民将来の護符である茅の輪と同じだと思います。

簡単に蘇民将来の事を復習しておきましょう。
昔、牛頭天王が老人に身をやつして旅に出たとき、とある村で宿を求めたのですが、その時裕福な長者である弟の巨丹(こたん)将来は冷淡にあしらって追い出し、貧しい兄の蘇民将来はやさしく招き入れて、粗末だが食べ物を与えてもてなしました。
そこで牛頭天王(地方によってはスサノヲであったり武塔神であったりします)が正体を明かして、「近々この村に死の病が流行るけれども、おまえの一族は助ける」といい、また蘇民の娘が巨丹の家へ嫁に行っているので、その護符として茅の輪を腰に付けさせるように言って牛頭天王は去ったのでした。のちに巨丹一族は疫病の流行で全滅したのでしたが、蘇民の一族はみな助かったのでした。これが蘇民将来の大まかなお話しです。そうして古代からずっとこの信仰は続いているのです。
蘇民将来伊勢注連縄

左は伊勢地方の玄関の注連飾り。
「蘇民将来子孫家」という字が大きく書かれた「門」という字の中に書いてあって、災厄がこの門を入らないようにしているのです。一年間ずっと玄関に飾っておきます。
蘇民将来京都八坂神社ちまき

右は京都八坂神社で祇園祭の時に配っている「厄除けちまき」。これには「蘇民将来子孫也」と書いてあります。
信濃国分寺八日堂蘇民将来護符

こちらはワタクシが信濃國上田の信濃國分寺八日堂へ1月8日に行って手に入れてきた蘇民将来の護符。
六角形の表面に二文字ずつ「蘇民・將來・子孫・人也・大福・長者」と書いてあります。
1月8日早朝から八日堂の前で売っています。
信濃国分寺八日堂雑踏

右が八日堂の門前の雑踏(この日だけ)。
この門を入って本堂迄の参道の両側、蘇民将来の護符を売るお店と買い求めるお客でごったがえします。
ワタクシは世界遺産研究の会でこの護符を買うためのツアーに参加して、前日は別所温泉で入湯していたのでした。
蘇民将来美濃白山中宮長瀧神社

こちらは美濃國白山中宮長瀧寺・長瀧神社の宮司である若宮家へ行った時に手に入れたもので、これには「蘇民将来子孫門也」と書いてあります。これを玄関に打ち付けておけば、災いはこの門を敬遠して入ってこないのです。
(だがワタクシの家にはこの護符も、玄関飾りもつけてはありません。なのでいろいろの災いは勝手に入り込んでいるようです。^o^)

茅の輪くぐり、という行事も旧暦六月、今なら夏の初め、に行います。
牛頭天王や素戔嗚尊、スサノヲなどを祀ってある神社では右のような茅の輪を立てます。住吉神社茅の輪

この輪のくぐり方は、「水無月の夏越(なごし)の祓(はらい)する人は千歳(ちとせ)の命、伸(のぶ)と云ふ也」と唱えながら、正面向いてくぐって左へ廻って8の字を書くように今度は右へ廻ってくぐって、もう一度左へ廻って、正面へ出ます。神社の前まで進んで拝礼します。
こうすることによって、昔は夏によく発生した流行病や、あらゆる災厄から逃れる事が出来るというのです。
ワタクシがこの行事を始めて知ったのは横山サンと近江八幡市の日牟禮八幡宮へ行ったときでした。

蘇民将来の護符を一月八日に配っているのは信濃國の八日堂だけではなくて、東北地方で一番有名なのは岩手県水沢市(今は合併して奥州市水沢区)の黒石寺の蘇民祭。
蘇民将来黒石祭礼風景
左がそのお祭の風景。
これ以上大きくここに載せると問題になりそうな場面が多いので極端に縮小しておきました。
蘇民祭に限っては公衆の面前で全裸となっても、これは長期にわたる歴史的慣行であり宗教的儀式として地域社会に認知されているという理由で、刑法上の「公然猥褻物陳列罪」には当たらない、ということになっているのです。(でもワイセツ物とはねぇ)
一月七日午後十時、善男善女が瑠璃壺川に入って、水垢離をして身を清め、五穀豊穣・災厄消除の祈祷をします。11時半、鐘の合図で行列を作って、ジャッソウ、ジョヤサ ジャッソウ・ジョヤサのかけ声とともに気勢を上げます。八日午前2時から蘇民将来の護符を入れた麻布製の蘇民袋を持った住職と総代が藥師堂に登って厄払いと五穀豊穣の祈禱をします。午前4時頃から蘇民袋の争奪戦が始まり、蘇民袋は切り裂かれて護符はばら撒かれます。裸の群衆が争って拾います。
この護符は、一寸(約3cm)の六角形の小さな物です。

泉光院が、…津島牛頭天王とて日本三ヶ寺の一社へ詣納經。…などと書いたためにずいぶん関連のことをたくさん書いてしまった。だが、中世・近世の日本人の心の中にはこのようなことがずっと頭の中に、そうして日常の生活の隅々にまで浸透していたのでした。
明治になって、新政府の政策は、このような考えはすべて旧弊蒙昧であって排除すべきものとして捨て去り、文明開化をして欧米に追いつき追い越すことこそ將來の日本の進むべき方向である、という風に決定をしました。それはある意味、正しい選択であったとは思います。それでも少しはその残渣が残っていたために、ある程度今に伝統行事として残っているので、それらを拾い集めることでワタクシもこのような駄文を書いて楽しんでいることが出来るのです。
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