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2017.11.03 (Fri)

泉光院の足跡 264 田栗村

十四日 晴天。權の島立、辰の刻。濃州谷汲の方へ赴く。高木と云ふ所に去る子の年越中立山登山の節同道したる新六と云へる六部あり尋ね行く、然る所相違なく在宅、折節一昨日回國供養したりとて未だ其世話人算用に詰合せ居たり、因て一宿す。

去年の夏立山へ登山した時のことはNo.173 芦峅寺 ~ No.176 立山で事件発生 の項で詳しく書いておきましたが、その時一緒に登山をした人がこの高木という所に住んでいる新六という人だった。この人は帰国してから回國記念碑のようなものを立ててお祝いをしたのが一昨日で、だから立山登山や回國の話で盛り上がったことでしょう。世間は広いようで狭いのでした。
回國をする、ということは当時としては大事業でしたから、泉光院も帰国してから「日本九峰修行」の記念碑を自分のお寺の庭に立てましたし、その碑はいまでも残っているのです。泉光院はこのように詳しい日記を書き残しておいたおかげでワタクシも楽しく書くことが出来ます。

この高木という村は、金華山麓、長良橋を渡ってR256を北へ行った所で、今は山県市の市役所のあるあたりです。ほぼ一ヶ月ほどこの美濃の山中をあてもなく歩いているように見えるのです。途中で田栗村の政藏さん宅へ寄って、遠州沖之洲村の尼イワさんから頼まれた「預かり物」を届けるのですが、それ以外は寺社参詣もしていないので、ちょっとしたエピソードを拾って書くだけにしておきます。

翌日は西深瀬村、東洞村、という今でも名前の残っている村で托鉢しながら泊めてもらって、そのうちに、…道に迷ひ大桑村と云ふに行きたり、日も夕陽に成る故次兵衛と云ふ大百姓の宅へ一宿貰ひたり。…と鳥羽川という谷の奥まで入り込んでしまった。ここは東海自然歩道が犬山城から西国三十三觀音の終着点である谷汲山華厳寺へ行く途中のルートですから、今だと案内標識が整備されているから道に迷うこともないだろうが昔は大変だった。
またこのあたりは美濃紙の産地で、
…峠を越へ岩井と云ふ村へ行き托鉢の處、此邊紙漉にて塵紙計りを呉れる故托鉢を止め彦七と云ふに宿す。…とか、…槇谷と云ふに赴く、此所は諸國に名の觸れたる美濃紙の産地也、一見し托鉢せんと入る。大川あり、川の兩岸一里の間紙漉計り也。…とどこへ行っても紙漉きばかりで、托鉢をしてもお米やお金ではなくて塵紙しか出してくれない。馬鹿馬鹿しいから托鉢は止めてしまった。

…小牧村元衛門と云ふに笈頼み置きて川下に下り、小倉村藤助と云ふに宿す。此邊左右上下紙ハタス音の喧しく水音の身に沁むを聞きて一句、
   紙はたす音の沁みこむ寒さ哉
…平谷村の奥カタジと云ふ村こそ日本に名の觸れたる美濃紙の産地也と云ふに付、右一見旁々托鉢に入る、…と書いているので、製紙産業の有様を自分の目で確かめたかったのでしょう。手も痺れるくらいの冷たい水で漉いた紙がいい、と言われていますから、製紙の実際を見物するには絶好の季節。

美濃紙の生産が始まったのは奈良時代、今から1300年以上も前のことです。
しばらくは紙の製造技術を見ましょう。
右は原料の楮(こうぞ)。美濃紙楮
他に三椏(みつまた)とか雁皮(がんぴ)という木の皮を使います。紙の用途によって使い分けるのです。

製造工程は次のようです。

楮は一年で2~3mに成長しますから、冬刈り取って、大きな釜で蒸して皮を剥ぎ取りやすくします。美濃紙煮る
剥ぎ取った皮のうち、外側の黒皮と緑色の甘皮を削り取って白皮の部分だけにして、それを川晒しといって板取川の清冽な流水で晒して不純物を取り除き、日光に晒して漂白してから大きな釜でソーダ灰を入れて、(右のように)よく煮てアクを抜いてから、木槌でシッカリ叩いて繊維をバラバラにします。
美濃紙叩く

その繊維を樽に入れて、トロロアオイの根から抽出した粘液を混ぜてドロドロに(右の写真)しまして、
美濃紙どろどろ
美濃紙漉く



それから先はよく知られたように左のような設備を使って紙にするのです。


美濃紙干す

漉き上がった紙は積み上げて、一日脱水して、それから一枚一枚丁寧にはがして干し板に張り、、天日干しにすると仕上がりです。


このようにして出来た紙は非常に丈夫で綺麗で長持ちします。
正倉院には美濃紙に書いた大宝二年(702)の戸籍簿が残っているそうです。
ここに載せた写真は本美濃紙保存会というところのHPからいただいたものです。
利用するときには「教育を目的として」、「営利を目的としない」で、きちんと出典を明確にすること、と書いてあったので出典を明確にしておきます。

泉光院が…大川あり、川の兩岸一里の間紙漉計り也。…と書いた大川は板取川で、美濃市の所で長良川に合流する支流です。

極月二日 晴天。三田村立、辰の刻。田栗村夕方着く、先達て遠州沖之洲村よりの傳言、届け物預かりし政藏と云ふ宅へ頼み物等皆々相渡し今晩一宿す。
美山町田栗村地図

田栗村はいまは岐阜県山県市田栗という名前になりましたが、岐阜市の北、国道418号、武儀川沿いの村です(赤く囲っておきました)。
ちょっと古い地図ですから美山町の中に入っています。






こちらは遠州沖之洲村。
遠州沖之洲村地図

No.251 遠州沖之洲 の項で書いた場所です。
今は町村合併の結果で掛川市に含まれてしまったようですが、遠州灘に面した小さな村でした。
…沖之洲村は二百軒計りの所なれども善根宿一軒もなしと聞く、故に地藏院と云ふに宿す。…で、…沖之洲村立、辰の刻。庵主種々贈り物ありたり。且つ尼イワと云ふより國元美濃國クダリ村(田栗村の誤)政藏と云ふ弟宅へ傳言又送り物等頼み遣はしたり。預かり行く。…ということがあったのでした。

田栗村政藏さん宅で、姉のイワさんが元気で過ごしていること、遠州沖之洲村という所は気候も温暖で美味しい魚が手に入ること、富士山が綺麗に見えていい所だ、などと夜遅くまで話をしただろうと思います。頼まれた届け物とはいったい何だったのだろう。どこにも書いてありませんが、この姉弟にとってはきっと思い出のこもった物だったかも知れない。行きずりの山伏に頼んだのも、この人ならばきっと間違いなく届けてくれると信じて頼んだのだろうし、泉光院も約束したことは必ず実行する人だった。人と人とがゼニカネずくではなくて、このように信頼で結ばれると言うことは江戸時代では当たり前のことだったのだろうが、最近の世相を見ているといつの間にか日本人の心がすさんでしまったのだろうか、とつい考え込んでしまいます。
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