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2017.11.09 (Thu)

泉光院の足跡 265 谷汲山

田栗村の政藏さん宅で滞在しています。

三日 晴天。滯在にて衣類の洗濯する。先日道に迷いて一宿せし大桑村治兵衛と云ふの娘此邊へ縁付けし居らる、其子欠落したりとて方角占ひ呉れ候様頼み來れり。

ということがあった。日記にはこれだけしかないので、どんな占いをしてその結果子供が見つかったのかどうかわかりません。

美濃紙を作っている家で製造工程を見せて貰おうと托鉢かたがた立ち寄った家で、

…奥に庄九郎と云ふ老翁異人あり、晝食など出し予に話するよう、彼の南無阿彌陀佛と云ふ事は極々難有事(ありがたきこと)と承る。一枚起請にも唯々なむあみだ佛と申せば極樂往生無擬(うたがいなし)とあり、六字名號(=南無阿彌陀佛)何様の事も一切分り申さず、爰に弘法大師の念佛功徳經も所持し居れども分らず、其根本阿彌陀と云ふは如何様の佛と云ふ事を知らず、御存知あらば御聞かせ下されかしと云ふ。…

この家はたぶん門徒、浄土真宗なのでしょう。「門徒物知らず」という言葉があって、「なまんだぶ」さえ唱えておれば極楽往生疑いなし、というその一点だけを信じて一生を過ごす。佛教の教義など知らなくていいのです。山越阿彌陀禅林寺
「善人なおもて往生す、いわんや惡人おや」です。
佛教の勉強をして、清く正しく戒律を守って、自分では徳が高いなどと思い込んでいる、いわゆる立派な人、自称《善人》ですら阿彌陀様は極楽へ入れてくれる。まして日常の生活に追われて佛教の教義などは知らなくても、ただひたすらに「あみださま」の救済を信じて「なまんだぶ」を唱えている人をかならず阿弥陀さまは救済してくれる。
阿彌陀四十八願
右は京都永観堂禪林寺の「山越阿彌陀圖」とても大きな画で、このお寺の本堂で「見返りの弥陀」というカワイイ佛像を見てから長い廊下の奥の方へ行くとこの画を見ることが出来ます。山の向こうに大きく阿彌陀如來が衆生を招き、觀音菩薩と勢至菩薩が導いて下さいます。

阿彌陀如來が、まだ如來となる前は「寶藏菩薩」という菩薩だったのだが、衆生を救済するために48の大願をたてて修行に励み、それが成就したので阿彌陀如来となったのでした。
左が「和讃」の一部。 ♪四十八願成就して 正覚の阿彌陀となり玉ふ たのみをかけしひとはみな 往生かならずさだまりぬ♪ です。
南無阿彌陀佛 なぁまぁんだぁぶぅ~ で極楽往生ができるのです。

だが泉光院は當山派山伏で眞言宗の方です。ワタクシが上に書いたようなことは話さなかっただろうと思います。日記にはこんな風に続いています。

…因て弘法大師作の功徳經をあらまし講釋し聞かすれど、夫れにても合點行かず、右に付俗語にて話し聞かせる。扨彼の阿彌陀と云ふは理佛とて其體なし、天の一理をさして阿彌陀と名付け玉へり、人間にては六兵衛、八兵衛と云ふに同じ、只天の一理と計りは言はれず、大日と云ふも同じ事也。此三千世界は皆天の一理、彌陀の領分也、其内に生ずるものは皆阿彌陀の子也。因て現在親に孝行するも同前、因て念佛に皈命すれば親なる阿彌陀も悦び玉ふ道理也、夫れにて萬事感應ありと云へば老翁殿合點せられて悦ばれたり。右の話しにて隙取り夕方平谷へ歸る。

泉光院もそれなりに佛教の本質を説明しているようです。
ワタクシはキリスト教のことはよく知らないのですが、Godというものも泉光院に言わせれば…天の一理…であって実態のないものであって、三千世界すべてはGodの領分ですから、「我らの罪を許し給え」と祈れば救済してくれるのと同じなのでしょう。
前にもどこかで引用したと思いますが、ワタクシの好きなお経、『佛説聖不動經』の一説、不動明王というものも、「無相法身虚空同体なればその住む處なし、ただ衆生の心想の内に住じ給う、衆生の意想各々不同なれば衆生の意に従って利益を作し、所求円満せしむ」というように、実態のない、理念の上に作られたものであって、だから人は心の中で不動明王になったように考えて、不動明王の如く行動をすればよろしい、ということだとワタクシは常々思っているのです。
大日如來や藥師如來や、阿彌陀さまも觀音さまもお地蔵サンもみんな同じように人の心の中にだけ現れる「理念」のようなものだ、と泉光院も言っているようです。

十日 晴天。 龜海村(本巣郡大字神海の誤)立、辰の刻。西国三十三番札所谷汲山に詣納經。本堂南向、八間四面、寺六ヶ寺計り、門前茶屋少々、二王門より二丁石段あり、當山へは山中四里分け入る事也。…
谷汲山華厳寺仁王門正面
ようやく美濃紙の里を出立して谷汲山華厳寺へ来ました。右が大きな二王門。中には運慶作と伝える仁王がいて、その廻りにはここへ来た人が履いていた草鞋を脱いで二王門に奉納というのか、ぶら下げて行きます。巨大な草鞋もあります。
春になるとこの門の所から本堂までの石段の道の両側は櫻の花でいっぱいです。本尊は十一面観音。西国三十三觀音札所の最終納札のおてらです。
近くの根尾川というのを遡って行きますと「根尾谷断層」という有名な地震断層があります。
根尾谷断層地震直後

明治24年(1891)10月26日午前6時38分、ここの所を震源にしてマグニチュード8.0の巨大地震が発生しました。
この写真はこの「濃尾地震」を有名にした地震直後の写真です。昔の地震の教科書には必ずこの写真が載せてありました。


根尾谷断層現在
今はこの道も広くなって、道路のところはゆるやかになっておりますが、断層の所はかろうじて保存されているようです。
近くには地震断層観察館というピラミッドのような三角形の建物があって、垂直方向に6mずれているのが実にはっきり判るようにしてあります。
この時の地震では有感範囲が東北の仙台から九州の鹿児島まで(つまりほとんど日本中)だったのでした。そして福井県今立から愛知県犬山まで100kmに及ぶ地震断層が地表に現れたのでした。
そこからもう少し先に行くと根尾谷薄墨櫻が咲いています。

淡墨桜満開満開の薄墨櫻です。根回り10.5m、高さ27m、枝張り東西29m、南北24mのエドヒガンザクラの巨木です。
この櫻を見に行く時は根尾川左岸の国道157か、右岸の県道255のどちらかです。ワタクシは会社の定年間近になってからようやく自動車の運転免許を取ってすぐの春、見に行きました。往路を国道、復路を県道で走りました。ちょうど満開の時なので、猛烈な渋滞でした。
満開のこの櫻の下に立つと、さすが巨木というのはすごいもんですねぇ。まるで佛さまが目の前に現れたように見えて、人間がちっぽけなものに見える。
西行法師も櫻が好きだったようで、…ねがはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの もちつきのころ… と歌って、建久元年(1190)の春に死んだ。

谷汲山で詣納経をすませた泉光院は、
…夫より八旗の方へ赴く、大川あり渡船、永萩村醫師長俊と云ふに宿す。

と揖斐川を船で渡って池田町の八幡神社へ行き、それからずっと南、中山道の赤坂宿へでて、美濃國分寺と美濃國一の宮である南宮神社へと行きます。

十一日 晴天。永萩村立、辰の刻。直ちに八旗へ詣納經。本社一宇、南向、納經印は名主宅より出づ。夫より木曽街道赤坂の驛へ出で、國分寺へ詣納經。本堂一宇、南向、寺一ヶ寺、南向、垂井の驛へ出で、宮内村久衛門と云ふに宿す。

順調に寺社詣でがはじまりました。谷汲山を出て今の揖斐川町あたりで揖斐川を渡ると脛永(はぎなが)という村があるのでそこを永萩村と書いたのだろうか、そのまま真っ直ぐに中山道赤坂宿へ出る途中に八幡様があるのですが、小さいお宮なので専門の神主は居なかったようだ。納經印は村の名主さんの家で出してくれた。
広重木曽海道赤坂

歌川廣重『木曽海道六十九次之内 赤坂』です。今の大垣市の少し北西に当たります。
この川は杭瀬川で、川を渡った向こうに屋根が見えていますが、そこが赤坂の宿場。

泉光院が谷汲道から中山道赤坂宿へ出てきた所に右のような道標がありました。
赤阪宿碑たにくみ道

右側の細長い燈籠のような道標に「左たにくみ道」と書いてあります。右の屋根がついていて「赤坂宿」と書いてある立派なのは新しく作った物でしょう。


美濃国分寺跡空撮

美濃國分寺は赤坂宿から西の方へ行った所の山寄りにあります。
左が國分寺址の空撮写真。この写真は西側上空から撮ったものなので、写真の上の方が東で左が北に当たります。
右の方に南大門があり、入って真っ直ぐ進むと中門で、廻廊がとり囲んでいます。伽藍配置は、真ん中の方に基壇が見えていますが、塔が東で金堂が西、法起寺式のスタイルです(法隆寺式と塔・金堂の位置が逆)。 講堂は左の真ん中になります。
このお寺は平安時代887年に火災に遭って灰燼に帰してしまった。
美濃国分寺跡
美濃国分寺塔芯柱礎石

近くへ行ってみましょう。
左が「史跡美濃國分寺址」の標柱と金堂基壇。
右は塔跡の心柱礎石(中央茶色の石)。そしてはるか遠くのほうに屋根らしき物が見えているあたりが泉光院のお詣りした國分寺。ワタクシもそこまで行ってみました。
美濃国分寺再建
この國分寺は元和元年(1615)に再興したもので、本尊の木造藥師如來像は土中に長い間埋まっていたのを掘りだしたのだが、火災のために腕と腰から下を損じているので、当初はケヤキの一木造り、丈六(約5.4m)の立像だったのを坐像に作り直してこのお寺の一番奥まった所に安置してありました。それでも古い材料が残っているので国重文指定になっています。
十二日 晴天。宮内村立、辰の刻。直ちに一の宮へ詣納經。本社東向。回廊廿六間。神社諸堂多し、三重の塔又奥の院等あり、樓門矢大臣を安置す、社務寺中多し、境内に花表はなし、垂井の驛入口に一つあり。夫より福田島と云ふに行き一宿す。
南雲神社古地図

國分寺から垂井町の方へ出て、JR東海道線と新幹線の下を通り抜けて左へ曲がった所に南宮神社があります。南宮山(419m)全域が社域で、美濃國一の宮にふさわしい大きなお宮です。右に出しておいたのは江戸時代に作られた「南宮大社古圖」。泉光院が詣納經をした時代のものです。関ヶ原の戦いで罹災したけれども寛永十九年(1642)に徳川家光が再興しました。大きな樓門や回廊に囲まれた本殿と、回廊の左に三重塔らしきものが見えている。そこから奥の南宮山の方に登って行くと中腹に奥社があります。
南雲神社眞禪院三重塔

明治の神佛分離でここもその憂き目に遭って、三重塔、鐘楼、本地堂などといった佛教系の建物はここから排除させられて、1kmほど西の方に分離、移築されて眞禪院というお寺になっている。左が眞禪院に移された三重塔。

南雲神社yorick

左は今の南宮神社。写っている人間はyorickでございます。神社の写真をたくさん写してきたつもりなのだが、いま残っているのはこの一枚だけなので入れました(^^)

泉光院は…境内に花表(=鳥居)はなし、…と書いています。その通り鐵製の大きな鳥居は境内からずっと離れた垂井の町の中に右のように立っているのです。
南雲神社鳥居
南雲神社古地図鳥居部分
上の古地図を見ると(左に部分拡大しました)、十字路の所の左に鳥居が(少し薄いですが)鳥居が描き込んであります。
中山道は右下から上へ延びる道、左下から上がってくる道は名古屋からの道で、ここで合流してから十字路の所で左折すれば南宮神社に達します。そこの所に鳥居が造ってあったのでした。南雲神社御田植祭

右は5月4日に行われる御田植祭。21人の童女が田植のしぐさをするお祭です。



広重木曽海道垂井
廣重の『木曽海道六十九次之内 垂井』
雨のそぼ降る中、向こうの方から大名行列が宿場にやってくる。人々は道をあけて座り行列が通り過ぎるのを待っている。


どうでもいいことだが細部を見ましょう。
広重木曽海道垂井お茶漬広重木曽海道垂井広重の絵

左の、山に林の文字の入っているマークは、この画集の出版元である伊勢利の商標で、右の御休處に飾ってある数枚の絵は廣重の描いた風景画や美人画のようだ。さりげなく宣伝をしている。
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