2018-11- / 10-<< 123456789101112131415161718192021222324252627282930>>12-

2017.11.14 (Tue)

泉光院の足跡 266 日永の追分

南宮神社の参詣を終えて南へ下りました。

十三日 晴天。福田島立、辰の刻。左に養老の瀧見ゆる、折から寒風烈し雪也。古句の、瀧の音はたへて久しき氷りかな、斯の通り也。其より東海道桑名の驛へ夕方着し一宿す。今日は正月始めとて國元にては儀式事あり。旅なれば何事もなし。因て一句、
   正月の来る風情もなかりけり
養老の滝a
日記の日付は十二月十三日ですが、今の暦に直せば1月19日です。ほとんど大寒に近い頃です。
養老の瀧は凍りついてツララが下がっていた!

正月始めというのは、この日からお正月を迎える準備をするのです。すす払い節句とも言って大切な日でした。この日は特別に御膳を作って、その年の厄を祓い清めて、年神様やご先祖様をお迎えするための準備をするのです。この日から大晦日までのあいだ、家のすみずみの塵を払い、門松や飾松を山へ取りに行き、注連縄を作り、お餅を搗くのです。
昔はどこの家でも、儀式とまではいかないけれどもこの日からお正月を迎える準備をしたのでした。だが泉光院は、…旅なれば何事もなし、…

東海道宮の宿から船に乗れば桑名までは七里の渡で寝ていても着くのだが、大回りしてようやく桑名に着きました。
桑名七里渡口広重東海道
廣重版画『東海道五十三次之内 桑名 七里渡口』

満員の、といっても船は40人乗り、47人乗り、53人乗りという程度の船だが、客を乗せた船が桑名の港に着いて帆をおろしかけている。後に見える御城は桑名城。ここは交通の要所だから徳川家譜代の大名である松平氏の御城。
船着き場のあった所には「七里のわたし」の碑が立っていて、伊勢神宮一の鳥居と常夜灯がある。


七里の渡し鳥居と常夜灯
七里の渡し石碑



なるほど、伊勢参宮のスタート地点にふさわしい場所だ。
七里の渡し現状
だが振り返ると、これはまた何と! 目の前に広がるのは護岸工事の重機と鉄材、遙か向こうには長良川河口堰が巨大な壁を作っていました。
写真を写しておいたのだがちょっと見ただけではゴチャゴチャしていて何だかよく判らない。
廣重の『人物東海道 桑名』を見ましょう。
桑名人物東海道船着場鳥居
桑名の湊に船が着いたばかりのようです。
下船する老婆と若い娘にさっそく宿屋の客引きが、「お泊まりはぜひ私どもの旅籠にどうぞ…」と声をかけているようだ。右の方には伊勢神宮一の鳥居が一部分だけれどもちゃんと描かれていて、この鳥居をくぐって伊勢街道へと歩を進めるのです。
鳥居の向こうには桑名城の櫓も見えています。
伊勢神宮と、その末社の鳥居は神明鳥居と言って全部この絵の形です。一番単純な形です。

桑名城跡公園
桑名城も明治維新の時の戦いで破壊し尽くされ、そのあとで太平洋戦争で戦災に遭い、おまけに昭和34年の伊勢湾台風の被害にも遭いました。石垣の石は大部分工事用に使われてしまってわずかに船溜りなどごく一部に残っているに過ぎないようです。そして御城の跡地は「九華公園 きゅうかこうえん」(右の写真)という名前で整備されていて、ツツジや菖蒲の名所として市民の憩いの場所です。九華は、「く・はな=くわな=桑名」と呼ぶのが正しいらしい。とても広い公園でした。

この公園を出たすぐのところに春日神社という桑名の総鎮守社があるのだが、泉光院は日記には何も書き残していないのが不思議です。地元では「春日さん」と親しみをこめて呼ばれているのだし、古くから朝廷・幕府などの崇敬が厚くて、室町幕府・織田信長・徳川家康から神領の寄進を受けて、江戸幕府は代々その所領の保全に朱印状を出して保護しているほどの神社です。
朝日神社鳥居
「伊勢の桑名に過ぎたるものは銅の鳥居と二朱女郎」と言われたのが左の鳥居。
二朱女郎の方はともかくとしてこの鳥居には全面に細かな文様が鋳込まれています。

朝日神社鳥居部分
寛文七年(1667)年に青銅の鋳物で作られたものです。こんな鳥居は初めて見ました。
少し拡大してのせておきますが、この程度の写真では文様の細部がよく判らないのが残念。


これから先泉光院はかなり急ぎ足で伊勢まで行くのですが、ワタクシはゆっくり観光気分で行く事にします。

次に行くのは伊勢國分寺で、いまの鈴鹿市の鈴鹿市国分町にありました。國分尼寺もその東にあったようです。ですからそこへ行く前に東海道五十三次の三重県側の宿場、四日市・石薬師・庄野・龜山・關・阪の下といった所を簡単に見ておきましょう。
四日市三重川広重東海道

廣重「東海道五十三次之内 四日市 三重川」

四日市という地名は文明年間(1470頃)にこの地に浜田城を築いた田原忠秀という人が、四のつく日、4日、14日、24日、に市を開かせたからだと言います。
絵は宿場へ入る手前で三重川を渡っているところ。海岸近くでさえぎるもののない湿地帯が広がっていた。土手の柳は強風で揺れ、旅人は合羽を押さえたり笠を飛ばされたりして難渋している。昔はこのような一面の芦原は今は四日市コンビナートとしてすっかり埋めたてられて、一時は日本の公害の原点として有名になった。
日永の追分右京大坂左いせ参宮
四日市のはずれ、伊勢道と東海道の分岐点が日永(ひなが)の追分。
ここには神宮遙拝鳥居、常夜灯、道標、水屋があった。
道標は二つ並んでいて、右の文字の読める面には「左 いせ參宮道」、見えていない面には「右 京大坂道」と大きく彫られている。
向こうに見える屋根付きの、常夜灯も兼ねたようなのは「ひだりさんぐうみち」と彫ってある。

日永の追分伊勢参宮名所図会

左が『伊勢参宮名所図会』にある日永の追分。
ここに遙拝鳥居がなかったことを淋しく思った久井の商人六兵衛が、安永三年(1774)に私財を寄進して立てた。
六兵衛は基金として百両を泊村に寄付をして、村ではそのお金で土地を買い、地代を運用して常夜灯の油代やこの追分の管理費用に充てたのでした。ちょっと見難いのですがちゃんと神明鳥居が立っていて、脇には茶店などもあり、大勢の人が集まっています。
昔の人は、商売で利益が上がればそれはおおぜいの人の「おかげ」であるとして、橋を拵えたり燈籠を立ててその管理費をお寺や村に寄託したり、道標を立てて旅人の便宜を図ったりしたのでした。

先の桑名・船着き場の一の鳥居も、ここの鳥居も、伊勢神宮の20年ごとに行われる式年遷宮にあわせてその都度建て替えられました。持統天皇四年(690)からこの行事は始められました。第62回の遷宮は平成十七年の山口祭から始まって、平成二十五年十月にすべての行事が終わったそうですから、その間に鳥居の立て替えもあったのでしょう。

十四日 大雪天。桑名立、辰の下刻。八旗へ詣納經。西向、小社。夫より國分寺へ詣納經す。當村磯八と云ふに宿す。今日は終日大雪降り止まず。因て一句、
   大雪やこれも旅路のひとさとり
伊勢国分寺跡

左は伊勢國分寺址。


泉光院がここへ来た時にはまだ発掘調査などはされていなかっただろうし、説明文や石碑などもなかっただろう。近くに國分寺を名乗るお寺があったのだろうか。

十五日 晴天。大西風。國分寺村出立、辰の刻。伊勢の國一の宮都波岐明神と云ふに詣納經。本社南向、小社。夫より參宮街道へ出で上野の驛といふに宿す。
都波岐神社境内入口
右は都波岐・奈加等神社の境内入口の鳥居のあたり。
左は本殿。
都波岐神社本殿



ここは伊勢國一の宮ですが、もう一つ、鈴鹿山脈の山の方に行った所にもう一つ、椿大神社というのがあります。
椿大神社入道ヶ岳椿大神社参道


正面の山が入道ヶ岳906mで、この山の麓にあるのが椿大神社。
こちらの方は大社です。

両方とも伊勢國一の宮のようです。
日記の文面から見ると、日永の追分から南へ下って國分寺址へ出て、都波岐神社で詣納経してからすぐ伊勢参宮道へ出ているので、上の都波岐神社で間違いなさそうです。

ここでこの付近の東海道五十三次の宿場を見ておきましょう。
広重東海道石薬師石薬師寺

廣重「東海道五十三次之内
 石藥師 石藥師寺」

石薬師の地名は神亀元年(720年頃)に北陸にいて白山などを開いた僧泰澄が、…ここを通り玉ふに、靈光曄々(ようよう)たれば野を分て求め玉ふに秦然(しんぜん)たる樹林の中より異香薫じ十二神將現れ玉ひ、一個の奇石を捧ぐ、…でこの石を祀り、その後、…弘法大師、泰澄の蹟を追ひ、靈石を以て醫王の尊體を彫刻し…たのがここの石薬師だというのです。

広重東海道庄野白雨

廣重「東海道五十三次之内 庄野 白雨」

石薬師と庄野の間はわずか廿五丁(約2.7km)しかありません。
この絵は名作と言われているものです。
右下のほうに屋根がいくつか見えるから宿場の近くでしょう。急にやってきた豪雨で慌てて走り出している。この絵の中にも宣伝があって、右の唐傘に、上が「五十三次」、下が「竹のうち」という文字が書いてあるのです。
前に御油宿の絵の中で右側の茶屋の壁に大きく「竹之内版」と屋号が入れてあるのと同じ趣向です。出版元である保永堂の主人は竹内孫八という人でしたから。
スポンサーサイト
11:08  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

*Comment

sazanamijiroさま、コメントありがとうございます。
拙いものをお読みいただき恐縮です。
ワタクシも寄る年波、方々へ出かけることも難しくなってしまって、記憶を頼りに書いている始末なので、誤りもあるでしょうけれども、たわごとと読み捨ててくださるようお願いいたします。
これからも長いお付き合いどうぞ宜しく。
ヨリック |  2017.11.15(水) 19:38 |  URL |  [コメント:編集]

■石薬師

石薬師の由来を初めて知りました。
山の形もいいですね。今度訪ねてみます。

昔、椿大神社に行った時、「都波岐神社との間に論争があるが、うちが本物です。」などと神職の方が言っておられました。その時は、何のことやらわかりませんでしたが、いろいろ事情があるのでしょうね。

sazanamijiro |  2017.11.15(水) 10:35 |  URL |  [コメント:編集]

コメント:を投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメント:を表示  (非公開コメント:投稿可能)
 

▲PageTop

*Trackback

この記事のトラックバック URL

→http://azasosori.blog.fc2.com/tb.php/465-07294397

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック:

▲PageTop

 | BLOGTOP |