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2017.11.17 (Fri)

泉光院の足跡 267 關の地藏

十六日 晴天。上野宿立、辰の上刻。白子の觀音へ詣納經。本堂東向、八間四面、樓門二王。庭に不斷櫻とて四季に花あり。…
白子観音伊勢名所図会
『伊勢名所図会』にある白子観音寺です。
「又子安観音と云て、婦人の妊娠に是を祈る」、と古くから子授け、安産を祈願して各地から御札を受けに参詣しました。

白子観音不断桜
本堂左手にあるのが有名な「不断桜」(国天然記念物)。…境内にありて年中常磐(ときわ)に花を開く。日本一の奇樹也。…
上の絵図にも本堂の左手にそれらしい木が囲ってあるようです。

…夫より津城下町内に國府の彌陀とて靈佛あり、詣納經す。本社南向、七間四面、同境内に八間四面の觀音堂あり、西向、樓門二王を安置す。夫より又本街道筋關の驛の方に赴き椋本の驛に宿す。
津観音寺
次に「津の観音さん」として親しまれている恵日山観音寺で詣納經です。
ここは昭和20年7月の空襲で堂宇悉く灰燼となりましたが、日本三觀音の一つであるという聖観音菩薩立像と、國府阿彌陀如來三尊像は残りました。
左は新しく出来た本堂と五重塔。
津観音弥陀三尊像
右が「こうのあみだ」と言われているものです。泉光院の言う…國府の彌陀とて靈佛あり…という像です。
この阿彌陀は、伊勢の天照大神の「本地佛」と言われるもので、このあたりが日本に於ける神佛混淆の面白いところで、阿彌陀如來が日本の國では天照大神となって出現しているというのです。だから伊勢参りの時にはこの阿彌陀さまにもお詣りしないと片詣りになるというのです。
外にもそういうのは各地にあって、近江国の多賀大社はアマテラスの両親であるイザナギ・イザナミを祀ってあるので、「伊勢へ詣らばお多賀へ詣れ、お伊勢お多賀の子でござる」という具合にして、そこへお詣りしないと片詣りになる、というのです。

ここから少し戻るような形になりますが、一旦引き返して關まで行って地藏院にお詣りをします。
伊勢別街道というのがあって、関西方面から伊勢へ行くときはこの道を通ります。
東海道関宿の東口から椋本の宿を経て津の宿までの、いまの道路だと「県道10号線」という味も素っ気も無い名前になってしまった。
泉光院はその道を津の城下から椋本の宿で一泊して關宿のほうへ行きます。
鈴鹿川を渡って坂を登れば關宿ですが、その少し東の方に龜山の御城があるので、廣重版画を見ておきましょう。
広重東海道亀山雪晴

廣重「東海道五十三次之内 龜山 雪晴」

まだ朝焼けの残る、すっきりと晴れ渡った空。青空の下、墨と白で一面の銀世界を見せてくれる。
急坂を御城の方に向かって大名行列が進んでいるのだが、笠が並んでいるだけのようにしか見えない。

亀山城石垣
ここに御城を築いたのは豊臣秀吉の頃の岡本良勝だったが、関ヶ原の戦いで自害し果て、そのあとに徳川方の大名が次々と入れ替わった。石垣の上にいま残っているのは多門櫓というもので、正保年間(1645頃)に本多俊次が建てた。本来ならば明治の時に取り壊されるはずのものだったのだが、士族に職業を与える「授産所」として木綿段通の生産工場に利用したので御城は生き残った。

野村の一里塚東海道はこの石垣の下の方を歩いて行くと右手に野村の一里塚(左の写真)というのが残っていて、椋(ムク)の木が植えられている。左の塚に植えてあったのは榎だったというのだが、塚は道路の拡張か何かでなくなってしまっている。
ここから坂を下って鈴鹿川の川岸を少し歩くことになるのだが、以前ここを榎※サンという人と連れだって歩いた時、川岸に大きな榎の木が生えていて、その人は…アラ、この木が榎よ、…と教えてくれたので、ワタクシは始めて「榎」の木を認識したのでした。
榎中山道志村一里塚
一里塚に植えられた木は殆どが榎でした。松や杉の木は常緑で、夏は木陰をつくり、冬は防風に効果があるので並木道に植えられましたが、榎は根張りが強いので、一里塚の崩れ防止に効果があったので一里塚の多くは榎でした。
少し余談が続きます。
右は中山道志村一里塚(東京都板橋区)の榎。道の両側とも残っています。見事な榎です。(これは南側の一里塚)
榎も椋も欅もニレ科の木ですから椋を植えてあってもおかしくはないのだが、一里塚というと85%以上が榎です。
慶長九年(1604)、幕府は街道に一里塚を築くように定めたのだが、役人が殿様に「何の木を植えましょうか」と指示を仰いだところ、「異な木を植えよ」、つまりありふれた木ではなくて、かわった木を植えよという、殿様(或いは上司)らしい命令をした。部下は何度も聞き直すなどとは畏れ多いので、考えあぐねた末に「エノキ」を植えることにしてしまった、というのは後世の笑い話。

關宿へ入る手前の坂を上がっていく途中の左手に小さな松の木があって、「関の小萬のもたれ松」といいます。関小萬のもたれ松m
右がその松の木と碑。
久留米藩士牧藤左衛門というのが何かに理由で殺されて、その妻が仇討ちのために関まで来たのだが、山田屋という旅籠で女の子を出産し、産後の肥立ちが悪くって死んでしまう。その子が小萬です。彼女は母の意志を継いで亀山に武術の修練に通うのだが、やはり年頃ともなると村の若者たちが誘ったり戯れかかったりする、それを避けるために身をひそめたのがこの松の木の陰だ、というのです。現在の松の木は小さい木なので小萬が身をひそめた時の松ではなくて代替わりをしているのでしょう。小萬は男共の誘惑を避けて武術の修練のかいあって見事に父の仇を討った、と伝えられています。
関福蔵寺m関小萬の碑

左が小萬のお墓のある福蔵寺で、境内には小萬をたたえた大きな碑(右)がある。



関の名物お菓子は「関の戸」。
関の戸看板関の戸お菓子
お菓子屋の看板とお菓子の写真を載せておきます。
関の戸というお菓子は漉餡を白いギュウヒ皮で包んで、和三盆をまぶして、鈴鹿の嶺に積もる雪をイメージしたものだそうです。とても上品でオイシイ。


小萬のもたれ松を過ぎて少し坂を上がると宿場入口で、「昔、此処鈴鹿の關也。故に關と云ふ」。平安時代に関所があったのだが、織田信長の時代には廃止されていたようだ。関伊勢別街道鳥居

小萬のもたれ松の所から關の宿場に入った所で、この鳥居の所で「伊勢別街道」が別れます。
泉光院は津から椋本を通ってこの鳥居の所から關の宿場へ入ったのでした。


十七日 曇天大西風。椋本立、辰の刻。東海道筋關の地藏へ詣納經す。夫より伊賀の國に赴く。上野領内大付村長五郎と云ふに宿す。

広重東海道關本陣早立

廣重「東海道五十三次之内 關 本陣早立」

参勤交代は江戸の防備のために大名を交代で江戸に呼び寄せたもので、禄高によって人数などが指定されていた。だが平和な時代になると次第に華美となり、その費用は大きな負担になった。關宿には川北本陣と伊藤本陣の2軒、鶴屋脇本陣など2軒があった。
大名行列の出立は朝早くで、この絵でも暗いうちから準備に怠りない様子。
ちかごろ、お祭などで大名行列を真似事でやっていて、♪御駕籠の傍には髭奴、毛槍を振り々々やっこらさぁのやっこらさ♪ときわめてのんびりと歩いていますが、実際の大名行列はたいそう早足で歩いて、一日八里から十里位は歩いた。
関地蔵院遠望

關宿の町並です。
正面に見える屋根が地藏院。
「九關山寶藏寺地藏院、關宿の中間にあり。眞言宗。本尊地藏尊、長(みたけ)三尺六寸、僧行基の作、坐像也。境内に愛染堂、焔魔堂あり」で、この地藏尊は地藏像としては日本最古のものだそうで、♪關の地藏に振袖着せて、奈良の大佛婿に取る♪と唄われた福徳円満の相好なんだそうです。
関地蔵院m


上が地藏院で、櫻の木の奥に建つ愛染堂(右)は國重文です。関地蔵院愛染堂m

愛染堂は小さいけれども文永四年(1267)の建築で、三重県でも一番古い建物でしょう。
地蔵院前を下ると国道1号線に出てそこから鈴鹿峠の登りになります。


広重東海道阪之下筆捨嶺
廣重「東海道五十三次之内 阪の下 筆捨嶺」

關宿から阪下宿へ行く途中に岩根山というのがあります。この山は、「俚諺に云ふ、狩野古法眼、東國通行の時、此山の風景を画にうつしてんやと筆をとるに、こころに逮(およ)ばず山間に筆を捨てしとぞ」という伝説のある山で、画聖といわれた狩野元信がこの山の景観に惹かれて描こうとしたのだがその絶景の故なのか、それとも激しく変化する天候に追いつけなかったのか、ついに筆を捨てた、というので、筆捨山というようになった。
今の地図には本名の方はなくなって、筆捨山だけが残っている。
狩野元信は室町時代の絵師で、狩野派二代目。近世に於ける狩野派繁栄の基礎を築き、京都御所、大徳寺大仙院、妙心寺、石山本願寺などの障壁画を描いております。
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