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2017.11.29 (Wed)

泉光院の足跡 269 伊勢參宮

廿四日 晴天。大神宮へ當所より掛け參りす。朝辰の上刻立ち、先づ外宮へ詣で、天の岩戸内宮の方へ下り、宇治町の内法樂舎とて内宮納經の判出る寺あり。夫より内宮へ詣づ、寒中故參詣の者一人もなし、間の山乞食共一人も出でづ、八十末社も社主一人も居らず、内外とも剃髪の者神前迄參りても咎むる者もなし。夫より外宮の司淨明寺と云ふに行き納經判取る。又川崎と云ふ所に日輪、日の丸とて二ヶ寺參詣所あり。是は法然上人の古跡也。月ノ輪の石碑に古歌一首あり。
   月影のうつらぬ里はなけれども詠むる人の心にぞすむ
とあり。夫よりヲバタへ歸り宿す。
   取りあえず手向けや雪の白幣

泉光院も伊勢神宮、外宮・内宮ともにお詣りをしました。
ちょっとその前に伊勢齋宮と齋王のことをちょっとはさんでおきます。
斎王の森

松坂と伊勢のちょうど中間の所に「斎王の森」があります。
この斎宮跡は1970年以来発掘調査が行われていて、この森を中心に東西約2km、南北約700mに及ぶ広大な遺蹟で、21世紀の今でもまだ調査は続行しておりますし、近くに斎王歴史博物館もできて、出土品や、斎宮、斎宮の歴史がよくわかるように展示されているらしいです。
斎王の森あやめ

この森の東を流れる蛭の沢にハナショウブの原種(三重県天然記念物)があって、これを移植して右のような見事なお花畑が出来ました。6月初旬が開花期です。
この時期にこの博物館へ行って、恬子(やすこ)サンやその他おおぜいの齋王のことをよく知りたいと思うようになりました。

斎王まつり6月
齋王のことは以前 No.094 葵祭 の項でかなりしっかり書いておきましたがその時の写真もあわせて載せておきましょう。



左は齋王の森のある明和町で6月上旬の土・日に行われる華やかな齋王祭です。
葵祭御所斎王代宮中儀












右は葵祭の時に京都御所で行われる齋王代の儀式や衣装。
葵祭斎王代衣装

いったん齋王に任ぜられると、天皇が死亡するか譲位をするか、あるいは母や兄弟の死亡などといった忌み事がないと京へ帰ることは出来ないし、帰ったところで婚期を失している場合が多いし、元齋王、という大きな肩書きだと普通の女としての一生を送ることはとても困難なことだっただろうと思います。
そういう意味で、恬子サンは、たった一夜のことであったとしても「狩の使」の「をとこ」(この男は在原業平です)のことを一生の思い出として胸にしまっておけるでしょう。
恬子サンが齋王に任ぜられたのは12才の頃で、業平と出会ったのは18才の頃だと推定されているようです。15年ほど齋王勤務をしていましたから都へ帰ったときには27才になっていたでしょう。そして、…また逢坂の關を越へなむ…と言った業平サンに出逢うことが出来たのでしょうか。

泉光院とつきあっているとまったく色気のない話ばかりなので、ちょっと脇道に入って恬子サンに登場していただきました。

伊勢神宮外宮

まず外宮です。豐受大神宮といいます。
高倉山116mの麓にあります。
ここの神様は農業や養蚕を伝えた神様ですから、衣食住担当です。
伊勢神宮外宮お米m
アマテラスのお召し上がりになるお米はここで調達することになっているのだそうです。毎日朝夕に「日別朝夕大御饌祭 ひごとあさゆうのおおみけさい」という、神々に食事を捧げるお祭が行われるのです。

高倉山

外宮を出た泉光院は外宮の裏山、高倉山へ行きました。そこに古墳があって、その古墳の石室が江戸時代には天の岩戸と言われていて、外宮へ詣ったらその足でそこへ行くのがおきまりのルートだった。右の写真、真ん中の高い山が高倉山。そして左が古墳玄室の入口です。伊勢天岩戸

この古墳は6世紀後半の築造と考えられている円墳で、巨石横穴式の石室はとても奥深く珍しいものらしい。15世紀末にはすでに盗掘にあってこのように口が開いていた。今はここに入ってはいけないことになっております。
伊勢神宮へ行く観光客はこんな所へ行く人はまずいないでしょう。
宇治橋朝日
山を下りて内宮へ行きました。皇大神宮です。ここはたいていの人が行っているでしょうから詳しくは書きません。
五十鈴川に架かる宇治橋を渡ります。冬至の日の朝日は宇治橋の正面から昇ります。


宇治橋新築


橋を渡ります。

伊勢神宮御手洗場風景

右に曲がってずっと行くと一の鳥居があって(宇治橋の両側にも鳥居はありますがそれは無視して)その先に御手洗場(みたらしば)があるので手を洗い口を漱いで(心も清めて)から、左へ曲がって参道をずっとずっと進むと二の鳥居で、そのずっと奥の石段を登ると参拝の場所。これより先は進めません。

この鳥居の所で拝禮をします。伊勢神宮内宮石段



伊勢神宮は佛教を拒絶します。
江戸時代の神宮は、…剃髪の者…つまり僧侶や尼僧の格好をした人間はここまで進むことは許されませんでした。
貞享元年(1684)に芭蕉が参拝した時、彼は髪を剃っていたので神宮では二の鳥居までしか進ませなかったのでした。西行も、♪なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる♪と詠んだのだがやはりそこまででお終いだったようです。

しかし泉光院がここへ来た時は、
…寒中故參詣の者一人もなし、間の山乞食共一人も出づ、八十末社も社主一人も居らず、内外とも剃髪の者神前に參りても咎むる者もなし。…と書いています。
旧暦十二月二十四日(グレゴリオ暦だと1818/Jan.30)ですから大寒の時期でした。
だがあまりの寒さで神職は誰もいなかったので誰にも文句は言われずにお詣りができたようです。
伊勢神宮内宮新築

左が内宮正殿。
式年遷宮といって二十年ごとにすべてを新調します。
新築された時はとても美しい。でもここは伊勢神宮に属する神職のうちの限られた人だけしか入る事は出来ないようです。

内宮の神様はアマテラスで、はるか昔は天皇の住居の中に祀られていたのだが、アマテラスと天皇が一つお家の中に同居することは畏れ多い、ということになって、『日本書紀』によると10代崇神天皇六年(BC92)に別居することにして、御神体である鏡と劔を大和の笠縫村に遷して祀り、その後良い鎮座地を求めて、近江、美濃、と各地を転々としたのだが定まらず、11代垂仁天皇の第4女倭姫命が奉仕して、伊勢へ来たとき、「この國に居らまく欲す」とアマテラスが仰せになったのでここに宮を建てたのが伊勢神宮の始まりだというのです。
それで倭姫命が初代齋宮(いつきのみや)ということになり、以後ずっと天皇の皇女が齋宮の役を勤めることになったのでした。だが「記紀」に書いてあることを信ずれば紀元前1世紀、ということですが、実際には7世紀くらいになってからここに伊勢神宮を作ったようです。
伊勢神宮新社殿旧社殿

伊勢神宮は20年ごとに「式年遷宮」ということをします。建物は神明造りで、高床・切妻、茅葺きの屋根に千木と鰹木が付いていることと、柱は根元を地中に埋めた掘立式です。
柱が石などの基礎の上に立ててなくて土の中に埋めただけだから傷むのでしょうね。
左の写真のように同じ面積の用地を用意しておいて20年ごとに新しくするのです。左が新しい方で右が現用。
建物だけではなくて、鳥居や橋、さらには諸道具の類に至るまですべて作り替えるのです。これは単に古くなったり傷んだり、というばかりではなくて、製造技術の伝承、ということもあるのだろうと思います。
伊勢倭姫宮

右は倭姫宮です。外宮から内宮へ行く途中の倉田山という丘にあります。
その近くに間の山というのもあります。ここに尾上御陵というのがあって、それが倭姫命の墳墓だと言われています。倭姫命はアマテラスと天皇の間をとりもつ巫女の役目を果たすとともに、こんにちの「神道」の基礎を作った功績のある人なのですが、なぜか長い間その功績が無視されていて、大正年間になって初めて彼女を祀るお宮がなかったことに気づいて、右のような宮を作ったのでした。大正12年11月5日に鎮座の式が行われたということです。

泉光院は、…間の山乞食共一人も出づ、…と書いています。これは「お杉お玉」のことで、三味線を弾いて参拝客から投げ銭を貰っていた女たちのことです。

…お杉お玉など云ふて、ほいと(乞食のこと)と云へるものの娘、三みせんを弾き錢を乞ふに道行く人の衣類を指して紺さん縞さんなど云ふて子どもは彩(あや)など持ておどる也。…
お杉お玉伊勢参宮図会

左が「伊勢参宮図会」にあるお杉お玉。
掛小屋などがあってその中で唄い踊るのです。今でいうストリートミュージシャンでした。
お杉お玉の碑

右が彼女たちのいた場所を記念のために残した碑。「間の山 お杉お玉」と書いてあります。
身分差別のあった江戸時代。彼女たちは遊芸人として「乞食」に分類されていたのでした。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、…いにしへのお杉おたまがおもかげをうつせし女の二上り調子、べんべらべんべらちゃんてんちゃんてんとむしょうに弾きたつる唄の何ともわからず、往來の旅人此女のかほ(顔)に錢を投げつくるをそれぞれにかほを振りよける…とその風景を述べたあとに、弥次サン喜多サンも誘われて錢を投げるのだが当たらず、悔しまぎれに石を投げたら三味線のばちではね返されて逆に弥次サンの顔に当たってしまった。
お杉お玉の唄っていた唄は「間の山節(伊勢節)」というのでした。彼女たちはこの唄を唄いながら飛んで来た投げ銭を三味線のばちで受け止める、という芸もあって、川柳に、
   とんだ目にあいの山だと空財布  とか、
   間の山 人の情けを バチ(罰)で受け  というのがありました。
面白いものだから投げ銭をポンポン飛ばして財布が空になっちゃった、とか、せっかくお金をあげたのにバチで受け止めた、という言葉遊びです。彼女たちの唄った「間の山節」で伝わっているのは、行基が作ったものと云われ、

♪我に涙を添へよとや、ゆうべあしたの鐘の声、寂滅為楽と響けども、聞いて驚く人もなし、花は散りても春は咲く、鳥は古巣へ帰れども、行きて帰らぬ死出の旅、野辺より彼方の友とては、金剛界の曼荼羅と、胎蔵界の曼荼羅に、血脈一つに数珠一連、これが冥土の友ぞかし♪伊勢まいり柄杓
ずいぶん抹香臭くて、とても歓楽街で歌うようなものではないと思うのだが、それも時代というものでしょうか、ずいぶん人気があったようです。伊勢参りの人がおおぜい集まるいい季節ならお杉お玉も居たのでしょうが、泉光院がここに来たのは厳寒のさなか、神宮の神主も出ていないような時期だったから彼女たちには会えなかった。

右は神宮詣りの人が持っていた柄杓です。
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