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2017.12.17 (Sun)

泉光院の足跡 274 的矢湾

九日 晴天。松尾村立、辰の刻。今浦と云ふに行き托鉢、此浦より本浦と云ふに船にて渡り市三郎と云ふに宿す。草鞋法施の家也。
十日 晴天。西風。本浦立、辰の刻。一里に石鏡村と云ふがあり。夫より國崎村と云ふに行く、日も西山に落る故に宿求むる處、當所は庄屋付の所と聞く。因て庄屋宅へ行き岩吉と云ふに宿す。平四郎は別宿。
十一日 晴天。石鏡村立、辰の刻。浦傳ひオサス村と云ふに行く、當村番人托鉢差止と云ふに付胡蝶村と云ふに行き修行の處、日も西山に落つる故に宿求めんと思ふ折から平四郎は宿借りたるとて告げに來る、因て予も借らんと思ひ主人に云ひ入れたる處、一人も二人も同前也といふ、因て兩人共に宿す、徳左衛門と云ふ宅。
十二日 雨天。據なく滯在。仁王一部。三時共に馳走に逢ふ。
十三日 晴天。コチヤウ村立、辰の刻。當所より船便あり、カタコと云ふ村まで乘る、未だ午の刻なれども休息せよと云ふ者あり宿す。爲藏と云ふ宅。此人佛談すき也因て夜話に念佛根元の事申し聞かす。叉富士山に朝日の出る畫の一軸を出し仙臺の御用繪師の筆と云ふ、是れに讚し呉れよと申すに付一句讚す。
   朗らかに富士の笑顔や初日の出
志摩半島地図m

泉光院の歩き方は、今のワタクシたちの旅行とはかなり違っているのです。
この志摩半島東部でもそのいい例がありますので地図を添付しておきます。
赤い線が泉光院の歩いた道。

一番上のあたりが鳥羽市で、安楽島はそこからちょっとだけ右下に太い字で鳥羽市とある「市」の字の付近。
そこを出発したのが一月七日で、八日の丸山藥師はそこから左下に向かって矢印のある赤線の行き止まりの場所。
十日の石鏡村はこの地図の一番右端。
そこから海岸沿いに南へ下って、オサス村は今の相差(おおさつ)村です。
宿泊した所は一応□で囲っておきましたが小さく書いているので判りにくいですね。

このあたり、村の名前はかなりいい加減に書いているので訂正しておきましょう。
胡蝶村、コチャウ村、は畔蛸(あだこ)村の誤。オサス村=相差村。カタコ村=堅子村。

畔蛸村から堅子村までは2kmほどしかないのだが、何故か船に乗った。
富士山に朝日の昇る画を出してきて、賛をして呉れというので、誰にでも悦ばれるようなお目出度い賛を書いてあげた。
富士山に朝日の昇る画なんて俗っぽいようだが、当時はずいぶん人気のある繪なんです。
以前、ワタクシは世界遺産研究の会のツアーで、安芸国竹原という所へ行った時の事です。頼山陽の父親、賴惟清(らい・これやす)の生家へ立ち寄った時に聞いた話だが、この人は三つの念願を立てた。そのうちの一つが「生きているうちに富士山を見ること」だった。富士山というのは多くの人の憧れをかき立てるものだった。こういうワタクシも金澤から出て東海道筋に工場のある小さな会社に就職したのも、富士山の見える所で生活しようかナ、というきわめて単純な動機で浜名湖畔に工場のある会社に就職するつもりで東京都大田区の会社に就職を申し込んだのでした(奇妙な筆記試験の問題が出て、かなりいい加減な回答を書いたのだが、入社OKとなりました ^o^/)。

十四日 晴天。今朝も馳走あり。出立ち辰の下刻、直ちに的矢と云ふへ行く、廻船浦江戸通行の大船の湊也。此所は娼家多く繁盛の地也。當浦より三ヶ所と云ふ浦へ渡船の場所也。因て便船貰はんと或る宅へ立寄れば、其家の嬶(かかあ・奥方のことです)を始め俳諧話し好きにて、一句望むに付春興の一句書付遣はす。今晩は一宿せよと申す事になり、母屋は唐津屋市左衛門と云ふ、是れ亦俳人にて一句あり、別所に記す。別して饗應あり。因て一句、
   しやもじ取る手にも艶あり花の宿

相差からちょっと南へ降りた所が的矢湾です。ここもいい港で、風待ちの船がたくさん停泊するので繁盛している。
船で対岸の三ヶ所(という村)へ渡るつもりで船宿へ立ち寄ったら、俳諧の好きなおかみさんがいて、話がはずんで、一宿していってちょうだい、ということになった。的矢かき

…別して饗應…とありますから、ずいぶんご馳走があったのでしょう。きっとここの名物、的矢牡蠣も出たのでしょうか。そこのおかみさんがよほど美人だったのか、それとも牡蠣が美味しかったのか、…しやもじ取る手に艶あり…と、連歌なら恋の座に入れると素敵な句を作った。右が的矢牡蠣です。
いつもの泉光院の句とはちがう、ちょっと色気のある句ですね。
的矢牡蠣は美味しいですねぇ。ワタクシがいつも食べている牡蠣は、例えば浜名湖弁天島あたりで採れる養殖の牡蠣なんだが、あるとき Bistro de Turban というフランス料理屋で「的矢牡蠣があるから」ということで食べさせて貰った。まったく旨さが違うのです。洋食屋で生牡蠣を食べるというのもちょっと変なんだが、牡蠣とはこんなに美味しいものか!としみじみ思ったのでした。

ここから先の泉光院の足取りは、的矢湾から左上に行く(赤線の)道で青峰山正福寺へ往復し、そこから安乗埼にある志摩國分寺へ参詣、ずっと南へ下って志摩町の海岸をグルッと回って先端の御座岬にある爪切不動へ參詣、そこから船に乗って対岸の浜島町へ渡り、今度は北の方へ行って、地図ではちょうど中央くらいの所にある、もう一つの志摩國一の宮である伊雑宮へ行きます。そこから真っ直ぐに北へ行けば伊勢神宮内宮の裏手へ出るので、、左の方へ折れて、ちょうど左中程の所で途切れているあたりの所にある「天の岩戸」へ行きます。先に伊勢神宮外宮の裏山、高倉山にある天の岩戸へ行きましたが、今度のはまた別の天の岩戸です。

十五日 晴天。今日も滯在にて青峯山と云ふに登るべし、是非にと止めらる、因て滞在して登山す。此浦より二里、谷道野山道を行き、十五丁登れば寺一ヶ寺。納經す。大寺、本堂觀音、南向七間四面、外に堂社あり、當志摩の國の靈場也。坂普請の場にて硯水あり。巳の下刻的矢に歸る。馬が迎え麥麵等出る。
正福寺
唐津屋市左衛門という人は親切な人で、…青峯山に登るべし…と言ってくれたので、青峰山336mに登りました。
頂上近くに正福寺(右)があります。
金堂の本尊十一面觀音は秘佛で、相差の海から鯨の背に乗って現れたという伝説があって、漁夫、海女の守護神として信仰を集めております。
江戸時代、沿岸を通行する船は、山門左500mほどの所にある灯明岩の灯が航海安全の道標になった。
正福寺絵馬
金堂内部や絵馬堂には左のように航海安全を祈願する「永代護摩供」の御札や「絵馬」が所狭しと飾ってあって、海に生きる人々の航海安全の願いの強いことがうかがえます。

右は正福寺から的矢湾方面を見た所。正福寺から的矢湾遠望

海からはこの山がよく見るのです。

泉光院が歩いている道、鳥羽から英虞湾の方に向かっては、今はパールロードという自動車道路ができているのでずいぶん行きやすくなりましたが、昔は陸の孤島といわれた場所でした。はじめに載せておいた地図では泉光院は海岸線を歩いていますが、パールロードはその少し内側、少し太めの緑色の道がそれです。だがクルマに乗ってパールロードを走ると、海岸線の途中にある初代齋王倭姫命の御巡行旧跡とか、伊勢神宮に奉納する「熨斗鮑 (のしアワビ)」を造っている場所とか、國分寺跡などを見ることもせずに、豪華な観光ホテルとかゴルフ場やテーマパークとか、そんなところへ一直線、ということになりそうです。

パールロードの途中には、志摩スペイン村とか、パルケ・エスパーニャ、というものが出来ていて、左のような華やかなフラメンコを楽しむのが現代の旅行。
パルケエスパーニャフラメンコ

でも、こういう旅行もいいですねぇ。


十六日 晴天。今日迄は滯在せよと本家市左衛門より申す事に付滯留す。市左衛門宅薄茶出る。門松に寄せて一首祝し侍る。
   新玉の春をむかへて此宿の 千代を調ぶる門の松風
又一句、
   青柳につかねられたり笈の脚
三鳥の傳受けたき望みに付話しす、又膃肭臍(オットセイ)の敷皮を見る、大さ四尺四方計り。
十七日 晴天。的矢立、辰の下刻。此浦より三ヶ所と云ふ浦へ半道船にて渡る。宿せし宅より油、線香等施行に出せり。別れを惜しみ同船にて三ヶ所まで送られたり。晝過國分寺へ詣納經す。寺一ヶ寺、本堂南向、當所より安乘浦へ一里、志島と云ふに行き多次郎と云ふに宿す。

市左衛門さん宅は裕福なお宅のようです。きっと回船業か船宿か、そういう商売だったのでしょう。このあたりでは珍しく「門松」を立てていて、抹茶を飲んで、オットセイの敷皮を使っている(熊の皮などと違って温かくてすべすべしていて丈夫なんでしょうね)。泉光院が正福寺へ行った歸りでも途中まで馬を用意して迎えていてくれた。そして別れを惜しんで餞別をくれた上に志摩國分寺へ行くのに対岸の三ヶ所村まで船を出してくれた。
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