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2017.12.27 (Wed)

泉光院の足跡 276 伊勢路

二月一日 晴天。川保宿立、辰の刻。此所より田丸城下の方に赴けば西國巡禮道故托鉢等一切なし、因て元熊野往還とて古道あり、此方へ行き葛原村と云ふに笈頼み置き托鉢す。此家主人大峰信仰の人にて俗先達なり、因て大峰並びに奥道の事悉細に話し聞かす。右に付今晩は一宿せよと申すに付宿す。源右衛門と云ふ宅。

熊野参詣道の伊勢路の起点は今のJR参宮線田丸駅近くです。江戸期の旅人の多くは伊勢参宮を終えるとここで順礼姿に身を調えて、熊野三山や西国三十三観音の霊場を目指しました。伊勢路は峠が多い道です。熊野三千六百峰といいますからどっちを歩いても峠はたくさんあります。女鬼峠道

一番最初に現れるのは女鬼(めき)峠です。
右がそこへ至る道で、左が峠のあたり。
女鬼峠

女鬼峠観音堂

峠を過ぎると右の写真にあるような如意輪觀音を祀った觀音堂や、南無阿彌陀佛を彫った名號石や、お地蔵さんなどが見えたりします。

熊野古道を歩けば到る所にこのようなものがあるのです。
観光バスに乗って国道42号線を走る、とか、電車に乗って一気に新宮駅や勝浦温泉などへ行ってしまうとこのようなものは一切見えません。

二日 葛原村立、辰の刻。次村大野木村と云ふに行きたる處、昨日源右衛門宅にて出合ひし淺七と云ふ宅へ立寄り笈頼み置き托鉢、今日當村疫病除け觀音會式あり、因て一宿し休息せよと詣すに付休息す。平四郎は別宅。此の淺七と云へるは勢州大峰先達寺世義寺と云ふの親戚にて、年々大峰宿へ世話方に登山の人也、因て予が院號覺へ居りたるを以て段々話し合ひたり。
三日 大雨天。據なく滯在。仁王一部。大坂を出たる江戸の用船今日の大風雨にて當所より八里計りの處にて難破の由聞及ぶ。
四日 晴天。主人曰く、今日は予が勸請せし神變菩薩へ是非とも參拝ひ玉へと云ふに付、滯在して詣づ、村より二十丁計りにて山へ登る事三丁計り、絶頂に少しの洞穴あり、其内に石佛の神變菩薩安置しあり、法華懺法を讀誦す。一句前あり略す、
   結袈裟に威を増すや花の洞の峯
晝時歸り休息す。平四郎も淺七宅へ宿す。
五日 晴天。大野木村立、辰の下刻。長原村より田丸を經て熊野街道へ出で上楠村と云ふに宿す。道に手引の觀音とてあり、西國巡禮の者巡禮首尾能く仕舞ふ様宿願する所の由。

日記には大野木村、長原村、上楠村などの名前が出て来まして、そんな所でうまく泊めてもらっています。神変大菩薩s

大野木村の淺七さんは泉光院が大峰登山をしていた時に知っている人だったようで、自分が勧請した神變大菩薩(修験道の開祖と伝える役小角のことです)へ是非とも詣って欲しい、といって村の近くの山へ連れて行ったようです、右は神變大菩薩である役小角の像。浅七さんのは石像だからこれとは多少違うでしょう。


瀧原宮社殿
途中に瀧原宮という伊勢神宮内宮の別宮があるので立ち寄ってみましょう。
左が瀧原宮。ここも倭姫命がアマテラスの鎮座地を求めたとき、「大河の瀧原の國」という美しい土地があったのでここに新宮を造ったのがこの宮の起源である、ということになっています。ここも祭祀や遷宮などすべてにわたって本宮である伊勢神宮内宮に準ずる扱いなのだそうです。
荷坂峠秋景

瀧原宮の所から道がわかれていて、一つは荷坂峠、もう一つはツヅラト峠。
ツヅラト峠入口

どちらも熊野古道です。

左が荷坂峠の道で、右がツヅラト峠道。


ツヅラト峠遠望
そして峠のある山のあたりの風景。


六日 雨天。晝過晴る。上楠村を立ち柏野と云ふ村へ宿す。
七日 晴天。柏野村立、辰の刻。長嶋と云ふ町へ出る當所より紀州領也。紀州和歌山よりの陣屋あり。此所に東遊記にある通り光明寺と云ふ禪寺の庭に寶永四年津波ありて、人家多く流れたる時の和文の碑高さ五尺計りなるが立てり、右銘和文に書き置きたるを南渓も賞美し置かれたり。夫より故郷村と云ふへ行き一宿す、夜に入り大雨。故郷と云ふ名により一句、
   故郷にたより告げたし歸る雁

泉光院は荷坂峠を越えたのかツヅラト峠を通ったのかわかりませんが、とにかく峠を下って今の紀伊長島町に着きました。紀伊國は今の和歌山県と、三重県の、北・南牟婁郡、尾鷲市などを含む地域ですから、この両方の峠を結ぶ尾根が國境だったので、ここから紀伊國に入ったのでした。

光明寺と書いたのは間違いで、佛光寺。東遊記というのも本当は橘南渓著の『西遊記・続編 巻一』です。
佛光寺境内津波供養碑

右が佛光寺境内に立っている「津波供養碑」。
宝永四年(1707)10月4日にこの地方を襲った地震による大津波は一瞬にして長嶋の全人口2500人のうち500人余の命を奪ったのでした。橘南渓はこんなふうに書いています。

「碑面に津波流石塔と題せり。裏に手跡も俗様にて文も俗に聞へ易く寶永四丁亥年十月四日未刻大地震して、津波寄來たり、長島の町屋近在皆々潮溢れ流死の者夥し。以後大地震の時は其心得して、山上へも迯(とう・逃の俗字)登るべき様との文あり。いと實體にて、殊勝の者也。誠に此碑の如きは、後世を救ふべき仁慈有益の碑と云ふべしと也」。

このあたりの地形はリアス式海岸で、深い入江ですから、津波の時には高く水が押し寄せます。そして一度潮が遠くまで引いたのを珍しがって見物に出た所へ、ふたたび大津波がきて多数の死者が出た事を戒めた文が、この石碑にわかりやすい文章で書かれているのです。泉光院が来た時は津波供養碑は一基しかなかったのだが、その後文永七年(1854)にも大津波があって、その時の供養碑も立てられたので、現在は二基立っています。

八日 晝過歸る。午の下刻出立、段々峠を越へ船津村と云ふに宿す。
九日 晴天。船津村出立、辰の下刻。岩屋地藏峠を越ゆ、此峠を曽根太郎と云ふ。尾鷲と云ふに下れば三百軒計りあり托鉢す。市中ながら善根あり林藏と云ふに一宿せよと申すに付宿す。
馬越峠石畳道

泉光院の今回の熊野三山詣では尾鷲から馬越(まごせ)峠、八鬼山越え、曽根次郎・太郎坂、とたくさんの峠を越えて今の熊野市から国道311へ入って、風伝峠を越えて熊野本宮大社へ先にお詣りをして、それから熊野川を下って、熊野速玉大社、神倉神社へ出て、元の国道42に戻って、熊野那智大社、西国三十三観音札所第一番の青岸渡寺、という順序になります。

右が馬越峠の石畳道。このあたりは伊勢路随一の美しい石畳道です。紀州の殿様の駕籠が通れるようにと造られた幅一間半とゆったりした道です。両脇には尾鷲ヒノキが生い茂り、雨が降っても水は石の間の目地を流れて水溜まりを作ることもなく、石段よりも歩きやすいのです。

いよいよ「西國一の難所」と恐れられた八鬼山越えにかかります。
八鬼山遠望
左が八鬼山(653m)遠望。
尾鷲側から峠の上に至る50丁の道中には、かっては一丁(107m)ごとに丁石地藏が置かれていた。
八鬼山石地蔵




右が丁石地藏。でも今は減ってしまっているらしい。




十日 半天。尾鷲村立、辰の下刻。夫より直ちに八鬼山峠へかゝる。上下百丁、九合目に家一軒あり、本山修驗宅、本堂三寶荒神を安置す。上古此山に惡鬼八人居り往來の者を惱ましたりと云ふ。因て八鬼山と云ふ。今は西國巡禮道、無難の道なれば一句、
   鬼の目も今は涙に霞みけり
夫より三キ村と云ふに下る、雨に成りたる故此所に宿す。
十一日 晴天。三鬼村立、辰の上刻。曽根二郎と云ふ峠を越す、曽根二郎曽根太郎皆鬼の名也。夫よりユウキと云ふ村に下る、千人宿ある由聞付け行きたる處、天蓋の六部計り借すと云ふ、世上には馬鹿愚人あり渡世の六部を行者と思ひたいせつにす。
八鬼山熊野古道

こんどは八鬼山峠の道。さっきの馬越峠の石畳と比べるとずいぶん歩きにくそうだ。
八鬼山荒神堂

左が峠の九合目にある荒神堂です。ここに本山派の修験行者が住んでいたらしい。
本山派というのは天台宗系で、京都聖護院を本山とする山伏。(泉光院は當山派で、真言宗・京都醍醐寺の三寶院を本山とする山伏です)山伏同士、宗旨は違ってもうまく話が出来たのだろうか。荒神堂では隣の空き地で茶屋を営んでいたようだから一休みしたのだろう。
この三寶荒神堂は日輪寺という名前で、泉光院の時代から今までもちゃんと残っているのが不思議なくらいです。このあたり、昔は山賊も出没したというので八鬼山と言ったのでしたが、泉光院が通った頃はすでに平和な世の中、安心して旅人も通れます。名前は恐ろしげですが、風景はとても素晴らしい。でもクルマだと山の下をトンネルで抜けてしまうからこの風景は見えません。
三木峠風景

下った所が三木里で、三鬼村とはいいません。尾鷲市三木里を抜けて川を渡る手前に「是より左くまの道」の道標があるからそれに沿って歩きましょう。
道標是より左くまの路
すぐに三木峠にかかります。

このあたりは山が海岸に迫っているので、山の斜面のわずかな耕地で作る作物を、イノシシの食害から守るために猪垣(ししがき)というのを長い間かけて営々と作ってきました。だがこんな工事費用は紀州藩からは出して貰えないので、自分たちの血のにじむような奉仕作業で出来たのです。右が羽後峠付近の猪垣。
羽後峠猪垣





八鬼山から三木里海岸

八鬼山から三木里へ、峠はたくさんありますが、とても景色がいいので疲れる事を知りません。左は三木峠付近から望む賀田湾。熊野灘の展望を楽しみましょう。


次に曽根二郎・曽根太郎という坂を通ります。尾鷲市と熊野市の境の山で、中世にはここが志摩國と紀伊國の境で、南北に関所があった。曾根次郎北の庚申堂
今は関所跡に庚申堂が建っている(右の写真)。

この坂を下った所が曽根の集落で、曽根弾正という英雄ゆかりの地です。
泉光院は…皆鬼の名也…と言っているのだが、そうではなくて実は室町末期の弘治年間(1555~58)、この地方は海賊や盗賊が横行して住民が苦しめられていた。そこへ近江の国から甲賀の忍者20人を率いてきたのが曽根弾正。彼は忍者を使った情報戦術によって住民を守り善政をしいたことで知られているのです。むしろ鬼退治をした桃太郎のような人でした。曽根二郎の登り坂、曽根太郎の下り坂を通って遊木の村に着きました。ここでも泉光院はユウキ、あとでは遊鬼村と、鬼の名前にしています。虚無僧編笠
ここで安宿に泊まろうと思ったら、天蓋、虚無僧のかぶるような編笠をかぶった都区部しか泊めないと断られた。泉光院は…あんなのをかぶった連中はただの渡世人であって、修行をしている俺のような本当の行者とは違うのに!…と世人の無知ぶりに腹を立てた。
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