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2018.01.09 (Tue)

泉光院の足跡 279 秦の徐福

廿二日 晴天。湯の峰立、辰の刻。本宮より船にて九里八丁下る、川筋に名所あり、雀の箕踊りと云ふ瀬あり、餅石、眞名板石(まな板)、釣鐘石、まな箸石、包丁石、淫莖石、淫門石など様々名所有り、晝過新宮へ着船す。船賃一人前百廿四文宛、直ちに宮廻り納經。本社南向、十二社、境内二丁廻り、華表前町多し、當處は紀州附家老水野土佐守殿三萬石の御城下也。…

熊野本宮から船で熊野川河口近くの新宮、熊野速玉大社へ来ました。熊野川川下り
九里八丁というから約37km。歩けばいくら泉光院の足が達者でも1日はかかるでしょう。船のおかげで晝過ぎにはもう着きました。
この川下りの船は熊野川も世界遺産に登録された事がきっかけで、平成17年9月に復活(江戸時代より短区間だが)したそうです。

新宮、熊野速玉大社はJR新宮駅から徒歩15分くらい、熊野川の河口近くにあります。熊野速玉大社梛の木
朱塗りの橋を渡って参道を進むと左手に梛(なぎ)の大木が見えます。梛はマキ科に属する針葉樹ですが、闊葉樹のような幅の広い葉ッパを持っていて、縦に細い平行脈がいっぱい走っているために、縦には裂けるけれども横にちぎる事はなかなかできません。ちょっと変わった木です。ここへ行ったら葉ッパを一枚取ってやってみるのもいいでしょう。丈夫な葉ッパですから、それにあやかって男女の縁が切れないように、昔は女の人がこの葉ッパを鏡の裏に入れておく、という習俗があったそうです(今そんなことをする女性はいないでしょうけれども)。
この木は平安末期、平重盛が植えたと伝えられているものです。梛の木は熊野権現の御神木で、この葉は笠などに挿しておくと魔除けになるので熊野参詣の帰りには道中を守護してくれるものと信じられていました。

参道を進むと朱塗りの神門があって、朱塗りの瑞垣で、その向こうに朱塗りの社殿が五棟並んでいます。
熊野速玉大社全景
左が熊野速玉大社のほぼ全景です。
この写真で一番左に見えている建物は拝殿で、その向こう側の妻入り神明造は第二殿にあたる速玉宮でここの主神の熊野速玉大神、実はイザナギ・藥師如來を祀っています。
全体の配置は右の図のようになっています。
熊野速玉大社社殿配置図
第一殿は第二殿の左奥、上の写真には写っていないのですが、そこにはイザナミ・千手觀音が祀られています。
ほぼ中央に見えている大きな平入りの建物は第三殿・第四殿・第五殿が相殿になっていて、第三殿証誠殿にはケツミミコ・阿彌陀如來が、第四殿若宮にはアマテラス・十一面観音が祀られているのも熊野本宮と同じです。そしてもう一つ、第五殿神倉(かみのくら)宮があります。


熊野速玉大社中央部分熊野速玉大社八咫烏

熊野速玉大社の第一殿の付近だったと思いますが、八咫烏(やたがらす)の銅像もありました(右上)。

熊野三山のシンボルマークは八咫烏です。この烏は『日本書紀』にも登場する三本足のカラスで、神武天皇の東征の際、、アマテラスの使者として遣わされ、熊野から大和への道案内を勤めたのでした。
この神話から、熊野三山では八咫烏を神の使いとして崇めているのです。

本宮、速玉、那智、それぞれの大社で出している「牛王宝印 ごおうほういん」という御札は、熊野牛王とよばれ、そこにはたくさんのカラスの絵を組み合わせた文字がデザインされています。前号に熊野本宮大社の牛王宝印を載せておきましたので、熊野速玉大社の牛王宝印を載せておきましょう。
牛王宝印熊野速玉大社

牛王宝印は、裏に誓いの文言を書いて神様の名にかけて虚偽のない事を示す誓約書として使われます。
たとえば、遊女が好きになった客に「年季が明けたら神に誓ってあなた様の妻になります」と書いてわたせば固い約束をした事になるわけです。
戦国時代では、慶長三年(1598)、死の床にあった豊臣秀吉は五大老五奉行の重臣を呼びつけて、淀君との間に作った息子の秀頼に対して二心(ふたごころ)なきことをこの熊野牛王の起請文を使って書かせているのです。
またこの熊野牛王を焼いてその灰を水に混ぜて飲むと、ウソをついた惡人はたちどころに血を吐いて死ぬと信じられています。

…又御城の東田の中に十間四面計りの森あり、此内に秦の徐福が塔あり、礎石高さ五尺計り。…

徐福伝説。
徐福公園門
左はJR新宮駅の近くにある徐福公園です。

徐福は今から2200年ほど前、秦の始皇帝に仕えた方士(仙術を行う人)でした。始皇帝は戦国時代、いくつかの国に分かれて争っていた中国を統一した王様で、万里の長城の修復工事や、首都の拡張整備など大土木工事を行ったり、焚書坑儒(医学・農業・占い以外の書物をすべて焚き、儒教の学者を穴に埋めて殺すという弾圧)をしたり、阿呆宮というのを建てて美女3000人を擁したり(阿呆という言葉は今の日本語でも生きているようですね)、死後も偉大な王であることを示すために「兵馬俑」というのを作らせたりした有名な王様でした。徐福はこの王様の命令で、不老不死の仙薬を求めて、BC219年(始皇帝の死ぬ9年前)、東方にあるという蓬莱島へ向けて、百工(たくさんの技術者)や若い男女3000人と、金銀財宝を乗せて船出をしたのです。着いた先がこの新宮の地であった(ほかにも日本各地、九州、山陽道、紀伊半島、東海道から秋田・青森まで徐福伝説は広く分布しています)。
徐福はここで「天台烏藥 てんだいうやく」という霊薬の黃を発見したのです。新宮蓬莱島

右が新宮にある蓬莱島と言われる島。

徐福は蓬莱島に着いて、霊薬を発見したのですが、皇帝の命に背いて祖国には帰りませんでした。この日本に永住し、連れてきた当時のハイテク技術者たちや若い青年男女と共に、農耕、漁業、捕鯨、織物、製紙といった技術を日本の地に広めたのでした。

天台烏薬の木天台烏薬の根天台烏薬の葉




天台烏藥の木(左)、根(中)、葉(右)です。

これが不老長寿に効くのでしょうか。
カリフォルニア大学野田泰子博士の実験?によると、体内に吸収された過剰な活性酸素を消す作用があって、老化現象やアルツハイマー病、パーキンソン病などを抑制する効果があるというのだがどんなもんでしょうか。徐福の墓石

ともあれ徐福やその従者たちもここで寿命を全うしたようで、徐福公園の中に徐福の墓や、業績を記した碑、由緒書、不老の池などが作られていて、天台烏藥の木も植えられています。
徐福の墓地

左が墓地の全景。
右が中央奥の方にある徐福の墓石。「秦徐福之墓」と彫ってありました。
墓石の高さは約1.4mですから、泉光院の見た…高さ五尺計り…と符合します。

この公園の右手脇に売店があって、天台烏藥を100%使ったという「徐福の精」というものや、「徐福茶」、果実酒の「徐福ロマン」、入浴料の「長命湯の素」といったものが売っていました。ワタクシは何も買わなかった。
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