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2018.01.14 (Sun)

泉光院の足跡 280 熊野那智大社

廿三日 雨天。三輪崎立、辰の刻。餘り大雨故に小串峠茶屋へ晝時より宿す。一句、
   春雨の小串峠にぬかれけり
廿四日 同天。滯在。仁王一部。
廿五日 半天。小串峠立、辰の刻。那智山へ晝時上る、當山も數度上がる故に委細は記さず。瀧は三國一と云ふに相違有るまじく日本國中廻り見しに當山の瀧程の所はなし、那智山西國一番札所、納經、夫より妙法山に上る、觀音堂より廿五丁、當山は弘法大師開基の靈場也。寺一ヶ寺、西向、奥の院觀音堂也、又那智山二王門へ下る。瀧一句、
   水な口は雲の上也花の瀧
仁王門より那智山の南の半腹を行くこと半道にして山八合目に平野と云ふ所あり、此所に一軒かしこに一軒、鹿猿を友とする山中也。此所武平次と云ふに宿す。

熊野那智大社へ来ました。泉光院はここも何度も来ているので、…委細は記さず…ですが、ワタクシとしては少し詳しく書かなくちゃなりません。大門坂夫婦杉

このあたり熊野古道を歩きます。
那智川にかかる二瀬(にのせ)橋から大門坂の方へと歩を進めます。右が大門坂の入口の所にある夫婦杉。

熊野那智大社大門坂

道は立派な石段が整備されているけれども、上るにつれてだんだん急な坂になって、息が切れてきます。この石畳は鎌倉時代から整備されてきたのです。
登り詰めた所に昔は仁王門があったのでその名残で大門坂と言っているようです。

熊野那智参詣曼荼羅図を熊野比丘尼が絵解きをしたようにワタクシもこの曼荼羅圖を使って絵解きをしながら登って行きましょう。


熊野那智曼荼羅図

この曼荼羅圖は熊野灘の海岸から熊野那智大社、さらにその上の妙法山まで一枚の図におさめてあります。


左は二瀬橋です。右下の方に櫻が咲いています。
熊野曼荼羅振ヶ瀬橋
熊野曼荼羅和泉式部


右はその拡大図。櫻の木のそばに熊野詣に来た平安中期の歌人、和泉式部が綺麗な着物を着た姿で描かれています。
熊野は高野山と違って女性にも開かれていたので、誰でもよく知っている美女に一番初めに登場してもらうことで説明にも力が入ります。
さらに進むとまた(左の方に)橋が見えますが、振ヶ瀬(ふりがせ)橋で、ここからが那智山の霊域で、俗界と聖域を振り分ける意味の橋なんでしょう。橋の手前には「下馬」標石と、「是より大門迄六丁」の丁石が立っている(筈なのだが見えませんねぇ)。
熊野曼荼羅大門坂

橋を渡ると大門坂です。絵には数人の人が登っているように描かれています。
ずっと上の写真に入れておいたように樹齢800年の夫婦杉の間から登りはじめて息を切らして登ります。登った先に曼荼羅では大門が描いてあって仁王サンがいたのですが、今は大門がなくなったのだがそれでも大門坂という名前だけは残っています。
仁王サンは青岸渡寺の山門に安置されています。

熊野曼荼羅那智大社
大門を出ると那智大社です。
中央の広場は齋庭。
右の方でこちらを向いて座っている二人は上皇とか貴族とか、そんな人が熊野詣でに来ているのだ。
左手の方には高僧や神職が、右手前には衣冠束帯の貴人たちが平伏している。
屋根の上にはカラスらしいのも飛んでいる。八咫烏だろうか。

熊野比丘尼はこういう画を民衆の前に広げて見せながら、上皇や高僧たちの名前を指し示して、熊野詣の有難いことを宣伝し、ツアーに誘うのでした。

拝殿の奥の方には五棟の社殿が並んでいます。

熊野那智大社本殿熊野那智大社社殿配置

熊野那智大社牛王宝印
熊野那智大社の牛王宝印。



一番左の若宮はアマテラス・十一面觀音で、二番目はここの主神である熊野大須美大神=イザナミ=千手觀音、三番目に速玉神=イザナギ=藥師如來、四番目にケツミミコ=阿彌陀如來、五番目は瀧宮で青岸渡寺へと続きます。
熊野那智大社は、那智の瀧を御神体とします。本宮大社や速玉大社同様全部で12柱の神様を祀っていますが、瀧を御神体とする瀧宮はここにしかありません。

熊野曼荼羅妙法院
曼荼羅の左上に女人高野といわれた妙法山阿弥陀寺の諸堂も描かれています。
月輪も銀色に輝いています。

熊野比丘尼たちは全国に散って熊野信仰を広めました。「熊野の神は誰でも受け入れます。上は上皇貴族たちから下は庶民、男女を問わず誰でもお詣りできますよ。お詣りすれば必ず極楽浄土へ行けますよ。…」彼女らが広めた話に和泉式部伝説があります。
あとわずかで神社、という所で和泉式部が生理になった。「不浄の身体で神様の前に出る事は出来ない」と嘆いたが、夢に熊野の神が現れてこう告げるのです。「もろともに塵にまじわる神なれば月の障りも何か苦しき」。式部は悦んで全山の参詣をしたと説明するのです。
和泉式部が熊野参詣をしたという事実はありません。だが熊野の神は女性に寛容であると説明されて、おおぜいの女性が熊野詣にやって来ました。
熊野までの道は、京都からでも遠いです。往復600km以上、二十日以上はかかります。後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家の『後鳥羽院熊野御幸記』には、…風邪をひいているのに海の水を浴びてしまった…とか、…宿は狭くって漁師の小屋のようだ…と道中文句ばっかり言っています。

巡禮道の方へ行きます。
青岸渡寺本堂
青岸渡寺は瀧宮と続いています。
青岸渡寺は織田信長の南征の折、兵火にかかって焼かれ、豊臣秀吉が天正十八年(1590)に再建した。
このお寺はは西国三十三觀音の第一番。本尊は一丈(3m)ほどの如意輪觀音です。

熊野曼荼羅那智瀧


熊野那智大社三重塔と瀧


ここから落差133mの那智の大瀧と、昭和47年に再建された新しい三重塔が見えて、写真写りがいいのでこの一枚はここへ行った人はみなさん写しているでしょう。

那智大瀧実物と絵



見事な瀧ですね。
右の絵は國寶の「那智瀧圖」。
13世紀末に描かれたもので、東京・根津美術館蔵。

熊野曼荼羅瀧下部3人

熊野那智曼荼羅図の瀧の画の下の方に3人の人物が描かれています。
真ん中にいるのが瀧行をしている文覚上人で、瀧に打たれて死にかかっている文覚を二人の天童が現れて救っている所だという。
文覚上人、俗名遠藤盛遠は鳥羽上皇の第二皇女統子(上西門院)に仕える北面の武士だったが、同僚の渡邊亘の妻、袈裟御前に恋慕したあげく誤って彼女を殺してしまったのでした。悔いて出家して、ここで瀧行をしたことは平家物語にある通りです。あa
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