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2018.01.18 (Thu)

泉光院の足跡 281 補陀洛渡海

熊野曼荼羅補陀洛渡海

熊野那智参詣曼荼羅の下の方、大きな鳥居と、鳥居の前の海岸に船が見えます。
この船の帆には「觀音丸」と書かれている筈です。
補陀洛渡海の船出です。
平安時代の初め、日本の各地で、はるか南の海の彼方に、観音の極楽浄土「補陀洛 ふだらく」、(觀音淨土を意味するサンスクリットのポータラカの音訳)があるという信仰が生まれたのです。その極楽浄土を目指して小船に乗り、波のまにまに、風にまかせて、出るのです。

補陀洛山寺本堂


鳥居の向こうに見えるのは補陀洛山寺。熊野川の河口の所にあります。
右が本物の補陀洛山寺。
補陀洛山寺千手観音
本尊は十一面千手觀音(左)。



補陀洛山寺は那智に於ける補陀洛渡海の拠点となったお寺です。
補陀洛渡海3人

熊野那智曼荼羅の鳥居の下の所に(ちょっと見づらいが)赤頭巾をかぶった3人がこれから渡海船に乗り込もうとしている。
この曼荼羅の絵解きの一つにこんな話があります。
この3人は、《平家物語》が伝える平維盛(たいらのこれもり)と、兵衛入道重景(しげかげ)、石童丸、の一行です。
屋島の合戦から敵前逃亡し、熊野参詣の後、那智の海に入水した物語です。
一番上の絵図をもう一度見て下さい。この3人は後にいる数人の僧の葬送儀礼を受けて船に乗り込むのです。
補陀洛山寺渡海船
補陀洛山寺の境内左手に、当時の船(の実物大模型)を納めた小屋がありました。
船には小さな屋形が作ってあり、四方には密教修行の階梯である四門(発心門・修行門・菩提門・涅槃門)が立ててあります。

渡海をする人がこの船に乗り込みます。何日分かの食料、水、灯明の油が積み込まれます。
そして戸は閉じられ、外から釘で打ち付けられてもう開く事は出来ません。
船は2艘の小船に白い綱で結ばれ、曳航されて右の熊野灘へと出て行きます。
熊野の海岸

向こうに見える島のあたりで綱は切断され、それから後はどうなったか判りません。
船内に閉じ込められたまま沖へ向かう補陀洛渡海は、事実上の「死」への旅立ちでありました。
『熊野年代記』によると、貞観十年(868)の慶龍上人を最初として、享保七年(1722)まで20人あまりの渡海僧が渡海を行い、同行者を含めて100人以上が海に消えました。渡海僧の多くは補陀洛山寺の住職だったようです。彼らにとっての渡海は、自らの命を犠牲にすることで人々の罪や穢れ、苦しみを救う意味でもありました。
16世紀、ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスは「船底にあけた大きな穴に栓をし、やがてそれを抜いて海底に沈むのである。」と書いています。

だが中には何と沖縄に漂着して生きながらえた渡海僧もありました。上野國出身と伝える日秀上人です。彼は天文二十三年(1554)にここから渡海し、沖縄に漂着して熊野信仰を広め、その後薩摩國に入って多彩な宗教活動をした事で知られているのです。
たった一人でもこういう人がいた事で、書いているワタクシも救われたような気がします。

觀音信仰が広まってくるとともに、觀音浄土であるポータラカ Potalaka の場所を想定するということもなされるようになって、チベットではラサの北西に觀音の化身であるダライ・ラマの宮を作ってポタラ宮としましたし、中国では揚子江の河口沖の舟山諸島の二つの島をそれとしました。
日本でもこの熊野の他にも、高知県足摺岬、栃木県日光、山形県月山をそれと想定して、その付近から補陀洛渡海をした僧もありました。
余分な事ですが、栃木県日光の語源は、ポータラカ→フタラク→補陀洛→フタラ→二荒→にこう→日光、という具合に変遷してきたのです。日光はこのようにして觀音浄土であるとされたのでした。

これで熊野那智大社參詣曼荼羅の絵解きを終わりたいと思います。
この曼荼羅の中には、まだまだいろんな人物が登場します。高野聖や、笈を背負った山伏姿や、白頭巾の六十六部の回国聖、笈・杖・菅笠姿の西国観音札所巡礼、琵琶法師や猿回し、、関守をしている山伏、熊野牛王宝印売りなどといった人たち、建築資材である木挽きをしている大工、さらには三本脚の八咫烏、さまざまの物が描き込まれているようです。

熊野本宮大社や熊野速玉大社、つまり本宮にも新宮にもこのような絵解き曼荼羅があったと思われているのだが、今のところまだ発見されていないらしいので、世界遺産に登録されたいま、「新絵解き曼荼羅」を作成しているようです。
熊野速玉大社参詣曼荼羅絵解き熊野本宮参詣曼荼羅新作












左のは、新熊野本宮大社參詣曼荼羅。絵解きの練習をしている場面です。

右のは熊野速玉大社、新宮の方です。
両方ともなかなか面白い描き方をしております。
右の新宮のには、ゴトビキ岩から御灯祭の松明が流れ落ちる様や、秦の徐福の渡来、神武東征などといったエピソードも含めて描き込まれ、記紀や風土記、中右記、吾妻鏡、といった文献にてらして説明できるように編集してあるようです。でもまあ今までワタクシの書いてきたのと大きな違いはないと思いますので、これ以上は立ち入らないことにしましょう。

泉光院は、
…瀧は三国一と云ふに相違有るまじく、日本國中廻り見しに當山程の所はなし、…
と書いています。那智瀧

泉光院はここまでの回國の旅で有名な瀧をたくさん見てきている。立山の称名瀧、日光、華厳瀧、などなど、行く先々で「日本の瀧百選」に入っている瀧を見ているでしょう。
ここの瀧は落差は133mと、称名瀧の350mには及ばないとしても、華厳瀧の97mを超えているし、何よりも見事なのは南紀という日本有数の大量の水を一直線に落下させていることです。しかも遠く熊野灘からも望めるほどに見やすい位置にあります。
日本一の瀧と称してもいいでしょう。





毎年7月14日になるとこの瀧の前で「那智の火祭り」が行われます。
那智の火祭り

右の高い所に見える「扇神輿」12基に那智大社の12人の神様を乗せて、社から瀧へ神様をお帰しするお祭です。
瀧前の飛滝(ひろう)神社の前に集結した松明の持ち手は、御神輿を燃えさかる12本の松明で清めながら瀧の前へ導くのです。

ここまで書いてきて、書き忘れた事を思い出したので追加しておきます。神倉山登山を書き忘れたのです。
No.279.秦の徐福 の項の所で、熊野速玉大社にお詣りをしてから、

…當處は紀州附家老水野土佐守殿三萬石の御城下也。又御城の東、田の中に十間四面計りの森あり、此の内に秦の徐福が塔あり、礎石高さ五尺計り。…
で徐福公園へ入ったのでしたが、そこから次に、
…夫より神の藏とて新宮の奥の院あり、石段八丁上る、宮東向大石に掛け作り、申の刻より登山を禁ぜり。三里行き三輪ヶ崎と云ふ獵師町に宿す。
という部分をすっかり書き忘れたのです。追記しておきます。

神倉(かんのくら)山へ行きます。
秦の徐福のお墓のある場所の表通りから細い小路を入った奥が登山口です。
神倉山

左の写真のように、山全体が一つの岩のようになっている山です。麓の鳥居をくぐったすぐから急な石段が、泉光院に言わせると…八丁 約900m…続き、そのテッペンに御神体のゴトビキ岩というのがあるのです。注連縄を張ってある大きな岩です。
神倉神社ゴトビキ岩





神倉神社ゴトビキ岩櫻





ここまで登るのは本当に大変で、高所恐怖症の人は途中で諦める程です。

ここは神話時代に遡る古い伝承があって、神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと = 神武天皇)が東征の際に登った天磐楯(あめのいわたて)の山がこれであり、アマテラスが遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和の地を制圧したとされているのです。
熊野信仰が盛んになると、熊野坐神が諸國を遍歴した末にこの岩に降り立ったとされていて、泉光院も書いている通り、熊野速玉神社の奥の院となっているのです。
神倉神社火祭り鳥居
毎年2月6日に御灯祭が行われます。

神倉神社火祭り下

ゴトビキ岩の前で神職が火打石で齋火を作って神前で神事を行い、齋火を大松明に移します。大松明は介錯に守られて中之地蔵まで下り、ここで待機していた2000人ほどの白ずくめの衣装をまとった上がり子の松明に点火されて一斉に駆け下りるというのです。
全山火の海になります。昼の明るいうちでさえ上り下りが怖いほどの急な石段なのに、真冬の夜に火のついた松明を持った集団が駆け下りるなんて、とても信じられません。
これは熊野の神がゴトビキ岩から熊野速玉大社に移るさまを現したものとされているのです。
♪御灯祭は男の祭、山は火の瀧下り龍♪ と新宮節で唄われる荒々しいお祭です。

泉光院はこの日三輪ヶ崎という漁村に泊めてもらいました。三輪ヶ崎から太地浦にかけての漁村では捕鯨が盛んだった。三輪ヶ崎の漁師たちは捕鯨の技術を教えてくれた徐福に感謝して、鯨が捕れるとその肉を徐福の墓に供えるのでした。

那智の火祭りと、神倉神社ゴトビキ岩での火祭りと、熊野で行われる火祭りはなかなか勇壮なもののようです。

平安時代後期、浄土教が拡がり、阿彌陀信仰が盛んになってくると、熊野の地は浄土だということになりました。
そして先に書いてきたように、神=佛 の図式が確立して、熊野三山が一体として信仰されました。ここでまとめておきましょう。

 社      主神    佛     住処      担当
熊野本宮大社 ケツミミコ 阿彌陀如來 西方極楽浄土  来世
熊野速玉大社 イザナギ  藥師如來  東方浄瑠璃浄土 過去世・罪悪の消除
熊野那智大社 イザナミ  千手觀音  南方補陀洛浄土 現世の利益

この三つが三位一体の信仰システムとなって、江戸時代末期まで熱狂的な熊野信仰となったのでした。そして明治初年の神佛分離と共に熊野信仰は廃れ、ごく最近になって世界遺産登録とともに観光地として復活したのでした。

これで熊野の項を一旦終える事と致します。
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