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2018.01.25 (Thu)

泉光院の足跡283 潮岬

三月一日 晴天。太地浦燈明崎へ行き、金毘羅並に觀音へ詣づ。夫より南の鼻諏訪明神へ詣づ。文化十三年御神託により勸請せりと云ふ。此二ヶ所に鯨捕りの遠見あり、五六人宛終日居て百里の遠眼鏡を以て鯨の居る所を見立て、梵天紙を振り方角を指し船に知らせる。遠方にて梵天紙見へざる時は火焚き臺に煙り立る所あり。一見して晝時歸る。種々馳走あり節句迄滯留せよと留められたれども、村中は皆鯨の油にて臭き事言語に堪へがたく、且快晴故に晝時より出立、先日立寄りし高嶋町又七宅へ宿す。夜話に大學の序を少々講ぜられタリ。子供の今讀み習ひに輪講するが如し。無用の辨ことごとくあり。然る故によく讀めたりと賞し置きたり。時分にはよく讀め學者と思ふているであらうと可笑しく思ふ。
燈明崎風景

左が太地浦燈明崎付近の風景です。
先端が燈明崎でしょうか。町の地図を捜してみたのだが、今はこのあたりには金毘羅さんも觀音さんも諏訪神社も見当たりませんでした。諏訪神社は泉光院がここへ来る2年前に建てたというのだがもう壊してしまったのだろうか。
燈明崎鯨記念碑
その代わりに「くじら記念碑」というものが建っている。
そして鯨捕りの遠見番所も観光用に新しく建てて、ここがかっては日本捕鯨発祥の地であったことを宣伝しているようです。
左が遠見番所。
燈明崎鯨番所
ここで番人が常駐して、100倍もの望遠鏡で鯨の来るのを見張っていて、鯨の姿が見えると、♪クジラが来たぞぉ-♪と、梵天紙、これは棒の先に御幣のような紙束を結びつけたものらしいのですが、これを振ったり、狼煙を上げたりして船団を組んで捕鯨に出かけるのでした。

…先日立ち寄りし高嶋町又七宅…というのは廿八日に太田川を下って大辺路街道へ出たときに泊めてもらった家です。なにしろ太地浦ではご馳走してくれた上に、…節句迄は滞留せよ…と言ってくれたのだがあまりの臭さに辟易して逃げ出したのです。
又七サンは学問好きで、「子曰く…」といった話が大好きな異人(変人)だったらしくって、泉光院に向かって『大學』の講義をした。始めの部分らしいから、「明明徳・親民・止於至善」あたりを子供に教え諭すように泉光院に向かって喋ったのだろう。輪講、という言葉は今でも学校で使っているけれども、昔から使っていたのだ。
四書のうちワタクシが読んだことのあるのは『孟子』だけで、大学・論語・中庸、いずれも読んだことがないのでここで解説などできないのだが、『大學』は儒教の基本文書で、政治家として(あるいは人間として)大切な徳を明らかにするところからはじまって、「修身斉家治国平天下」を説く書物のようです。今の日本の政治家には是非とも読んで「実行してもらいたい書物です。(政治家を志さない人は『孟子』を読むといいでしょう。とても面白い。ワタクシの好きな書物の一つです。)

黙って聞いていた泉光院は、…よく読めたり、…と賞めておいた。これが人とうまく接する心構えですね。
ここから先は古座浦から潮岬にかけて托鉢しながら歩いているだけです。
…今晩は一宿して當浦を托鉢せよ。…といってくれる老婆が居たり、大風雨でやむなく滞在して日記の清書や仁王護國經を唱えて過ごしたり、大したことはしていませんので省略しましょう。橋杭島夕景

右は橋杭岩。古座浦と潮岬の途中にある岩です。
やっぱりはじめてこれを見た時は面白くって、何枚も写真を写してみたりしたのだが、一枚で全部入りきれないので2枚をはぎ合わせるような事になってしまった。

七日 晴天。大西風。潮の御崎へ詣納經す。當所は紀州第一の南へ出張りたる所也。社一宇南向。一句、
   花咲くや潮の御崎の波の上
村を托鉢し藤兵衛と云ふへ歸り宿す。
潮岬灯台
潮岬は本州最南端。
北緯33°25'58" 東経135°45'45"の位置です。

いまは立派な灯台があります。この灯台の上から眺めると潮御崎神社が右の写真のように下の方に見えるのです。

潮御崎神社灯台から
泉光院がここへ来たのは新暦では4月11日ですから花の盛りでした。


先を急ぎましょう。潮岬を出て、

十日 晴天。江田村立、立の刻。峠二つ越へ濱邊へ出で、岩鼻を廿丁計り行き和深村と云ふに托鉢する處、臨月の家あり奥州鹽竈の護符所望に付遣はす、右に付安産の祈願し呉れ候様頼むに付一宿す、武平と云ふ宅。

奥州塩釜神社へ行った時、今の殿様、島津忠徹の奥方のために安産の御守り札を貰ってきて、…十五日 晴天。奥州鹽竈日本第一安産の御守札奥様御方へ差上げ…たのでしたが、余分に貰ってきておいたのでしょう、余ったのを有効利用してしまった。九州へ戻ってからも誰かに渡していたように思うから、たくさん貰ってきたのだ。
大辺路長井坂
右が串本から和深浦への道、長井坂です。
この坂を下りきると左の枯木灘の絶景。

大辺路枯木灘


大辺路街道なんてなかなか歩く事はない道だから、少々風景写真でも載せておきましょう。枯木灘の向こうが周参見(すさみ)で、ここから佛坂というのをを越えて、日置川町、白浜、と進むことになるのですが、

十五日 晴天。スサミ立、辰の刻。三里の峠を越へ安宅村と云ふに下る。然る處當所より大邊路街道本道なれど當時疱瘡流行の爲旅人通ることならず、因て濱通りと云ふに行く、此方は道惡るく遠し、然し據なく行く、日置と云ふに行き一宿。龜右衛門と云ふ宅。
大辺路日置川船渡し

と、たまたまこのあたりで疱瘡が流行っていて、佛坂越えの本街道は通行止めだったので、迂回して海岸通りを通って、日置(ひき)、いまの日置川町へ入って龜右衛門サン宅で泊めてもらいました。
本当なら佛坂を下って、左の写真、日置川へ出て船で渡ることになります。
この大辺路街道は古くから開けていた道ですが、平安時代から鎌倉時代にかけての上皇や貴族たちはここをあまり通らず、田辺から山中へ入る中辺路を主に通っていたようでした。
こっちの道は難路ですが海岸から望む太平洋や、リアス式海岸の景観が素晴らしいので、近世の物見遊山の旅では好まれた道です。

十七日 晴天。シンサイ村立、辰の刻。又峠を越へ富田村と云ふに出づ、此所は伊勢より八鬼山、熊野大へち等山中八九十里の間の山中を通り抜けて平原の地也。當地六右衛門と云ふに宿す。
大辺路富田坂

右が富田坂(とんだざか)。大辺路街道の難所です。
伊勢路からここまでずっと難所の連続でした。



富田坂を越えると、伊勢路から大辺路街道の長かった難所もほぼ終わりを告げて、
…平原の地…になりました。
大辺路富田坂から白浜

左は富田坂から白浜を見下ろした所。彼方に平原の地が見えていますね。


十八日 晴天。滯在。洗濯する。熊野本山山伏とて三人計り托鉢に見へたり。然る處予が笈を見て修驗と見たるゆゑ、風呂敷より袈裟を出して掛け、予に向ひ、此の方共法衣着したる所、我々共を見下げ白衣にて御あしらいやといじりかけたり。予云ふ御覧の通り洗濯半ば故物も取敢へず失禮也とて手洗ひ法衣を着したり。尚改めて、各々方には本山修驗方と見受け候、本山方にては歩行の節、柴折は御用ひなきや、無刀にての御歩行、是れは修驗當本共に相用ふる事同様の事也、相用ふべき事十二道具の一つ也、何故御用ひなきやと云へば、そこそこの返答にて居られたり。又峰中十界修行並に金剛經二王の義相尋ね候處一切不相分、初手のグズリ掛けの上は餘所になり直ちに出立せられたり。

ここで本山派の山伏と鉢合わせして、ちょっとした諍いが発生したけれども大したことではないので省略しましょう。「柴折」は短刀のことで山伏の所持品の一つだが、相手が持っていなかったようなので喧嘩もこれでお終いになったようだ。
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