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2018.01.30 (Tue)

泉光院の足跡 284 安珍清姫道成寺

十九日 晴天。滯在。木綿二反調へ紺屋へ染めに遣はす。大川あり川向ふ中村と云ふに托鉢に行く、、托鉢先にて馳走の所二軒あり。
二十日 晴天。無事。
廿一日 晴天。染物出來ざる故今日も滯在す。

木綿を二反買って染物屋へ出したのだが、「紺屋の明後日」(あさって)」という諺があるように、明後日までには必ずやっておきますから…と言っても約束通りには出来上がらない。出来たのは明明後日。

廿二日 晴天。染物出來に付近所の老女三人集まり菩提の爲とて仕立呉れられたり。是も回國の一得也。因て一句、前あり略す。
   吾れ一と器量の花の針揃へ
赤飯茶漬け等出る。六右衛門と云ふより豆腐、儀衛門と云ふより草履、清八と云ふより鼻紙贈らる。

十七日からずっと富田村の六右衛門サン宅に泊まっております。染物が仕上がったらご近所のお内儀さんが3人集まってきて、…菩提のため…といって仕立ててくれた。
老女なんて失礼な!みなさん口には出さねど内心は自分の方が器量よしだと思っている。

そこから海岸通りを避けて富田川を少し遡って、ということは白浜を通ると回り道になると思うのですが、…田邊往還を除け北山道を通り、保野村… で泊まり、…富田川と云ふを川上へ上る、一の瀬と云ふ村…や、 …川を渡り岩田村…などと托鉢をしながら少しずつ泊まりをかさねて、

廿六日 晴天。近村托鉢晝時立、然る所平四郎編笠古物を見つけ調へ來れり。夫れにて六部天蓋の似せを作る。…
編笠と箱明暗
虚無僧編笠2

左は前にも載せたのだが編笠をかむった虚無僧姿。
右は京都の北の方のお寺で見つけた深編笠と「明暗」と書いてある箱。


今はこんな姿を見ることの出来るのは禪宗の一派である普化宗(ふけしゅう)の僧だけでしょうが、江戸時代にはかなり居たようだ。山伏と同じように脇差と似た刀を帯びて廻国することも許されていた。一心に尺八を吹くことで禪の境地に入る、とされていて、尺八を吹きながら托鉢をした。
明暗時の門
虚無僧というと京都・明暗寺(みょうあんじ)が有名でここは今でも尺八の「本曲」を伝えています。左が明暗寺の門。

本曲というのは、尺八だけで演奏する音楽で、鎌倉時代中期(13世紀頃)、禅僧法燈國師覺心によって中国南宋から伝えられたとされています。

この音楽は、「一音成佛」とか「吹禪」、「虛無一聲」といった言葉が示すように、演奏を他人に聞かせるのが目的ではなくて、自己の内的なものを一管に託して表現する、という音楽ですから、奏者はテクニックよりも気迫とか精神性が強く要求されます。
1960年代に日本の現代音楽界で、この音楽に興味を持った作曲家、諸井誠が尺八のための新作本曲ともいうべき独奏曲、「竹籟五章」を作曲して、明暗寺の酒井竹保によって初演され、そのレコードが発売されました。そのレコードの中に、酒井竹保の演奏による「霧海篪 むかいじ」という本曲も入っていて、これこそ尺八の音楽だ!と思ったものでした。「霧海篪」という曲は、覺心禪師が中国での修行を終えて帰国するとき、海上で濃霧に遭遇し、進退窮まったとき唐代の高僧普化禪師の姿が霧の中に現れ、鐸(たく 鉦のような打楽器)を打ち振るにつれて霧が晴れてゆくのを見て、その音に合わせて吹奏したのがこの曲だ、といわれているものです。
ところで尺八ですが、リコーダーと同じように大小いろいろありますが、標準管は一尺八寸(約55cm)で、表に4個、裏に1個、合計5個の穴があいていて、フルートと同じように吹口のエッジに息を吹きあてて音を出します。
尺八表裏
左が尺八です。
穴を全部ふさいだときが、D (レの音、壱越 いちこつ)、下から順番に1番目を開けたときが F (ファの音、勝絶 しょうぜつ)、2番目をあけると G (ソの音、双調 そうじょう)、3番目をあけると A (ラの音 黄鐘 おうしき)、4番目、この時は下二つの穴を塞ぎますが、 C (ドの音 神仙 しんせん)という音が出ます。全部塞いだときの音がDですから、西洋楽器のヴォイスフルートと同じ音高の楽器、
ヴォイスフルートリコーダー
左がリコーダー類の楽器ですが、一番左がテナーリコーダー、中がヴォイスフルート、右がアルトリコーダー(いずれもピッチが415Hzのバロックピッチ、NOBUYOサンからお借りした楽器)で、尺八はヴォイスフルートとほぼ同じ音高の楽器のようです。
尺八は、リコーダーと比べて穴の数か少ないので、これで自在に音を出すためにはいろいろ工夫が要るようです。指穴をちょっとだけ開けたり、唇を吹口に当てる角度を変化させたりし、息の強さや首の振り方などで音色や音高の微妙な調整をするらしいです。俗に「首振り三年」といって自在に音が出せるようになるまでには大変な努力が必要とされています。
ところでテレビドラマの時代劇で虚無僧が出てくるとき、たいていの場合、胸に黒いヨダレカケのような物を掛けていてそれに「明暗」と白抜きで書くか、「明暗」と書いた箱をぶら下げていますが、あれはなんとかの一つ覚えで、虚無僧イコール明暗寺と決めつけているようです。
編笠といってもう一つ思い出すのは、戦前、刑務所へ入っていた思想犯が外へ出る時編笠をかぶさられていたらしい。
 …手錠をかけて笠をかむって腰縄つけて 男ケンジがゆらりとあゆむ
  後からヒロシも手錠をかけて 笠をかむってぶらりとあるく
  あるきゃひとや(牢屋)もゆらりと揺れる
  春の日ながを 軒じゃ雀が ひと声 ち ふた声 ち …
ワタクシの好きな詩人、《ぬやま ひろし》が刑務所へ入っていたときに作った、
「編笠すがた」という詩です。
戦前、日本共産党員は(主に)巣鴨刑務所に入れられていて、戦争がすんでから出獄できた。
そして《ぬやま ひろし》こと西澤隆二の詩集『編笠』も出版する事が出来た。
ぬやま ひろし は、「若者よ」の歌の作者です。楽譜を入れておきます。
若者よ楽譜

若者よ 
体をきたえておけ 
美しい心が 
たくましい体に
からくも 支えられる
日がいつかは来る
その日のために
体をきたえておけ
若者よ




この歌をワタクシはよく歌いました。米軍基地反対闘争の時など、若者たちがいっぱい集まってスクラム組んで、♪若者よ 体をきたえておけ…と歌ったのでした。
はじめの詩の中に出てくる「男ケンジ」は多分宮本謙治で、ヒロシが「ぬやまひろし」です。
西澤隆二は、魚眠堂=室生犀星の庇護のもと、澄江堂=芥川龍之介、中野重治、堀辰雄らと「驢馬」同人に入っていた詩人です。
平四郎の編笠のおかげでずいぶん道草をしてしまった。ゴメンナサイ。次へ行きます。

廿八日 晴天。アサウカ村立、辰の刻。田邊城下晝前通る、先づ鶏合の明神と云ふ大社へ詣る。此の明神は少彦名(すくなひこな)命と云ふ。寺一ヶ寺。納經す。…
闘鶏神社

右の神社は鶏合権現、今は闘鶏神社といっています。二代目社主湛増の時、屋島の合戦でここの僧兵を利用しようとして、源平両陣営から味方にと誘われ、去就に迷った湛増は社前で赤白の鶏を七羽ずつ闘わせて神意を占った結果、…赤き鶏一つも勝たず皆負け…て、白鶏が勝ったので、湛増は白旗をなびかせた熊野水軍を率いて紀伊水道を渡った、という故事で名高い神社です。

…夫より大福院と云ふ山伏宅へ見舞ふ。當主幼く、老女の出られたり。此の家久しき家にて辨慶出生の時の産湯の釜とてあり。辨慶の家筋にてもあらんか、當院故ある寺故に、御門主様入峰の節も御立寄り御輿を寄せられたる所也、此の地は松林にて濱へ近き所也。城下陣屋作り、追手東北向、西に小川あり、町數は多し。シナヘ新庄村儀平と云ふに宿す。
闘鶏神社弁慶産湯釜

この神社入口の左側に大福院があって、そこに「弁慶産湯の釜(左)」というのがあった。今は闘鶏神社に寄贈されてそこに展示してあって、湛増の次男が武蔵坊弁慶であると言い伝えられているのです。
闘鶏神社弁慶湛増像

右が湛増と弁慶の像(立っているのが弁慶で座っているのが湛増)。


弁慶とは関係がないのでしょうが、京都醍醐寺の三寶院ご門跡様が熊野にお入りになるときはここにお立ち寄りになるのは古くからの例で、泉光院がここへ来る9年前の文化六年にもその時のご門跡様である高演法親王の入峰の際お立ち寄りになった、と随行の人の日記に書かれている。だから三寶院の末寺である泉光院としては是非とも立ち寄らなくてはならないのです。

托鉢しながら少しずつ北上しています。
廿九日 晴天。滯在にて近村托鉢に出る、又儀平宅に宿す。
四月一日 晴天。新庄村立、辰の刻。本街道へ出でず山道通りにて山中一里計り行く、、箱屋と云ふ村へ出る、古井村と云ふにて日も西山に落る故圓吉と云ふに宿す。夜に入り大雨大雷。
二日 晝時より晴る。滯在。笈の詰めかへする。
三日 晴天。古井村立、辰の刻。又谷合を一里行き江川村と云ふへ出で托鉢。笈頼み置きたる所、若女ながら埒明きたる女にて今晩は宿參らせんと云ふ、一人として請合ひたり、武兵衛と云ふ一向宗宅也。
四日 晴天。江川村立、辰の刻。大川ありて渡船あり、日高川と云ふ。先年清姫と云ふが蛇に成りたると云ふは此川下の渡し場也。日高村道成寺へ詣納經す。本堂八間四面南向。諸堂あり、三重の塔あり、樓門二王を安置す。鐘樓の跡とて今石礎殘れり、又外に鐘樓再建したる所怖ろしき事共多き故に其儘にして捨て置きたり。麓より石段六十二階、安珍の石塔あり。門前茶屋六七軒あり。夫より志賀村と云ふに赴く、當村は念佛行者徳本俗性の地也。因て尋ね行く。大ヱ村と云ふに宿す。寺にて一句、
   蛇はしらず垣に角振る蝸牛
道成寺山門
道成寺へやって来ました。いつもの癖で…先年清姫が…と、ついこの前の事のように書いております。右、仁王門です。

8世紀初頭に建てられ、8世紀末までには南大門、中門、回廊、金堂、塔、、講堂、僧坊、倉院と、一大伽藍を形成したのだったがその後衰退した。
道成寺三重塔
石段を登って仁王門をくぐると境内には本堂、三重塔が現れる。江戸時代中期に建てられた三重塔は和歌山県唯一のもので、その傍には安珍が埋められたという「安珍塚」があったりする。
ほぼ泉光院の書いている通りです。道成寺十一面観音

古いお寺なのでいい佛像もたくさんあって、本尊の千手觀音、日光・月光の両脇侍は國寶。重文もたくさんあるらしい。
右は十一面觀音立像。



安珍・清姫の事を少々書いておきましょう。
延長六年(928)といいますから、…先年清姫が…などと言うにはあまりに古い出来事です。
奥州の若い修行僧安珍が熊野詣にやって来て、眞砂の庄司の家で泊めてもらった。清姫村上華岳日高川清姫圖
その家の娘清姫が安珍に一目惚れをしてしまった。
安珍は、修行中の身なので、と、帰りに立ち寄る約束をしたのだが、熊野詣をすませた安珍は約束をすっぽかして通り過ぎてしまうのです。
それを知って清姫は安珍を追っかけます。
清姫小林古径日高川


左 小林古径「日高川 (部分)」     右 村上華岳「日高河清姫圖」

どちらもなかなか素晴らしい画です。古径も華岳も随分たくさん絵を描いている人ですが、その中でも日高川のほとりの清姫を描いたこれらの絵が一番高い評価を得ているのです。
道成寺縁起下巻龍

男女の間のことは当事者でないとよくわからないものではありますが、いったんキューピッドの矢に当たってしまうともうどうしようもありません。あとは破局に向かって突き進むしかありません。
道成寺に逃げ込んで釣鐘の下に身を潜めた安珍を、清姫は蛇体となって鐘を取り巻き、ついに安珍は焼き殺されてしまうのでした。
道成寺縁起下巻鐘の中

江戸時代の説話ではこのように無惨に焼かれたことになってはおりますが、実際のお話では、恋の炎に身も心も焼かれた清姫に、おそらく安珍もその気になって、墨染の衣を脱いで、世俗の人生を歩むことになったのではないでしょうか。
新しく一人の男として生まれかわって、清姫と一緒に幸せに生きたのだと思いましょう。
謡曲に謡われ、能で舞れ、歌舞伎に脚色され、長唄になって踊られ、古くからこの物語を人々は吾が身に置き換えて親しんできました。男は男で、女は女で、それぞれ自分のこととしてこの物語に親しんできたのでした。
道成寺1鐘上
道成寺2


道成寺8

歌舞伎「京鹿子娘道成寺」の場面です。歌舞伎では花子という白拍子が女心を訴えながら、少女から大人の女へと変化するプロセスを踊りで見せるのです。
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