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2018.02.03 (Sat)

泉光院の足跡 285 徳本上人

五日 大西風。ダイヱ村托鉢し晝時歸る。風止まざる故に滯留。二王一部。
六日 晴天。大江村立、辰の刻。徳本の妹宅へ立寄り托鉢の處、法事あり二汁三菜の料理出る。其上今晩一宿せよと申さるゝに付宿す。

この辺りは徳本(とくほん)上人生誕の地でもあるようです。泉光院は2年程前の文化十三年三月廿四日に高崎城下で、
…城下町冷泉寺と云ふに紀州産の徳本上人昨日江戸より着ありたりとて…徳本上人の説法を聞きに行き、…十念授かり六字名號貰…ったことを、No.148 上州路 の項で書きました。その時は「南無阿彌陀佛」の名號を頂いて、…幸ひなり…と喜んだのでしたが、…日も西山に落つる故、旅宿を尋ね行きたる處、徳本參詣の人男女數知れず居る、…で、ようやく豊岡村傳四郎さん宅で泊めてもらったのでした。

日記の続きは、徳本上人の幼時から修行にまつわるエピソードをひじょうに長く、(約1600文字以上)書いているのでうんと要約しておきます。

億本上人は幼名を重助といって、子供の時から洞穴に籠もって念佛三昧、寒暑共に木綿の単衣物だけで生活して、長じて田畑の仕事をしても、…虫も天地の間の者なれば、食せずには居られまじ、腹一杯食したら止むべし、是を殺すことは罪なり、とて其儘になし置きたり。… だったけれども、ほかの人より収穫が減るということはなかった。
徳本上人坐像
…惣じて幼少の頃より念佛計りの人なれば読み書きの事は一切無き人也、至て文盲の人也。…でしたが、26歳で出家して後、日本各地を念佛しながら説法をして歩くのです。紀州の殿様からも召し出されていますが、自分の事を、…下賤の生れ、其上無知蒙昧にして東西も分ち難し、…と言ってもっぱら民衆の間に入って念佛し説法をしている人でした。右は日高町誕生寺に残る徳本上人の坐像です。
泉光院は、上人の兄や妹から徳本上人の事をいろいろ聞いて日記に書き残しているのですが、省略しまして、

…夫より徳本幼少の時毎日念佛せられたる岩穴一見に行きたる所、生い茂りて何の印もなき故、草を拂ひ石をもて禮座の如きを拵へ、平四郎大ヘチの内玉島と云ふ所より黒色の丸き一尺計りの石を拾ひ來り納め置きたり。由良村吉藏と云ふに宿す。

というふうに徳本上人を偲んでいます。だが、泉光院が高崎での上人の説法を聞いてから、上人は江戸へ帰ってその年の10月頃には歿していたようです。そんな情報は故郷にまでは届いていなかったようですね。

八日 晴天。由良村托鉢、晝より吉藏方出立、興國寺とて曹洞禪日本四ヶ寺の一也、詣納經。折柄佛生會參詣多し中村平助と云ふに宿す。
興國寺

興國寺は先に書いた普化宗明暗寺の本寺でもあります。
8月15日の盂蘭盆会には日本三大火祭りの一つとして燈籠焼というのが行われます。



興國寺燈籠焼
左、興國寺。
右、燈籠焼。
燈籠焼の時は大勢の虚無僧姿の僧が尺八を吹いているのが見えます。
この日は四月八日。お釋迦様の誕生日、佛生會だったから參詣人が大勢来ていた。
ワタクシも子供の頃、近くの慶覺寺(きょうかくじ)というお寺で「花祭り」があった。本堂前に釋迦誕生佛が置かれていて、柄杓で甘茶を汲んで頭からかけて、ついでに甘茶を飲んで、お菓子を貰って楽しい一日をすごした。

九日 晴天。中村立、辰の刻。峠を越へ湯崎と云ふ三千軒計りの町へ出る。此所に一向宗正學寺と云ふがあり、昨日鐘鑄ありて今日掘り出せり、一見す。
梵鐘鋳造

由良町の中村から有田郡の湯浅町へ行ったようです。たまたまお寺の梵鐘を鋳造していて、今日それを掘り出すところだという。さっそく見に行きました。あんな大きな物を鋳物で作るのだから当時としては大工事です。
梵鐘鋳型
右は今の作り方です。
梵鐘の木型を作って型枠の中に入れて、鋳物砂を入れて固めてから木型を取り出して、溶けた銅合金を上の穴から流し込む。
すっかり冷えてから型枠をはずして、鋳物砂を取り払うと出来上がる。
泉光院もここへ来るのがもう2日程も早ければ鋳込むところを見ることが出来てもっと面白かっただろう。

ワタクシは旧制の工業学校の電気科という所へ(倍率4倍!の試験を受けて)入学したのでしたが、最初の(中学一年の)時は機械実習を習うのです。週3時間で、旋盤・ボール盤などの工作機械の運転・切削や、鍛造(鉄を焼いてトンチンカン叩く)、鋳造(つまり上に書いたような溶かした鉄を型に流し込む)、といったことを一通りやりました。ところが一年経って昭和22年になったら学制改革ということで、工業学校というものが高等学校以上の学科になって、中学校は普通の中学校になってしまって、今迄のような「腕を磨く」勉強はやらなくなってしまった。だがワタクシにとって、このようなたった一年間だけだったけれどもこの体験はひじょうに大切なものだったことを今改めて思うのです。中学生位の年齢のときに体を使って物を作って、腕を磨く体験をやっておくと、それがあとになってずいぶん役に立つものです。
余談はさておいて、

十日 晴天。田村立、辰の刻。又峠を越へ千田村と云ふに行き托鉢、當所谷廣く四方は高山也。絶頂迄皆々拓き地となし蜜柑畑也。紀の國蜜柑とて名物は此地より出る也。…
蜜柑山

有田は蜜柑の産地。当時すでに広い面積で蜜柑が栽培されていたことが判ります。

紀伊国屋文左衛門が元禄年間、蜜柑を江戸へ送るために廻船を仕立てて悪天候の中、決死的に運搬して巨利を得たことが伝説として残っている。この時の利益は五万両だったとか、三十数万籠を出荷したとか、伝説はさまざまに拡大して、
   …沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の國蜜柑船…
と、カッポレで唄われた。彼が豪商となったのは火事の多かった江戸へ大量の木材を運んだからであって、蜜柑だけであんなに儲けたわけではない。しかも百萬両といわれた資産を彼一代で吉原の遊里で蕩尽してしまった。
蜜柑実蜜柑です。
   ♪てんてん手鞠は 殿さまに
    だかれて はるばる 旅をして
    紀州はよい國 日のひかり
    山のみかんに なったげな
    赤いみかんに なったげな
    なったげな   ♪
 西條八十・中山晋平、鞠と殿様

この歌はワタクシのブログを読んでくださっているほとんどのお方は幼い頃に歌った覚えがあるでしょう。
こんな歌でしたね。
♪てんてん てんまり てん手鞠 てんてん手鞠の 手がそれて どこからどこまで 飛んでった 垣根をこえて屋根こえて おもての通りへ飛んでった 飛んでった

この歌は全5節あって、上に書いたのは一番おしまいの節です。
懐かしいから歌いたいのだが途中を忘れちゃって… という方のために各節の歌い出しを書いておきましょう。
2節 ♪おもての行列なんじゃいな 紀州の殿さまお国入り 金紋先箱供揃い …
3節 ♪てんてん手鞠はてんころり はずんでお駕籠の屋根の上 …
4節 ♪お駕籠は行きます東海道 東海道は松並木 とまり泊まりで日が暮れて …
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■昭和前期の童謡

sazanamijiroさま、お訪ね下さりありがとうございます。

大正後期から昭和前期にかけて、子供のために多くの文学者・画家・音楽家がいい作品を書いていたのでした。
ワタクシの知っていることを実は書きたい思いがあるのだが多少あやふやなところもあって書きそびれております。
いずれ時が来たらワタクシなりに残せるものは残しておきたいと思っております。
どうぞよろしくお願いいたします。
ヨリック |  2018.02.09(金) 22:22 |  URL |  [コメント:編集]

この歌、5節まであったとは知りませんでした。
妻がよく祖母に歌ってもらっていたそうで、懐かしいなと言っておりました。
sazanamijiro |  2018.02.08(木) 23:58 |  URL |  [コメント:編集]

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