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2018.02.09 (Fri)

泉光院の足跡 286 二十五菩薩来迎會式

十一日 晴天。夕方雨に成る。今日は滯在して托鉢せよと申さるゝに付、瀬川村托鉢、此村にて蜜蜂の家内分けと云ふを見る。蜂數千の内に旦那蜂と云ふがあり、是れ一匹也。此蜂二匹となれば家内分けする也と云ふ。此の旦那蜂の行く方へ數千の随蜂付き添ひ行く也。旦那蜂の留まりたる所へ鞠の如く集まる。密橋の分封
一匹も脇へは行かず、其集まりの内、旦那蜂を箱に入るれば皆々直ちに箱の内に入る也。其家内分けの時、随身の蜂誤て元の巣へ立歸れば友蜂共喰い殺す由也。虫類にても主人を大切にす、況や人間に於いてをや。夕方頭左衛門方へ歸り宿す。

蜜蜂の分封を見ました。
旦那蜂を女王蜂、随蜂を働き蜂と言い直せば何も付け加えることはありません。
右が分封の様子。

十二日 雨天。據なく滯留す。扨又明十三日より十五日迄二夜三日間、雲雀山得生寺と云ふに、大和國當麻寺の通り廿五菩薩練供養の由聞く、因て幸なれば參詣せんと思ひしに雨故一句、
   涼しさよ情けの雨は濡る哉
十三日 晴天。西千田村立、辰の刻。星野村と云ふに行き藤五郎と云ふに宿す。今日瀧川村と云ふへ托鉢に行く、天口と云ふ俳人宅へ見舞ふ、折節江州石山開帳參りの由にて留守也。因て一句殘し置く、
   一聲も聞かで名殘や時鳥
留守居より一句先生の句とて送らる。俳名天口と云ふはノムと云ふ字也、先生は酒が好物なれば斯く改められたりと留守居の話し也、夕方藤五郎宅へ歸る。

得生寺というお寺へ来ました。このお寺で奈良の当麻寺と同じような二十五菩薩の練供養があるというので、それを是非見ようと思うのです。
その前に、有名な人なのだろうか、天口先生という俳人を訪ねたら、先生は滋賀県の石山寺のご開帳を見物に行っていて不在、とのこと。…先生のお声を聞く事が出來ず殘念…、というような句を置いたら、留守居の門人だろうか、先生作という句を一句書いてくれた。門人の言うには、先生はお酒が大好きなので、「吞」という字を分解して、「天口」という俳名にしたとの事。

十四日 晴天。朝飯後より有田郡糸鹿村雲雀山得生寺と云ふ中將姫の寺へ詣納經す。中將姫始めて捨てられし地は麓より十五丁計り山の絶頂也。今五輪石高さ三尺計り、外に小さき石地藏安置せり。一間四方の石段あり、石燈籠あり、雲雀山大権現とあり、後に居住の地は今の得生寺也。寶物等開帳あり。本堂南向、七間四面、浄土宗、中尊彌陀、前に姫の木像高さ三尺計り、晝時より練供養始まる、寺の玄関より本堂迄の間金折りに十二三間の廻廊を掛けたり。樂屋にて簫、篳篥(しょう、ひちりき)等の音樂を奏す、廿五の菩薩次第に行列あり持物銘々あり、中程に輿を舁く、是れ彌陀か釋迦也。入堂の上菩薩段に登す、衆僧法事あり、相濟み又練りかへす、後に大衆施餓鬼あり。練供養の式紀州當麻寺の通り也。役者は十二三計りの子供也。肌着は鬱金染筒袖、手はめりやす、輪光寶冠黄金色、佛面天衣錦袖前垂の如きは皆錦にて、さながら菩薩の装束の如し。先づ一番に地藏の如きが右に錫杖左に寶珠を持てり、殊勝の法事也。一句、
   あゝ尊と我も心の練供養
得生寺

右が得生寺。ここは中将姫ゆかりのお寺です。
時は平安時代、中将姫は、天正十九年(747)、今の奈良市帯解あたりに住んでいた右大臣藤原豊成お娘として生まれました。
琴が上手だったので天皇に可愛がられたのだが、7歳のとき実母が死んで、その後継母のいじめにあって、姫が13歳の時に家臣の伊藤春時に命じてこの雲雀山の地に捨てさせたのでした。だが春時は姫の崇高な人柄にうたれて殺すに忍びず姫に仕えて養育したのでしたが、春時は病で死んで、姫は春時のために淨土經一千巻を写経して菩提を弔っていたのでした。たまたまその3年後、父である藤原豊成がこの地に来て、娘の中将姫に再会し、都に連れ帰ったのでした。
中将姫坐像
左、中将姫の(尼僧になった時の)像です。

都へ戻った中将姫はその後発心して當麻寺を訪れ、尼になる決心をするのですが、それからあとのことは泉光院が奈良へ行って當麻寺を訪れたときに書くとして、泉光院も見たという得生寺の練供養のことをまず書いておきましょう。


得生寺練り供養
中将姫の命日にあたる四月十四日(今の新暦では月遅れで5月)に、有田市糸我町の得生寺では極楽浄土から二十五菩薩がお迎えに来たという伝説を再現して、右のような「二十五菩薩来迎会式」が行われるのです。
錫杖を持った地蔵菩薩を先頭に、頭部に光輪を背負った菩薩像そのままの扮装をした小学生の女の子がお練りをするのです。泉光院の時代と同じ光景を今でも見ることが出来るのです。

「嫁をとるなら糸我の会式、婿が欲しけりゃ千田の祭」といわれて、かわいい女の子がお練りに出るので、お嫁さんをこの中から見つければいいのです。
近くの千田の須佐神社で十月十四日に行われる喧嘩祭ではきっと元気な若者を見つける事が出来るでしょう。

泉光院は托鉢しながら和歌山市の方へ向かっています。日記本文は省略しまして概要を、…
…辨當持たずに行きたればひだるしひだるし,兩村皆々商人なれば茶も出でず、…
とか、權兵衛宅で泊まった時は、
…大雨。據なく滯在。家内中或る者の嘘八百の話しを面白がるを聞きて、…と何事もなく歩いています。大雨が降れば働いている人も居ませんから、平四郎の「廻国武勇談」をご近所の人が集まってきて楽しんで聞いている。泉光院は…嘘八百…と悪口を言っているけれども、今みたいに新聞ラジオにテレビに携帯、映画にパチンコ何でもありの時代ではありません。平四郎の面白可笑しい廻国談は落語を聞いているようで楽しいのです。聴衆は拍手を送ったに違いありません。

十八日 晴天。ハシカミ村立、辰の刻。峠を越へ濱中と云ふ村へ行く。長保寺と云ふ天臺宗紀州公御菩提所御靈屋あり、樓門二王を安置す。石段一丁上る。釋迦堂南向、七間四面、多寶塔、外に堂二宇、寺中七八軒境内山林廣し。夫より南谷に入り笈頼み置き托鉢す。今晩は一宿せよと云ふに付宿す。善助と云ふ宅。
頂保寺本堂牡丹

右、長保寺の本堂(釋迦堂)です。このお寺は古いお寺で、紀州が紀伊徳川家の領分となって、初代藩主徳川頼宜がここを菩提寺としたのでそれからずっと繁栄した。樓門、釋迦堂、多宝塔など國寶です。
長保寺二王

左が樓門の二王のうち吽形。
長保寺多宝塔

そして右が多宝塔。



十九日 晴天。南谷立、辰の上刻。大崎と云ふ港へ托鉢に行く、北原と云ふに笈頼み置き行く、夕方歸り其宅へ宿す。
二十日 晴天。北原村立、辰の刻。今日も道々托鉢、一里計り行き下村彦四郎と云ふへ夕方宿す。當村善根宿なき所也.。

このあたり、善根宿をしてくれる家が少ないらしくて泊めて貰うのに苦労しています。

廿一日 晴天。下村立、辰の上刻。峠を越へ鹽津と云ふ百軒計りの廻船村へ行き托鉢、嘉七と云ふ宅にて晝食の施行あり。此人少し學問ある人にて儒神佛の話しに隙入り七つ前になる、鹽津と云ふ處は善根宿なき所故脇村へ行き、又峠を越へ一村あり、宿求むる所、當所は皆々一向宗にて善根宿なしと云ふに付、庄屋へ宿貰ひに行きたるに、辻番小屋へ宿遣はす様聞き候故に又々八丁計り山道を行き、藤代と云ふ巡禮街道へ出たり。是れ又善根宿なく、木賃宿へ行きたるに旅籠ならば宿は借さじと云ふ、方々聞き合はす所宿なし、漸く木賃に宿す。最早初夜也。月讀屋と云ふ宅。
廿二日 晴天。州崎村立、辰の上刻。二番札所紀三井寺へ詣納經す。二王門より石段を登ること三丁、本堂南向、八間四面、諸堂多し、本堂に舞台あり、西海を眼下に見る、又和歌の浦半道の外に見ゆる絶景の地也。夫より船にて大川を渡り和歌の浦へ行く、今明光の浦と云ふ玉津島明神へ詣納經す。本社南向、石山の内にあり、小社也。…
紀三井寺楼門
西国三十三番觀音札所第二番、護國院金剛寶寺です。
境内に、清浄水・楊柳水・吉祥水という三つの井戸があるので三井寺です。名水百選にもなっています。

近江の三井寺と区別するために【紀】の字を付け加えているのです。石段を登って左の写真の樓門をくぐるとそれからまた231段の石段が続きます。紀三井寺多宝塔櫻

右は多宝塔。櫻の美しいお寺です。


ここから見下ろせば右手に和歌浦、眼下に片男波という波穏やかな入江の浜。古くから風光明媚な地として有名です。
♪若の浦に潮満ち来れば潟をなみ 蘆辺をさして鶴鳴き渡る♪ という万葉歌人山部赤人の時代から、聖武天皇がここへ来て仮宮を建てて「明光浦 あかのうら」と呼び、江戸時代までは絶景の地として有名でした。

…片男波は西十丁計り外に海あり此處也と云ふ。奉納一句、
   和歌の浦や陸は卯つ木の片男波
夫より東照宮へ詣づ。花表より石段を上がる事一丁、美しき宮建也。西向、寺中多し、夫より五百羅漢へ詣づ、夫より和歌山城下へ出る。御城東向、平城、内廓の内少々高し、町數多く東北に堀あり、家中は御城より南にあり、城下を過ぎ日前明神と云ふへ詣納經す、天照大神也。日も西山に落ちる故に有合村太十郎と云ふに宿す。此村善根宿なき所、因て無理を云ひ宿る。
和歌の浦片男波

左が片男波。
実は「片男波」で検索をかけると出てくるのは「1200mにも及ぶ人工の砂浜の海水浴場」とか「潮干狩に快適」としか出てきませんし、玉津島明神も潮の干満で陸と続いたり離れたりする島の所にあった神社だったのでしたが、今は陸続きになってしまって泉光院の時代とはおよそかけ離れた光景になっているようです。
左がようやく見つけた少しばかり古い時代の片男波の浜辺の写真です。

和歌山城下へ入りました。右が1958年に新築した和歌山城の天守閣。和歌山城天守閣

関ヶ原の戦(慶長五年1600 )の後、戦功によって浅野幸長(よしなが)が紀伊國主として入城して本格的に増築を始めて、大天守・小天守・角櫓・多聞櫓など御城の形を整えた。その後元和五年(1619)に徳川頼宣が入って徳川御三家(尾張・紀伊・水戸)の一つとなった。
天守閣は弘化三年(1846)に落雷で炎上してしまって、当時幕府としては天守閣の再建を認めない方針だったのだが、御三家ということで特別に許可されて嘉永三年(1850)にほぼ旧型通りの新天守が落成した。ところがそれから100年ほどたった昭和20年(1945)、空襲でまた全焼して、先に書いたように昭和33年に鉄筋コンクリで作り上げたので、右の写真のようにまだ焼けないで残っている。
和歌山へワタクシは一度だけ仕事で行った事はあるのだが、なぜかここでワタクシは名所旧跡銘菓といったものを何一つ見ていないのです。ワタクシは会社の出張で北海道から九州までかなりいろいろ行っていて、お仕事の方は何とかギリギリ報告書を書く程度のことをした後は、時間の許す限り名所旧跡を訪ね、オイシイお菓子を捜し、その蓄積が今こうしてブログを書くのに大いに役立っているのだが、ここ和歌山ではお仕事も名所旧跡もお菓子も、何一つ記憶にないのが不思議。
和歌山東照宮
日光の東照宮は御存知のように徳川家康を祀った社ですが、幕府のご威光を恐れて大名の方々は自分の御城の近くに東照宮を建てました。日本中で東照宮を名乗るお宮は50ばかりもあって、彫刻彩色それぞれ綺麗に作ってあります。左が和歌山東照宮。
和歌山は徳川御三家のうちですから大きくて立派ですね。

…城下を過ぎ日前明神と云ふへ…お詣りをしています。
ここは紀伊國一の宮で、広い境内の奥、左に日前(ひのくま)神社と右に國懸(くにかかす)神社とが一つの敷地の中に並んでいる。両方一括して日前宮(にちぜんぐう)と呼んでいる。
日前神社拝殿國懸神社


左が日前神社の拝殿。              右が國懸神社の本殿。

…天照大神也。…と書いているのは御神体が日前神社の方が「日像鏡 ひがたのかがみ」、國懸神社の方は「日矛鏡 ひほこのかがみ」・両方とも鏡で、アマテラスの時代は鏡や劍が権威の象徴だった名残でもあるのでしょうか。
この神社の近くには紀伊風土記の丘というのがあって、前方後円墳や方形周溝墓など600ばかり、いろんな古墳の見学ができるようになっている。次に行く伊太祁曽明神とあわせて新羅からの渡来人の場所だったのかもしれない。
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*Comment

■糸我稲荷

宙海さま、お訪ね下さいましてありがとうございます。

ワタクシは、本文中にも書いておきましたけれども、和歌山市には会社の出張でお仕事に行ったのでしたが、あまり余裕がなかったためでしょうか、名所旧跡、観光など全くしなくて、さらには、ワタクシは行った先ではオイシイものを食べることと美味しいお菓子を買って帰ることを欠かしたことがないのでしたが、この和歌山ではそれすらできなかったのでした。

和歌山県でワタクシが行ったのは新宮から熊野、勝浦から潮岬あたりまでで、そこから西へは全く行っていないのです。
ずうずうしくも泉光院の行った場所は日記を頼りにワタクシの知らない場所でも知ったかぶりで書いております。
よくないですねぇ。
ヨリック |  2018.02.11(日) 20:23 |  URL |  [コメント:編集]

こんにちは。

得生寺の近くに日本最古のお稲荷さんの糸我稲荷神社があるのですが、行かれましたか?
小さいのですが、静かでなかなか良い神社でした。
その隣のくまの古道歴史民俗資料館、無料で見られるのですが、誰もいないけどいいの?と思いながら、展示品をゆっくり見せていただいました。
宙海(そらみ) |  2018.02.11(日) 15:31 |  URL |  [コメント:編集]

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