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2018.02.20 (Tue)

泉光院の足跡 288 西行櫻

6年2ヶ月にわたる長い旅で欠かさずに日記を書き続けた泉光院。
だが5月の2日、この日だけ日記が書いてないのです。一体何があったのでしょう。
【二日】←この日は記載なし。
几帳面な泉光院には珍しく!!!

三日 曇天 昨日立ち寄りし宅へ行きたるに、他出に付隣家へ尋ねたる所押付け歸らん休息せよと申さるゝに付滯留托鉢す。理右衛門と云ふ宅別宅に隠居新宅あり、此内に宿す。
四日 晴天。今日も滯在して洗濯する。
五日 晴天。節句也今日迄は休息せよと懇ろに云ふ故に滯留す。平四郎は襦袢等調へたり。肥前島原大社參り親子三人連れの者又々同宿す。節句一句、
   家々の富は幟に知られけり

五月五日は端午の節句。奈良時代から今に続く節句です。鯉幟
中国黄河上流の龍門の瀧をたくさんのお魚が登ろうと試みたのだが、鯉だけが登りきって龍になった。
それで龍門の瀧を登ることを「登龍門」といい、鯉の瀧登りは立身出世の象徴となった。
昔は旧暦五月五日というと梅雨のさなかで、雨の降る日に鯉を上げて男児の出世を願うという、武家で始まった行事ですが、江戸時代には庶民の家でも鯉幟を上げるようになった。
姿はその頃から「江戸っ子は皐月(さつき)の鯉の吹き流し」という諺のように、口だけが大きくてお腹はカラッポ、と今と同じような形になっていたようだ。そしてお金持ちの家は立派な大きいのを立てたことが泉光院の下手な句でもよくわかります。

六日 晴天。赤貝村立、辰の刻。森村久右衛門と云ふに宿す。
七日 大雨天。據なく滯留す。
八日 晴天。森村立、辰の刻。國分寺へ詣で納經す。門前松並木少々あり。本堂南向、六間四面、寺一ヶ寺、門なし、鐘樓一つあり。夫より中三谷村と云ふに行き貞右衛門と云ふに宿す。

紀伊國分寺跡です。手前に見えるのは金堂の礎石。向こうに見えるのは再建した講堂。JR和歌山線下井坂駅で下車、300mほど北へ向かって川を渡ると松並木があって、八光山國分寺醫王院というのになります。紀伊国分寺
ここの所が泉光院の詣納経した国分寺で、これを中心に200m四方くらいに聖武天皇の発願した國分寺があるわけです。
発掘の結果、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並んで、金堂と講堂の間の東に經藏、西に塔があったことが判明しています。
ほぼ大阪の四天王寺と同じような伽藍配置です。
そして元慶三年(879)に火災があって焼けてしまいました。

九日 晴天。三谷村立、辰の上刻。北篠村理八と云ふに宿す。
十日 晴天。滯在。近村托鉢す。飯米拵へする。大工の宅故に寄せて一句、
   涼しさやゆみの館のたくみ哉
十一日 雨天。滯在。平四郎は町人程あり飯米とて昨日より荒麥を精げたり。
十二日 晴天。今日迄滯在して西國巡禮札所粉河寺へ詣納經。本堂十五間四面、南向、諸堂多し。童男形とて子供の像あり。此像寺中の池内より出現の形也。是れ當山の本尊千手觀音也と云ふ。寺中多し、天台宗也。二王門、中門、四天王、門前町數多し、地は少し谷合也、寂々たる地也。
粉河寺本堂

右が粉河寺本堂。
清少納言が枕草子に、…寺は石山・粉河・滋賀…と書いているように、古くから名刹として知られています。
そして今も西國觀音札所第三番として巡礼の人が絶えません。


粉河寺童男形
左が泉光院の言う童男形の像が置かれている童男堂です。
國寶の『粉河寺縁起絵巻』によると、2つの説話があって、まず第1話は、那珂郡に住む大伴孔子古(くじこ)という獵師が不思議な光を見て、佛堂を建てて佛像を納めて功徳を、都願っていた時、ひとりの童子が現れて、千手觀音を彫りあげて姿を消したという、粉河寺創建の物語です。
第2話は、河内国の長者の娘が異常に太るという奇病に罹って心配していると、ひとりの童子が現れて、娘の病を治して粉河に住することを伝えて去ったので、長者がお礼のために粉河へ訪れたところ、千手觀音の手に娘がお礼にと渡した贈り物が吊されていたので、長者はこの千手觀音が童子の姿となって娘を救ってくれたことを知り、長者一族うちそろって佛門に帰依する、というお話。
ここまで読んでみると、泉光院が…子供の像あり、…是れ本尊の千手觀音也と云ふ…と書いてあるのが判るのです。

十三日 晴天。平四郎紙帳を仕立て晝時北條村立、高野山の方へ船渡りで行く、此川吉野川の下也。夫より大洲峠と云ふに掛かる、一里あり、峠の茶屋へ泊る。和歌山の老人同宿す。
十四日 晴天。峠茶屋立、辰の上刻。山を越へ谷に下り高野山西坂元に花坂と云ふ宿あり。此所に笈頼み置き高野山へ登る、五十丁、諸人知るところなれば略す。寺數七千軒。予回國諸山一見するに高野に似たる所もなし。日本第一の靈場也。高野山一句、
   あゝ不思議ヲンアボキアと呼子鳥

紀ノ川を船で渡って、紀ノ川の南岸、麻生津峠というのを越えて、高野町の花坂の宿屋に荷物を下ろして高野山に登った。例によって…諸人知る所なれば…と以下省略してしまっていますが、ここもワタクシめが蛇足を付け加えておきましょう。

およそ1200年前、真言密教の靈場として開かれた高野山は、1000m前後の山々に囲まれた山上の盆地にあります。ここに朝廷から認められてお寺を造ったのは洋行帰りの弘法大師空海でした。高野山空海入唐
彼は延暦二十三年(804)、右の絵のような遣唐使船に乗り込んで、中国南部の福州という所に漂着して、それから唐の都長安まで行って、青龍寺というお寺で密教というのを勉強したのでしたが、師が死んでしまったのでわずか2年で帰国してしまいます。本当は20年滞在予定の留学生(るがくしょう)として出発したのに、です。

密教の教義など詳しいことはワタクシにはとうてい知ることの出来ないものではありますが、お釈迦様が死んでから1200年も経ったころですし、お釈迦様の言葉が西パキスタン・アフガニスタン・トルキスタン・チベット・中国…、といろんな国の言葉に翻訳されながら伝わるのですから、空海が勉強してきた「佛教」なるものはお釈迦様の語った言葉とはかなり違ったものになってしまっているのです。大日如來というのが釋迦を超える宇宙の本質的なブッダとして存在し、数億という数の「佛」がこの宇宙の中に充満しているのだし、「即身成佛」といって誰でも簡単に(といってしまっては問題もあるのだろうが)佛になれるということになってしまった。そのことはまた別の所で触れるとして、まず高野山に登ってみましょう。

バスで行くと金剛峯寺の大門前に着きます。
高野山大門

ここは高野山開山以来の表玄関で、ここから山内に入ります。
少し坂を下るようにして行くと、道のわきに「町石 ちょういし」というのが所々に立っています。


高野山町石道

麓の方にある慈尊院から根本大塔までの180町と、根本大塔から奥の院までの36町の間に、1町(約109m)ごとに立っています。高さは3mほどで、右の写真のように全体が五輪の卒塔婆形式になっています。

そしてその先に根本大塔というのがあります。
おびただしい高野山の伽藍の中心的な堂塔の一つで、空海が生きていた頃に計画され、死後50年程経って完成しました。

高野山根本大堂
数度の火災を経て、いま建っているのはワタクシの生まれた頃に建てられたごく新しいものです。
多寶塔と同じような形をしているのだが、ここでは根本大塔と言っていて、胎蔵界大日如來を中心に据えていて、国家の基柱、密教の根本思想を表現しているのだそうです。大きい塔なので、写真に写すと歪んでしまっていけませんね。


高野山不動堂



根本大塔からちょっと石段を降りたところに、高野山に現存する建物では一番古い國寶の「不動堂」があります。
佛殿というよりも貴人の書院、といったおもむきの建物で目立たないのでこの前でたたずむ人は居りません。

高野山西行櫻
この不動堂のすぐ近くに西行櫻がありまして、以前のは文化年間、つまり泉光院がここへ来た頃にはあったのでしたが枯れてしまって、左の写真のは見た通りの若木でこれが二代目西行櫻になりました。
左端にちょっとだけ屋根が見えているのが根本大堂で櫻の木の向こうに見える建物はいまは大会堂(たいえどう)と呼ばれている蓮華定院。西行はここで
「高野の籠りたりける頃、草の庵に花の散り積みければ、
   散る花の庵の上を吹くならば 風入るまじく巡りかこはん  」
と、一首残しています。西行は32歳の頃の久安五年(1149)、落雷で焼失した大塔・金堂・灌頂院の復興のために勧進聖として招かれて高野山へ入って、晩年、伊勢に移住するまでの30年程の間、高野山を中心に活躍しているのです。
蓮華定院は鳥羽天皇の皇女で五辻齋院頌子(うたこ)内親王が鳥羽院の供養のために建てた建物で、もとは別の場所にあったのだがここに移築することになって、西行が建築奉行として工事に携わっていて、この建物の隣の三昧堂で工事の指揮をとっていたようだからその時にでもこの櫻を植えたのだろうか。
西行はもと佐藤義清といって宮廷警備の武士として鳥羽院に勤務していて、その頃藤原公重から和歌を習い、その叔父の藤原實能の家人となっていたのです。そして實能の妹璋子(しょうし)が鳥羽天皇の後宮に入り、女御から中宮へとすすみ、その間に皇子を生んで、それが5歳で崇徳天皇として即位してからは國母となり、天治元年(1124)には女院となって待賢門院と号していました。西行はこの待賢門院に対して終生変わることのないある強い感情(われわれ下々ならば戀?)を抱いていたようです。そういうこともあって、鳥羽天皇と待賢門院の娘である頌子サンから建物の移築を頼まれたのなら喜んで応じたのでしょう。

旅行業者が募集している高野山観光ツアーに参加すると、色鮮やかな根本大塔を見て、総本山金剛峯寺大主殿という大きな建物の中に導き入れられて、大広間で出されたお茶を飲んでお菓子を食べて、目の前に下がっている二枚の大きな「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」に就いての長々しいお説教を僧侶から(全く意味は判りませんが)聞かされて、それからずっとたくさんの五輪塔型墓石を眺めながら奥の院まで歩いて行って、そこには今も生きている弘法大師(現に毎日僧侶がお食事を運んで弘法大師に召し上がって戴いてるのです)に手を合わせて、その夜は山内に数多くある(70何ヶ寺かあるらしい)塔頭の一つに泊まって精進料理を食べる、というのが今の高野山慣行詣での風景です。
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