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2018.02.26 (Mon)

泉光院の足跡 290 水銀

十五日 晴天。花坂立、辰の刻。天野と云ふに赴く、當所は高野山鎮主四社明神也。晝時着納經。大社、寺中多し。夫より慈尊院へ詣づ。此所は大師母儀の御寺也、納經す。又東三里に廟所あり、寺あり、其少し東に村あり、此所に眞田幸村の屋敷あり、一反計り、今小庵を結べり。眞田本尊の地藏を安置す。又庵より東に當り眞田の抜穴とて深さ知れず、今は百姓屋敷故に埋めて藏を建てたりと云ふ。慈尊院へ歸り寮に宿す。
高野山道町石道
高野山を下ります。大門の所から国道480を少し下ると花坂の村で、 ここの所に笈を預けて置いたのでした。
泉光院の通った道は町石道で、今もハイキング道となっているのだが、最近は右(及びNo.288 西行櫻にも載せておいた)の道をアスファルトの国道が横切ったり、町石をその国道脇に付替えたりして(37・38・39町など)所々無惨な有様になっているようです。
高野山道二つ鳥居
ずっと下って二つ鳥居(左)の所からはのどかな天野の里(右)が見下ろせます。
高野山道天野の里




天野の里には丹生都比売(ひうつひめ)神社がありますが、これが泉光院のいう四社明神です。

丹生都比売神社本殿


左が丹生都比売神社本殿で、春日造の社伝が4つ、軒を連ねています。

4人の神様(四柱というのが正しいのでしょうか)が祀ってあって、



第一殿 丹生都比売   にうつひめ    丹生明神
第二殿 丹生高野御子  にうたかのみこ  狩場明神
第三殿 御食都比売   みけつひめ    気比明神
第四殿 市杵島比売   いちきしまひめ   嚴嶋明神
となっていますが、後のお二方はずっと後の鎌倉時代になってから付け加えられたものらしいです。
丹生(にう)、というのは丹土が生まれる所、という意味で、丹=辰砂=硫化水銀を含んだ朱色の土。それがこのあたりから採れた。
朱は、それだけでも防腐剤として優れた性質を持っているので、神社佛閣の塗料として、また美しい赤色を呈するので絵画の顔料として利用されたのですが、それにもまして重要だったのは精錬して水銀を取り出せたのです。
水銀はいろんな金属とアマルガムを作るので(鉄・ニッケル・白金を除きますが)、例えば奈良の大佛サンなどに金メッキをするときの必需品ですし、古代の鏡を磨く時とか、(たいへん怪しいことですが)不老長寿の薬だと思われたり、堕胎薬に使われ(これは生命の危険があります。絶対に使わないように)たりしました。このように水銀はひじょうに貴重な鉱物です。
伝説としては丹生高野御子が黒白二匹の犬を連れた獵師の姿になって弘法大師の前に現れてここへ案内し、丹生都比売から高野山の地を(水銀の発掘權と一緒に)譲られたといわれるのです。弘法大師が宮廷や貴族に対して大きな発言権を持つに至ったのは、背後にこの水銀の力があったためでしょう。
弘法大師は山伏と同じように山野を跋渉し、かなり天然資源探索の目を持っていたようだし、今でも弘法伝説としてよく知られているように、温泉の発見、堤防や灌漑池の建設工事、といった土木工事にも優れた能力を持っていたのだと思います。
高野山聾瞽指歸

また、弘法大師は日本三筆(嵯峨天皇・橘逸勢(はやなり))の第一と称される書の名筆として知られています。
右はまだ若い頃(24歳)に書いた『聾瞽指歸 ろうこしいき』という論文の最初の部分です。弘法の筆についてワタクシが論評を加えるなどという畏れ多いことは止しましょう。
「弘法も筆の誤り」という諺は、猿も木から落ちる、とか、河童の川流れ、と同じようにどんな名人上手でもときには誤ることもあるものだという譬えに使われる言葉ですが、うわさでは一度だけ間違ったことがあるというのです。

大内裏に應天門というのがありますが(朱雀門を入るとすぐ目の前に見える門、とても大きな門です)、この門の額を書くように勅命が下った。その時の天皇は多分空海が帰国してからのことだろうから、嵯峨天皇でしょう。命を受けて書き上げて門の上に掲げたところ、應の字の一番上の点がない。人々が驚き騒ぐ中、空海はたっぷりと墨をつけた筆を額に向かって投げ上げ、見事に点を打った、という噂だそうです。名人上手は誤りの後始末でもユニークにやるものだと噂は拡がったのでした。

次は慈尊院へ行きました。このお寺は空海の母が亡くなった寺と伝えられているので、後世「女人高野」といわれ、女人禁制の高野山に対して女性の參詣の多いお寺です。
慈尊院多寶塔慈尊院町石道


左が慈尊院多寶塔。そして高野山への登山道はこのお寺が起点となって、町石道が高野山根本大堂まで続いているのです(右の写真)。
有吉佐和子の小説『紀ノ川』にも安産祈願の乳形を奉納するお寺として登場します。
慈尊院乳形

左が安産祈願のために奉納した乳形。
羽二重の布でオッパイの形を作って奉納するのです。
多寶塔の隣りに弥勒堂があって、この中に空海の母がお詣りしたという寛平九年(892)の銘のある國寶の木造彌勒菩薩坐像という「秘佛」が入っているのだそうです。
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この付近の山は九度山というのだが、それは空海が母を見舞って高野山から九度下りてきたからだそうです。ワタクシの知っている九度山は、ワタクシがまだ少年といえる頃に読んだ立川文庫の『真田十勇士』という本の中で、猿飛佐助・霧隠才蔵・穴山小介・三好清海入道…といったヒーローたちが活躍することで懐かしい地名です。
眞田庵
左が現在の眞田庵。

慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに破れた眞田昌幸・幸村父子が配流された屋敷跡、と伝承されていますが、九度山出身の僧大安が地藏菩薩を安置したのが始まり、というお寺で、現在は尼寺。

泉光院の書いている「眞田の抜穴」というのは古墳があって、その羨道(せんどう)のことなのだが誰の古墳なのかはわからない。
眞田幸村が大坂冬の陣の時に九度山を抜け出して大坂城へ入城し、徳川家康をアッと驚かし、さらには真田丸という出城を造って、家康率いるところの東軍をさんざん悩まし、前田利家軍が翻弄される、、というように、幸村の知略が優れていたので、たまたま眞田庵の近くにあった古墳の横穴を英雄伝説の一つとして眞田の抜穴というものにしたのだろう。眞田庵猿飛

5月5日には眞田祭というのまであって、その時には右のように、猿飛サンや霧隠サンといった架空の人物が鎧兜の姿で出てくるらしい。
子供の時に憧れた人物をいまでも懐かしむ老人(ワタクシも含めてです)がいるのです。
幸村はその後の大坂夏の陣でもさんざん家康の心胆を脅かしたのだが、とうとうそこで戦死してしまいました。


泉光院はここから葛城山脈を越えていまの大阪府南部の泉州の方へ行きます。
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