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2018.03.03 (Sat)

泉光院の足跡 291 信太の森

十六日 曇天。慈尊院立、辰の刻。夫より鎌八幡と云ふに詣づ。此所は御殿なく神木大いさ一丈餘の一位の木也。此木へ心願の者より鎌を拵へ打込み上ぐる也。因て鎌大小數を知らず、根元より三間計り上迄一寸の隙間なく打込みあり、心願成就せざれば鎌木に立たずと云ふ。夫より川を渡り泉州へ赴く。三里の峠あり、泉紀の堺也。峠に掛かるより大雨になり難儀至極也。峠を數々越へ夕方槇尾山奥の院へ詣づ。本堂六間四面、寶塔、寺一ヶ寺、極山中、葛城峰修行の場也、又峠を越へ西國札所槙尾山へ行く、然る所雨頻りに降り、日も落ちたる故に文殊院と云ふに宿す。文政と年號改まりたる由當寺にて聞く。

九度山を降りて紀ノ川を渡って蔵王峠を云ふのを越えていまの和泉市の方へ入りました。
ここで面白いのは、元号が「文化」から「文政」に変わったことを始めて聞いたのです。
文化十五年四月二十二日に文政元年に年号が変わったのです。聞いたのは五月十六日ですから、元号が変わってから24日目に泉光院の耳に届いたのでした。
なんで年号が変わったのかわかりません。天皇が死んだのではないし、大事件が起こったわけでもないようです。泉光院も元号が変わったことについては格別の感想もありませんでした。
施福寺金剛山

和歌山県と大阪府の境である葛城山脈の地蔵峠、…三里の峠…を越えて横尾山施福寺へ来ました。
ここは西國三十三觀音札所第四番です。
右は施福寺付近から眺めた葛城山脈です。
とても山深い所で、峠越えの時には大雨に降られて難儀しているようです。

施福寺は江戸時代末期、弘化二年(1845)の大火で建物の殆どが焼失してしまって、山門がようやく焼け残った。
施福寺山門
施福寺山門全景


十七日 大雨天。晝過ぎより少し晴る。朝辰の刻立ち直ちに本堂へ詣納經す。西向、八間四面、諸堂多し、山中故に谷々尾々に寺あり。廿五丁下り泉州平原地に出る。
施福寺本堂

こちらが施福寺の本堂。
火災後に建てた本堂でしょうから、泉光院の詣納経したのとは違うお堂でしょう。



泉光院のこれからのルートは、堺市から今度は奈良県との県境を越えて奈良へ入るのです。
で、ちょっとワタクシのために道草を致しましょう。
施福寺よりももう少し南の方、泉佐野市の近くに犬鳴山七寶瀧寺という修験の道場があるのです。そこへ行ってみましょう。

犬鳴山瀧と橋
泉佐野市から燈明ヶ岳の方に向かって樫井川の上流、犬鳴川をずっと遡って行った所に「犬鳴山七寶瀧寺」があるのです。
役小角によって開かれたという葛城修験道の根本靈場です。
近くには七宝滝という七つの滝(左がその一つ)や、(右のような)行場などがあって、いまも修験行者が修行をしております。犬鳴山山伏修行

右の写真、よく見ないと判りませんが、山伏風の男が、岩の上にうつ伏せにへばりついている男に何か忠告を与えているのだろうか。曰く、親を大切にしなくちゃいかんゾ、仕事は一生懸命にやらなくちゃいかんゾ、etc.

犬鳴山倶利伽羅龍王

ここの本尊は倶利伽羅大龍不動明王というのだが、左の図、倶利伽羅(くりから)龍王が寶劍に巻き付いている圖。両側にはなんとか童子のような者も立っている。


犬鳴山瀧行場
犬鳴山瀧修行女



左は瀧行場です。
ここでは高野山と違って女性でも修行が出来るというので白衣をまとった女性も瀧に打たれています。

ワタクシがここに行ったのはもうずいぶん昔のことで、奈良の日吉館(という超有名旅籠)へしょっちゅう行っていた頃のことです。
信州霧ヶ峰のヒュッテ・ジャヴェルで知り合った泉佐野市の美女で、ワタクシを「柳に雪折れなし」と評した人のところへ、何かのことで招かれ(たのか、ワタクシが無理矢理押しかけ)て、日吉館からの歸りに行ったのです。そして面白いところだから、といってここへ案内して戴いたのでした。その頃は修験道の何たるやも知らないでこの山中を歩いていたのでした。
いまこうして泉光院の跡をたどっているうちに次第にこういうものの面白さに惹かれるようになって、またここへ行ってみたいものだと思っているのです。犬鳴山不動
犬鳴山で見掛けた不動明王。

その夜、この美女はワタクシを大阪難波の法善寺横町へ連れて行って、うまいもの屋のハシゴをしたのでした。この美女は呆れかえる程お寿司のお皿を積み上げ、甘い物を放り込むなどたくさん食べて満足そうにニコニコしていたのでした。いまこうして書いていてもその時のことを思い出してワタクシもついニコニコしてしまうのです。

泉光院に戻りましょう。

…國分寺へ詣納經す。小庵一宇あり。夫より松尾寺と云ふに詣で納經す。本堂六間四面、本尊如意輪觀音、鎮主大社、外に堂多し、神變菩薩堂もあり。寺中多し。本坊にて一宿せよと申さるゝに付寮に一宿す。米等寺より給りたり。戯れに一句、
   松濤饗梵利 旅身轉發願 芳君意志厚 一舎謝情還
和泉國分寺跡碑

槇尾山施福寺から槇尾川に沿って下ると国分町に出て、今は護國山國分寺という小さなお寺があるのですが、その境内に、右の「和泉國分寺跡」の石碑があるのです。大がかりな発掘調査をすればあるいは聖武天皇発願によって建てられた國分寺の礎石や瓦が出土したり、堂塔の跡などがあきらかになるのかも知れないが、このあたりに在ったのだろうな、という程度の石碑です。

次が松尾寺。
ここも役小角の開創というお寺ですから、犬鳴山と同じように修験のお寺でしょう。泉光院とは宗旨の違う天台宗のお寺だったのだが快く一宿させてくれた上にお米まで出してくれた。
松尾寺護摩焚き
このお寺ではいまでも山伏姿の人たちがこのような一風変わった「護摩」を焚いているらしい
河内のあたりの天台宗のお寺というと、直木賞作家で数々の「河内もの」小説を書いていた今東光のことを思い出します。この生臭坊主はこの近くの天台宗の雇われ住持をしていて、最後には中尊寺大貫首の座にまで登りつめた。



十八日 晴天。松尾寺立、辰の上刻。一里下り少し托鉢の所、一人の男子あり、今日は一宿せよと申さるゝに付、未だ午の刻(お昼頃)ながら休息の爲め宿したり、内田村安兵衛と云ふ宅。當村善根の村にて茶漬やら、一合法施、線香その他茶、大豆等色々の法施ありたり。
十九日 晴天。今朝珍しき馳走あり、餅を豆腐の白あゑにして出されたり。右の品隣家にて尋ねたれば、夫れは豆を少し煎り、皮を去り、實計りを煮て臼にて水を入れて挽けば豆腐の如く白くなるなりと云ふ。餞別とて手拭贈らる、内田村晝時立信太明神へ詣納經す。山中松林の内、中社南向、夫より信太の森へ詣納經す。千枝の楠とて名高き楠あり、幹六尺計りの所より枝段々に分かれたり。又田の中二丁計りの竹藪に葛の葉狐の社あり、脇に穴あり、葛の葉塔もあり、百姓家一軒あり。…

どうやら大阪南部の人たち、親切な人が多いようです。餅を豆腐の白和えにした食べ物ってよくわからない。関西ではときどき変わった食べ物にお目にかかります。金澤にいた頃はどちらかというと関西系の文化で育っているのだし、友人・知人も関西の人が多かったのだが、それでも時々面食らうこともあります。それはそれとして、
信太森神社本殿

信太森葛葉稲荷神社へ行きました。ここは葛の葉狐がいたところのです。

村上天皇の頃だといいますから10世紀半ばでしょうか。摂津の國阿倍野というところに阿倍の保名(やすな)という人がいました。
この人の御先祖は8世紀初頭、第8次遣唐使派遣の時留学生として唐に渡り、科擧の試験に合格して唐の高官を歴任しながらも日本への帰国はかなわず、
♪天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも♪
の歌を残して客死した阿倍仲麻呂だといいます。

保名はその頃は不遇で、家名を再興したいものだと考えていて、この信太明神というところへ参拝に来ていたのだが、あるとき獵師たちに追われていた白狐を助け、その時怪我をしてしまった。その猟師たちというのは実は河内国の石川惡右衛門という人の軍勢で、惡右衛門は自分の妻の病気を治すために、兄の蘆屋道満の占によってここ信太の森の狐を捕りに来たのです。狐の生肝が妻の病気に効くというのです。
狐を無事助けて放してやったのだが、保名は大怪我で動けない。そこへ葛の葉という女性がやって来て、阿倍野の家まで送り届けて介抱をしている。そのうち二人は仲良くなって、童子丸という子供まで出来てしまった。ところが童子丸が五歳になったとき、何かのことで葛の葉は実は助けた白虎だったことがばれてしまいます。それを恥じて葛の葉は、
♪戀しくば尋ね來てみよ和泉なる信太が森のうらみ葛の葉♪ という一首を残して消えてしまいました。
保名は書き置きの歌から、恩返しのために白狐が葛の葉に化けて人間世界に来たことを知り、童子丸を連れて信太の森へ行き、姿を現した葛の葉から水晶の玉と黄金の小箱を受け取って別れたのでした。
のちに童子丸は安倍晴明と名乗り、天文道を修めて陰陽師(おんみょうじ)となり、母親の遺宝である水晶の玉や黄金の小箱の力で天皇の病気を治したので、陰陽頭に任ぜられたのでした。
この話には、保名ももう一度天皇のもとで任官したのだが蘆屋道満に讒言されて殺されたり、安倍晴明と道満が占いの力比べをして結局は晴明が勝って道満は首を刎ねられ、晴明は父保名を生き返らせる、といった、あとの話が付け加えられたりして、人形浄瑠璃『信太森女占』、『蘆屋道満大内鏡』とか、歌舞伎の『蘆屋道満大内鏡』などに脚色されてよく知られるようになりました。
信太森神社恋しくば信太森神社姿見の井戸


左が「戀しくば尋ね来てみよ」の歌碑、右が人間の女に化けた葛の葉が姿を映してみた井戸、だというのです。
信太明神は今では信太森神社といっていますが、それよりも葛葉稲荷神社で通っています。
信太森神社楠
左は泉光院も書いている千枝の楠。お稲荷さんの鳥居の横に今も大きな枝を広げています。
信太の文字は篠田になったり信田になったりしますが同じことです。
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■Re: 問い合わせ

> ヨリックさんは「柴木勇一」さんとおっしゃるのでしょうか。
> 今日、気が付いたのですが迷惑メールに入っていて、タイトルからヨリックさんからのメールかと。
> はっきりわかってから開こうと思い、このメールをいたしました。

2通届いていたでしょうか。
間違いなくワタクシ、柴木勇一でございます。
どうぞよろしく。
ヨリック |  2018.03.05(月) 18:50 |  URL |  [コメント:編集]

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 |  2018.03.05(月) 09:09 |   |  [コメント:編集]

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