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2018.03.10 (Sat)

泉光院の足跡 292 竹内街道

廿一日 飯後大雨。藤井寺門前立、辰の刻。直ちに譽田八幡へ詣で納經す。寺にて餅の馳走あり。大社也。南向、奥に堂宮あり、其奥に廻り貳丁計りの山あり、其上に宮あり、應神天皇陵と云ふ。外に霊水霊花、名所多し。古跡の地也。境内圍ひ二丁廻り、塀は練塀にして筋引きあり、下乘の地、樓門あり、門前町數多し。…
誉田八幡宮

誉田(ほんだ)八幡宮は、(こんだ)と読む場合もあります。どっちが正しいかはわかりません。
左が誉田八幡宮。

応神天皇陵
右は応神天皇陵といわれている誉田山古墳。
応神天皇はある程度実在性が濃厚な最古の大王ですが、母親である神功皇后の実在性が疑われているので、系図としての天皇家というのもさほど一貫性のあるものではないのです。

少しばかりこの時代の天皇家のことについて、その曖昧さについて書いておきますから、面倒くさいと思ったらずっと下の方の壺井八幡宮のあたりまでジャンプして下さい。
八幡さまという神社も日本中各地に(8万社程)あって、子供の頃に八幡神社の境内で遊んだという人も多いと思います。八幡さまは、例えば古事記では品陀和気命(品陀別命 ほむたわけのみこと)という名前の神様なのだが、神功皇后が朝鮮半島の新羅から帰って(AD200)、北九州の宇美(うみ)の地で産んだので、今そこには宇美八幡宮というのがあって、品陀別命が、父親の仲哀天皇、母親の神功皇后と一緒に祀られているのです。
仲哀天皇陵ミサンザイ古墳
品陀別命は母親の神功皇后と一緒に北九州から近畿の方へやって来て、202年には仲哀天皇の葬儀をし(葛井寺のすぐ近くに左の写真、仲哀陵古墳というのがあります。ミサンザイ古墳といっているようです)、 品陀別命は皇太子となり、神功皇后は摂政として政治を見る、という体制が出来たのでした。
ところがこの時代、倭の女王卑弥呼(ヒミコ)という人が中国大陸の魏国に使を遣わしていたり、金印を貰ったりしている時代です。
神功皇后は269年に(おそらく100歳以上の歳で)死んで、その翌年、品陀別命が71歳で即位して第十五代の応神天皇となりました。応神天皇が310年に111歳で死んで、次に仁徳天皇というのが即位するのですが、この天皇も110歳になるまで生きていたことになります。そしてこの三代の天皇は堺から河内のあたりに巨大は前方後円墳を造っているのだが、、その前の第13代成務天皇以前の天皇は、神武天皇も含めて奈良県のあちこちに陵(つまりお墓)があることになっているので、ここのところで天皇家の系図は途切れているのだろうと思います。

ワタクシがまだ小学生だった頃(日本国が中国と戦争をし、アメリカ・イギリスと戦争をしている頃)は、「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」であって、校門の脇に小型の神社風の「奉安殿」という建物があって、その中には天皇の「御真影」、つまり写真が入っていることになっていて、それに向かって最敬礼をしてから学校に入ることになっていました。
天長節(天皇誕生日)とか紀元節(神武天皇が即位した日、2月11日、現在の建国記念日)とか、そういった祭日には全校生徒が講堂に集結し、校長は講堂の正面の祭壇(のようなもの)の中からうやうやしく「教育勅語」をとりだして、【朕おもうに我が皇祖皇宗國を肇ること…】と読み上げ、「万世一系」の天皇のために一旦緩急ある時、つまり戦争など非常時には天皇のために戦争に参加して死ぬことが「忠義」であるとしっかり教育されて育ってきたのでした。
しかし、1945年8月15日以降は、そのような教育は誤りであるということになり、歴史や国語の教科書の該当部分に墨を塗って消してしまい、「修身」という科目はなくなりました。奉安殿は取り壊され、神様であった筈の天皇は人間だったと天皇自身が宣言をし、新しく「民主主義」という言葉を教えられ、昭和天皇がアメリカ占領軍のマッカーサー司令官と握手をしている写真が新聞に掲載される時代になったのです。
『記・紀』の記述にある天皇家の系図の始めの方はヤマト政権が後からつくった神話に過ぎないので、今の天皇が125代目だというのも全く当てにはなりません。(以上、昭和一桁生まれの妄語。)

…夫より壺井八幡へ詣納經す。社家持ちの地、中社南向、石段一丁上る、下に壺井とて井戸あり。事永々しければ略す。夫より新義眞言移轉地通法寺へ詣づ。頼義、頼家、義信等名將の靈屋あり、…
壺井八幡宮
左が壺井八幡宮。またまた八幡さまです。
ここは11世紀初頭に河内源氏の祖となった源頼信がここに居所を設け、その子頼義、孫の頼家と三代が住んだ。
八幡神は源氏の氏神とされ、強力な武神として祀られるようになりました。
源義家は自分で「八幡太郎義家」と名乗り、その子孫である頼朝は鎌倉に幕府を開くとまず京都の石清水八幡宮から八幡神を勧請して鶴岡八幡宮を建てた。このように源氏と八幡神社は強い縁で結ばれているようです。壺井八幡宮壺井

壺井八幡宮の境内の中に「壺井」という井戸(右の写真)がありますが、これは源頼義が朝廷の命で、陸奥で反乱を起こした豪族の阿倍氏を制圧しに行った時、旱害で水がなくて苦しんで、南無八幡大菩薩(と言ったかどうかわかりませんが)と祈ったら水が湧き出して、それで軍が元気を取り戻して勝った、と言うのでその水を壺に入れて持ち帰ってここに埋めたらそこが井戸になった、という因縁のある井戸です。
通法寺源頼義墓
左は通法寺にある源頼義の墓。
通法寺は義家の子孫(多分河内守を継いだ源義忠)が河内源氏三代の供養のために建てた寺で、壺井寺とも言いますが、立派なお墓が並んでたててあるようです。

…夫より上の太子へ詣納經す。諸堂多し、多寶塔あり、樓門奥に廻り一丁半計りの陵あり。是れ聖徳太子の御陵と云ふ。廻り石塔にて垣とすい、二段にあり、其銘弘法大師の筆と云ふ、字は梵字也。此石塔を弘法の法界石と云ふ。此所十間計りの穴あり、奥に燈明の火幽かに見ゆ、太子夫婦の尊骸を納めし所也と云ふ。夫より道明寺へ詣納經す。大堂一宇、天神宮大社也。南向、寺中多し、奉納一句、
   天が下雲一切れもなし五月晴
夫より國分寺へ詣納經す。此寺は國分寺に非ず、今退転故に預り也、國分寺は北田の中三丁計りにあり。夜に入りたる故に國分寺村驛に行き宿す。此所は大坂より大和の國に越ゆる國分峠也。

これから泉光院は竹内(たけのうち)街道を通って奈良の方へ入ります。竹内街道

以前、ワタクシは世界遺産研究の会で佛教伝来の頃の遺跡を幾つか見てきたこともあるし、若いときから何度も行ったり来たりしている場所なので、ちょっとうるさくなるかも知れませんが丁寧に歩きましょう。
大阪湾に近い堺の大鳥神社から、百舌鳥、葛井寺、誉田八幡宮、と辿って大和國、奈良へ入る道は、『日本書紀』の推古21年(613)の項に、「難波より京(この時代は奈良の都が京です)に至る大道を置く」という記事があって、この時に整備された道が竹内街道です。右が竹内街道の風景。
向こうに見える屋根が「大和棟」と呼ばれる形です。最近はかなり減りましたがそれでもたまに見ることが出来ます。半世紀以上も前、ワタクシが初めて奈良へ来て、唐招提寺から薬師寺への道を歩いた時には両側にこのような屋根の家がたくさんありましたが、今でもたくさん残っているでしょうか。

竹内峠の(大阪寄りの)すぐ手前、太子町の叡福寺を「上の太子」といい、羽曳野市にある野中寺を中の太子、八尾市の勝軍寺を下の太子といって、いずれも聖徳太子ゆかりのお寺です。
叡福寺多寶塔

左が叡福寺多寶塔。
聖徳太子はここを自分の墓地と決めていて、母親の穴穂部間人(あなほべのはしひと)が推古29年(621)に死去したのでここに葬り、自分も、そして妃の膳部菩岐々美郎女(かしわべのほききみのいらつめ)も間もなく死んだので、この3人が叡福寺の裏にある磯長(しなが)太子陵の古墳に一緒に葬られて、推古天皇が堂宇を建立し、のちに聖武天皇が七堂伽藍を整備したそうです。


叡福寺聖徳太子廟

右は叡福寺聖徳太子廟。

聖徳太子は第31代用明天皇と穴穂部間人の間に生まれたのだが、用明天皇は即位してから1年半ほど皇位についただけで、疱瘡に罹って死んでしまったと言われています。そのあと、廃佛派の物部氏と崇佛派の蘇我氏の間で権力闘争があって全面戦争となったのでしたが、この時は崇佛派である蘇我氏の勝利ということになり、とりあえず第32代崇峻天皇というのをたてたのだが、この天皇は蘇我氏の思いのままにはならなかったのだろうか、蘇我馬子はひそかに崇峻天皇を誰かに命じて殺させてしまった。そのあとを第30代敏達天皇の皇后であった額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を即位させて、推古天皇というのにしたのでした。
推古天皇は『日本書紀』によると「容姿端麗、進止規正」、美人で頭がよくて、派閥のバランスを考えて政治を行ったのでずいぶん政権を長持ちさせたようです。
「天皇」とはっきり称したのはおそらくこの人が初めてで、だから日本の最初の天皇は女帝である推古天皇であると言うことになります。
神武天皇以下それまでの天皇は後になってから「諡號 おくりな」として日本書紀に記載されたものなのでしょう。
推古天皇は甥の厩戸豐聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)、のちに聖徳太子として知られているこの人を摂政に任命して「改革」を行いました。
よく知られている十七条憲法は、一応聖徳太子によって制定されたことになっています。
その第一条は、「以和爲貴 和を以て貴しと為す」、続いて「篤敬三寶 篤く三宝(佛・法・僧)を敬へ」、第三条が「承詔必謹 天皇の命令は必ず謹め」、…というふうに、ともすれば力を蓄えて権力を握ろうとする豪族を抑えるようにした内容です。殆どは21世紀の現在でも通用するものであって、現在の主権は国民にあるのだから、政治家・高級官僚。大規模会社のトップなどと言った人たちは、主権者である国民に対してこの憲法の趣旨をよくわきまえて行動して貰いたいものだと思います。
壱万円札聖徳太子

左にちょっと懐かしい絵を入れておきました。
昔の壱万円札には聖徳太子がいました。
このお札は高級感あふれるお札で、無駄に使うのが勿体ないような気持ちになったものでした。

以前に書いておいたことですが、泉光院が丹後半島西岸を歩いていたとき(No.066 浦島)、「間人」という村があってこの土地を「タイザ」と読むのですが、これは穴穂部間人皇后が聖徳太子を産んだ後、物部・蘇我の戦禍を避けてここへ移り住んでいたことがあって、やがて戦乱が収まって都へ帰る際、皇后は村人への感謝の意を込めてこの地に「間人村」と名付けるように言い残しました。しかし村人たちは皇后のお名前「はしひと」を、そのまま使うのは畏れ多いと考えて、用明天皇が死んで皇后が退座したことにちなんで「タイザ」と言うようになったのだと伝えています。間人」は仮名を振らないと読めない字です。
聖徳太子陵は現在は宮内庁の管轄になっていて、一般人は入れないのだが、泉光院の時代には入れたらしい。
道明寺本堂

道明寺と道明寺天神宮は隣り合っています。聖徳太子が尼寺を創建するとき、菅原道真の先祖である土師連(はじのむらじ)が私宅を提供したので土師寺と称していたのだが、後に菅原道真の號である道明の名をとって道明寺とした。左が道明寺、今も尼寺です。


道明寺天満宮梅園

右は天神宮。祭神が菅原道真だから境内には梅林があるようです。




道明寺天満宮菜種御供祭

江戸時代dまでは神佛習合でしたから、お寺も神社も一緒だったのだが、明治になって神佛分離令のおかげで同じ土地に両方建っていたのをバラバラにされてしまったのでした。
左は3月25日に道明寺天満宮で行われる菜種御供祭のひとこま、カワイイですねぇ。

道明寺でワタクシが思い出すのは桜餅。
桜餅道明寺桜餅長命寺

櫻餅には二通り合って、左が関西風道明寺桜餅、右が関東風長命寺桜餅、
春には欠かせないお菓子で、どっちもワタクシは好きです。

次が河内國分寺。
右が塔礎石です。
河内國分寺塔跡礎石
この塔は礎石の間隔などから見て七重塔だったと考えられ、寺院の本体である南大門・中門・金堂・講堂・僧坊はこの塔跡の少し西に離れた所に一直線に並んでいたようですが、このあたりちょっと急傾斜地なので、金堂のすぐ近くに塔を建てることが難しかったらしくて、塔だけが少し離れているようです。
泉光院はこの場所から三丁(約320m)ほど南にあったお寺に詣納経したようです。
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