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2018.03.14 (Wed)

泉光院の足跡 293 信貴山

奈良県から大阪府にかけて、大王の墓とされている古墳はたくさんありますが、時期的に差があるようです。百舌鳥古墳群空撮
3世紀の頃には山の辺の道付近に箸塚(卑弥呼の墓ではないかという)や崇神王の墓などが造られ、4~5世紀には先に書いた百舌鳥古墳群(右の空撮写真)の巨大な前方後円墳が造られて、これらは仁徳・応神・履中などの大王の墓とされました。
これら巨大古墳群は6世紀になると造られることはなくなり、聖徳太子の墓のある磯長古墳群ではグッと小さくなっていきます。
この写真、上の方の仁徳陵は長さ486m、前方部の幅305mと巨大なものですし、下の方の履中陵もそれに次ぐ大きさです。

推古天皇陵
左は磯長谷の聖徳太子陵の近くにある推古天皇陵。東西59m、南北55mの方墳です。敏達・用明・孝徳陵も近くにありますが、右上の陵に比べれば小型になりました。
さらに後の古墳時代終末期になって、飛鳥の石舞台古墳とか高松塚古墳ともなるとさらに小型になってきます。

ワタクシの感じでは、大阪の巨大古墳群と、奈良県北部の小型古墳群とでは、万世一系の天皇家ということではなくて、別の家系なのではなかろうかと思っているのです。ズブシロですから深入りは止めておきます。

廿二日 晴天。國分寺村立、辰の刻。大和川の流れに沿ふて上る、茶屋にてわらんじ(草鞋)、飯、錢等法施あり。此川筋に龍田川と云ふ名所あり、其上に龍田明神とて此神二ヶ所にあり納經す。大社、東向、山に掛かれり。夫より信貴山に上る、廿五丁也。本尊毘沙門天へ詣納經す。本堂南向、石上に掛け造り八間に十間計りの堂也。寺中多し、皆々石上谷合にあり、多寶塔あり、靈山也。朝護孫子寺と云ふ、珍しき寺名也。百足を授け玉ふ夢の繪馬多くあり。夫より又龍田明神と云ふに詣づ、大社也。花表前町數多くあり。夫より法隆寺へ詣づ、夜に入る故に旅宿に舎る、松屋と云ふ。
龍田川紅葉2
龍田川紅葉1

太田川の支流の一つに龍田川があります。綺麗な紅葉ですねぇ。
かの在原業平朝臣、小倉百人一首に入っている歌に、


♪千早ぶる神代もきかず龍田川 唐紅に水くぐるとは

平安の時代、ここは紅葉の名所として有名になりました。

在原業平は(ワタクシと同じように)実はここへ行ったことはなかったのだが、人から聞いた話で歌を作ってそれが小倉百人一首に採用されてしまった。

まず最初の龍田明神に納経します。
今は龍田大社と言っている神社で、祭神は龍田比古・龍田比売(たつたひこ・たつたひめ)。
龍田大社摂社二社
左、拝殿の後に本殿が二棟あって、向かって左側の社の千木が片削ぎ(垂直)に、右側の社の千木が平削ぎ(水平)になっているので、左が男神の龍田比古、右が女神の龍田比売だということが判ります。
この二人が力を合わせて天地の大気生気を主宰しているので、古来「風神」として尊崇されています。

ここから信貴山(437m)に登りました。ここからの大和盆地の眺望はとても素晴らしい。
朝護孫子寺遠景紅葉
山頂近くに朝護孫子寺があります。寺伝によれば聖徳太子がこの地で毘沙門天を感得し、堂宇を建立したのが始まり、と伝えています。晩秋になると山全体は見事に紅葉に包まれます。
右は信貴山紅葉風景。
朝護孫子寺の屋根が見えています。

10世紀初頭に信濃国生まれの修行僧命連(みょうれん)がこのお寺へ来て修行をしているのですがこれは國寶『信貴山縁起絵巻』というのに詳しく書かれています。

あらましを書いておきましょう。

最初は「飛倉の巻」。
命連は托鉢の鉢を法力で長者のもとへ飛ばして布施を乞います。長者は「また物乞いの鉢が来たか」と鉢を倉の脇に捨てておきます。
すると鉢は倉の下に潜り込んで、倉ごと持ち上げて命連の所へ飛んでいくのです。
信貴山縁起飛倉

左の繪は、左上に鉢が倉を持ち上げて飛び上がるのを、右下の方で長者やおおぜいに人たちが驚き慌てている図。

慌てた長者は倉を追っかけて命連のところへ行って倉の返却を求めるのだが、「物を置くによいから返せぬ。中の物は持って帰れ。」というのだが、「どうして千石の米をたちまち運べましょうか」と長者が言えば、「訳ないこと、私がしよう」と言って、鉢に一俵の米を乗せて飛ばすと、大量の俵がその後を追って、雁が飛ぶように飛んでいくのでした。

第二巻「延喜加持の巻」。信貴山延喜加持
その頃醍醐天皇が重い病に罹り、大和の國に尊い僧がいると聞いて「召し連れてくるように」と蔵人に命じます。
ところがそれを聞いた命連は「わざわざ出向くまでもない。劍の御法というのをするから、それで治るだろう。」と言います。
右の絵のように、身体に劍をまとった童子の夢を見ればそれで天皇の病気は治るだろう、と言うのです。
天皇はその童子の夢を見て病気は治りました。喜んだ天皇は使をやって、「僧都・僧正にやなるべき、またその寺に莊などをも寄せむ」というのだが、命連はそんなことは面倒くさいといって断るのでした。

第三巻「尼公の巻」
一方信濃では、命連が「東大寺で受戒を受ける」と言ったままもう20年も帰ってこず、音沙汰がないので心配した姉ははるばる奈良の東大寺まで捜しに行きます。
信貴山東大寺大佛殿
左が東大寺大佛殿。この絵に描かれている大佛殿と大佛は治承四年(1181)の平重衡東大寺焼討前に描かれた創建当時の大佛の唯一の資料です。
姉は大佛の前で、弟命連の居所を教えて欲しいと祈ったら、夢に「是より西の方、南のかたに紫雲たなびきたる所を行きて訪ねよ」とお告げがあって、目覚めてみると、「未申のかたを見やりければ山かすかに見ゆるに紫の雲たなびきたり、うれしくて行く」。そして信貴山目指していって、そこでめでたく姉弟の再会が果たせたのでした。

右が信貴山朝護孫子寺の本堂。懸崖造りの建物です。
信貴山本堂

すっかり観光地になったこのお寺は、厄除け信仰のほかに、「宝くじが当たる」信仰も加わりました。関西らしい信仰です。




信貴山虎
燈籠のたくさん並んだ参道を行くと、本尊である毘沙門天が、寅の年・寅の月・寅の日・寅の刻に出現した、という言い伝えがあって、左のような巨大な張り子の虎がいたり、縁起物も虎でいっぱいです。

信貴山を下って泉光院は、…夫より下り又龍田明神と云ふに詣づ、…と書いています。
この龍田明神は、今は龍田神社といって、午前中に詣った龍田大社とは別の神社です。龍田神社拝殿
龍田大社はどちらかといえば信貴山の麓のほうにあるのだが、龍田神社は法隆寺の少し南、斑鳩(いかるが)の地にあります。こちらが龍田神社。
これも社伝によれば、聖徳太子が法隆寺の建設地をさがしていた時、龍田大明神が現れて、「斑鳩の地こそ物法興隆の地也。」とのたまったのでここに法隆寺ができたというのです。ちょっと胡散臭い話ですが伝説だから仕方ありません。
いよいよ法隆寺です。門前の旅館、松屋というのに泊まった。
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