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2018.04.16 (Mon)

泉光院の足跡 299 當麻寺

法隆寺の参詣を済ませて泉光院は當麻(たいま)の方へ行きます。二上山の麓です。
二上山落日
かっては「ふたかみやま」と呼ばれた山です。
雄岳](515m)と雌岳(474m)が寄り添うように聳えています。
大和の平野から見ると「陽が沈む山」である二上山は、後には西方浄土信仰と結びついて、聖なる山として崇められてきました。
大和のどこからでも際だって見える美しい姿の山です。二上山夕景

早春にはアセビ、春には櫻、新緑の頃は山ツツジ、初夏にはアジサイ、秋には萩、と四季おりおりの花に彩られます。

「No.286 廿五菩薩来迎會式」の項で中将姫の略歴を書いておいたのでしたが、その後のことを書きます。

父と再会した中将姫は、尼になる決心をして當麻寺で三日間お経を唱えていたところ、奇跡が現れて尼になることが許されます。
26歳のとき、もし佛がこの世にいますならば目の前に現れたまえと三七日(さんしちにち=21日)祈ったところ、最後の晩に老尼が現れ、百駄(馬百頭の荷)の蓮茎を集めてその糸で曼荼羅を織ることを命じます。
當麻寺曼荼羅厨子
集めた蓮糸を石光寺(染井寺)の井戸へ入れいるとたちまち五色の糸に染め上がり、実は阿彌陀如來の化身である織姫が現れて、手伝って一夜で一丈五尺の曼荼羅を織り上げました。

左が曼荼羅の入っている御厨子で右が曼荼羅。
當麻寺曼荼羅

この曼荼羅は、西方浄土阿彌陀如來が菩薩を従えて極楽浄土へ衆生を導く図で、當麻寺の本尊になっているのです。


その12年後、阿彌陀如來が25菩薩を従えて現れ、中将姫を西方浄土へと連れて行った、というのがその後の中将姫伝説。この伝説は謡曲や浄瑠璃となって広く巷間に流布しました。

泉光院です。

…夫より當麻寺の方へ赴く、先づ染井寺へ詣づ。此処は中將姫曼荼羅を織り玉ふ時蓮の糸を染玉ふ井戸也。夫より當麻寺へ詣納經す。本堂東向十間四面、是彌陀曼荼羅堂也。外に諸堂あり、塔二つ、中興行者開基の所也。樓門二王を安置す。奥の院に圓光大師也。門前町少々あり。…
石光寺
左が石光寺。染寺とも、染井寺とも言います。
今も境内にはその井戸が残っています。
そこから徒歩10分位で當麻寺です。

右が當麻寺の東塔と西塔。
當麻寺東西塔


平家が攻めてきたときにはこの両塔は難を逃れました。奈良にはかっては東西両塔を持つお寺は、薬師寺を始めいくつかあったのですが、創建期のま双塔が残っているのはこのお寺だけです。国宝指定となっています。

當麻の地は古代の豪族當麻氏の本拠地でした。
ヤマト王権はこの當麻の地を手に入れるために、やはり力比べをしたことが『記紀』に記載されています。
11代垂仁天皇の時、天皇はこの地に當麻蹶速(たいまのけはや)という勇猛な力自慢がいると聞いて、出雲國の強力、野見宿禰(のみのすくね)と闘わせた。両者互いに蹴り合い、野見宿禰が當麻蹶速のあばら骨を折り腰の骨を砕いて殺してしまった。垂仁七年七月七日のことだと記録されています。そしてこの二人が「相撲」の元祖だとなっています。
天皇は、當麻氏からこの土地を取り上げて野見宿禰に与え、彼は出雲國には帰らずにここで天皇に仕えることになった。このようにしてヤマト王国はここでまた(オオクニヌシから出雲の地を取り上げたように)領土を拡張したのでした。
當麻寺中将姫練供養稚児行列
當麻寺で5月14日に行われている練供養會式です。
聖衆来迎して中将姫が極楽往生したという伝説を再現する行事です。
本堂を極楽浄土、東の娑婆堂を人間界に見立てて、両堂の間の板橋を、二十五菩薩の仮面をつけた人が練り歩きます。こちらは稚児行列のようですね。當麻寺中将姫


右は蓮池に浮かぶ中将姫像。左は當麻寺付近の風景。

當麻寺風景



…夫より金剛山へ赴く、ナガラと云ふ所にて夜に入る。道に森脇と云ふ村あり、此村にて六部死し同行十六七人程集り居る山道にて聞きたり、然る處一人の男子此宅へ立寄り玉へと云ふ、何事かと存ずれば我々共を天蓋同行ならんと見違へ、笈等を改めたれど別格の者なれば不調法の段を斷り御免とて歸る。因て初夜頃にナガラ村に着く、庄屋付ならでは宿なしと云ふに付庄屋宅へ行き宿貰ひ堺屋と云ふに宿す。庄屋發句あり別書に記す。予も一句、
   指圖ある情けの奥や薰る風
廿四日 晴天。ナガラ宿より金剛山に登る。五十丁に本堂、法喜菩薩、南向、燒失故今假堂奥の院宮一宇、寺中多し、大宿坊にて納經。麓ナガラへ歸り、夫より八旗八幡へ詣づ、高野街道三在村と云ふより一里西山の手の小社、納經す。三軒茶屋桝屋と云ふ善根に宿す。
金剛山

金剛山の遠望。
二上山から南へ下った金剛山脈の主峰1125mです。
山頂には葛城神社があるようだ。


廿五日 晴天。三軒茶屋立、辰の上刻。茅原寺へ詣づ、茅原山金剛壽院吉祥草寺と云ふ。當所は神變菩薩誕生の地也。本堂觀音、神變菩薩堂、都藍尼堂、産湯の池、神仙山、香精水湧き出たりと云ふ井あり。…
吉祥草寺

右が茅原山吉祥草寺の本堂。
ここは役小角(えんのおづぬ)誕生の地と伝えられ、本堂には五大尊が祀られています。
五大明王ともいい、中央が不動明王、東・降三世明王、南・軍荼利明王、西・大威徳明王、北・金剛夜叉明王が左の図のように配置されます。
吉祥草寺五大尊


右が行者堂にある役小角自作の役小角像といわれているもの。
役小角は奈良時代にここで生まれ、金剛山で修行をして孔雀明王を感得し、熊野や大峯などでも修行をして、修験道の開祖とされた人です。吉祥草寺役小角像
前鬼・後鬼という夫婦の鬼(右の写真に少しだけ写っています)を駆使して活躍したのだが、妖術を使って人心を惑わす、とか、天皇を殺そうとしたという謀反の疑いをかけられて、AD699年(文武三年)五月二十四日(ずいぶん詳しく日付まで記載されている!)伊豆の大島に流罪になった。この頃、夜になると空を飛んで富士山で修行を重ねたというのだが、それはあてにならない。
のちに(701年)疑いが晴れて茅原に戻ったのだが、その年に箕面の天井ヶ岳で死んだ。
死後1100年経った江戸時代の寛政十一年、光格天皇が役小角に神變大菩薩(じんべんだいぼさつ)という諡(おくりな)を贈った。
これが大雑把な役小角の略歴です。
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