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2018.04.19 (Thu)

泉光院の足跡 300 明日香村

…夫より壺坂西國札所へ詣納經す。本堂南向、八間に五間、佛壇六角堂也。三重の塔、外に堂あり。奥の院石佛自然の五百羅漢あり。…
壺阪寺堂塔
茅原寺の次に壺阪寺へ来ました。ここは西國觀音札所第六番、正式には南法華寺といい、白鳳時代の創建と伝わっている。このお寺は人形浄瑠璃『壺坂霊験記』の「お里澤市」の物語で有名です。

「三つ違いの兄(あに)さんと、いうて暮らしているうちに、情けなやこなさんは、生まれもつかぬ疱瘡で、眼界の見えぬその上に、貧困にせまれど何のその、いったん殿御の沢市さん…」
壺坂霊験記のさわりの部分です。美人のお里は盲目の沢市と夫婦で仲良く暮らしていたのだが、お里は沢市の眼を治してやりたい一心で毎晩壺阪寺の觀音様に祈願をかけているのです。
壺阪寺千手観音

左は壺阪寺の觀音様。十一面千手千眼觀音です。

ところが沢市は毎晩寝床を抜け出していなくなるお里に、男でも出来た?…と疑うのです。
それを知ったお里は驚いて、なんで私がそんなことを、と、実情を話すのでした。
沢市は貞節な妻を疑ったことを詫びて、お里のすすめで沢市も觀音様のところへ行きますが、ここで沢市は、自分の目はもう治る見込みがないと考え、自分のような者がいることでお里に苦労ばかりかけて、と自殺を考えるのです。壺阪寺お里沢市
沢市はお里に、三日間の斷食祈願をするから、といってお里に家へ帰って支度をするように言い、お里がいなくなった頃を見計らって断崖から身を投ずるのでした胸騒ぎを感じたお里は引き返すと崖っぷちに沢市の杖が落ちていて、谷底に落ちている彼を見つけて自分も谷底めがけて飛び込むのでした。
壺阪寺三重塔

この人形浄瑠璃を見に来ている観客はここで、二人はあの世で睦まじく暮らすのだろうなァ、などと思うのですが、舞台はここで突然觀音様が現れて二人を生き返らせ、沢市の目が見えるようにしてあげました。メデタシメデタシの物語です。
右は壺阪寺にある二人の像。

千手觀音の掌には一つずつ眼がついていて、その眼で困っている人を見つけて手をさしのべるのです。壺阪寺の觀音様は眼病に霊験あらたかだと信じられています。

そこから1kmほど高取山の方へ向かうと山腹の岩肌にびっしりと刻んだ五百羅漢があります。

壺阪寺五百羅漢
毘沙門天や二十五菩薩や大日如來なども刻まれていたり、さまざまな佛たちがいらっしゃいます。
壺阪寺へ行った事のある人は、あのお寺はお金儲けがやたらに目に付くのでイヤだ、とあまりよく言いません。インドから贈られたという大きな觀音石像や、釋迦涅槃の像があったり、ちょっととまどうお寺です。もしこのお寺へ行ったらそういうのは適当にあしらっておいて、左の五百羅漢がいっぱい居る所まで歩いて行って、磨りへった羅漢サンの頭を見て、自分によく似た人がいるかどうかゆっくり見ることにしましょう。




…夫より橘寺へ詣納經す。此所は聖徳太子御誕生の地也。夫より岡寺へ詣づ。西國札所也。納經す。本堂南向、七間に六間、諸堂あり樓門二王を安置す、寺一ヶ寺。…

山を下りると明日香村といわれているあたりになります。今だと高松塚古墳、石舞台古墳、亀石、猿石、鬼の俎・鬼の雪隠、酒船石、etc 
此所には不思議な石造物や、天武・持統陵その他、見るものがいっぱい、という感じです。
甘樫丘に登れば畝傍山・耳成山・天香具山の大和三山が望めて、万葉の歌人たちのことが偲ばれます。

大和三山甘樫岡より

甘樫丘から大和三山展望。一枚の画面に三山全部を入れるので遠く小さく見えるだけです。
左端の山が畝傍山199m。真ん中の三角形が耳成山139m。手前の草むらが邪魔になるのだが右の山が天香具山152m。

万葉の歌人たちの歌、中でも中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の
「香具山は 畝火を愛しと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき」 万葉集巻1/13 
読み仮名をつけておきます。
(かぐやまは うねびをおしと みみなしと あいあらそいき かみよより かくにあるらし いにしえも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそうらしき)
この歌は、大和三山を恋の三角関係と見立てたようです。
中大兄皇子と弟の大海人皇子(おおあまのみこ)の、額田王(ぬかたのおおきみ)をめぐっての恋争いを、大和三山に託して歌ったという説もあります。額田王肖像a

万葉の頃は、天香具山と耳成山は男神で、畝傍山は女神とされていたようです。
右は額田王として知られている絵の一部。

泉光院の頃には今のように「発掘調査」などということは盛大に行われてはいなかったので、彼はここでは橘寺と岡寺だけしか詣っていませんが、ワタクシは初めての奈良の時も、世界遺産研究の会でのツアーの時も、このあたりはよく歩いたので、その時のことも一緒にして佛教伝来の頃のことを書いてしまいます。

甘樫丘を下るとすぐに飛鳥寺です。
蘇我馬子の発願で推古四年(596)に完成した日本初の本格的寺院で、塔を三つの金堂が取り囲んでいる大寺でした。
その後、蘇我氏の氏寺から官寺の扱いを受けるようになり、天智・天武・持統朝と引き続いてさまざまな法会が行われるようになった。中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠をして親交の縁となった場所でもあった。
飛鳥寺復元図飛鳥寺配置図

左は飛鳥寺復元図。左は配置図。
塔を三つの金堂、西金堂・中金堂・東金堂が塔を中心にしてとり囲んでいて、全体を廻廊で囲っていた。

平城京遷都に際して、養老二年(718)に平城京に移されて元興寺となったけれども、飛鳥のこの場所のお寺はそのまま「本(もと)元興寺」として残された。
しかし建久七年(1196 鎌倉時代)に雷火のために堂塔残らず焼失、本尊は佛頭の一部と手の指3本が残っただけだった。

その後、飛鳥寺跡の、中金堂のあった場所に、江戸時代、安居院というのが建てられていて、そこに飛鳥寺の本尊であった釋迦如來坐像が、飛鳥大佛として復元されて鎮座している。
飛鳥寺入口

飛鳥大佛を見ましょう。右の写真、世界遺産研究の会のツアーで飛鳥寺(安居院)へ行ったときのこと、ちょうどイベントがあって「飛鳥大佛」の石碑の横に看板が立てられていました。

飛鳥寺本堂

もと中金堂のあった場所にいまの飛鳥寺の本堂があります(左)。この中に飛鳥大佛が入っていました。飛鳥寺飛鳥大佛

法隆寺の釋迦三尊像に共通特色の見られる止利様式の佛像です。



本堂のすぐ前に「塔跡」の礎石もあったのだが写真を撮り忘れてしまったらしい。



飛鳥寺のすぐ西に、蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚というのがあった。

蘇我入鹿首塚と甘樫丘蘇我入鹿首塚


左の写真、向こうの丘が甘樫丘。
前に見える五輪塔がその首塚。
右がその近接写真。

蘇我氏の大邸宅はこの付近に拡がっていたようだ。推古30年(622)。それまで政権を掌握していた厩戸皇子(聖徳太子)が死んで、大豪族蘇我氏を抑える者は居なくなってしまって、その権勢は天皇家を凌ぐ程になった。推古天皇も後継者を指名しないで死んでしまうので、その跡目争いが起こるのは当然のことです。そこで中大兄皇子を首謀者とする乙巳(いっし)の変というのが発生して、蘇我氏が滅ぼされ、、大化の改新へとつながっていくのです。
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