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2018.04.25 (Wed)

泉光院の足跡 301 佛教傳來

蘇我入鹿が殺される少し前のことから書いていきます。

佛教が倭国に伝えられたのは公式には欽明13年(552)の冬、百済の聖明王が使者を欽明大王(ここではまだ天皇とはしないで大王としておきます)のもとに遣わして、「佛法は世間の無上の法であり、倭国においても修行するように。」という言葉を添えて釋迦金銅佛や若干の經典を贈ったのが始まり、とされています。遣隋使の航路
右は6~7世紀頃の中国・朝鮮・倭国の様子。607年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遣隋使コースです。
飛鳥の都から瀬戸内海→百済・新羅・高句麗を経て中国は隋の洛陽、長安へのコースが赤線で入れてあります。
佛教の伝来もほぼこのコースにのって来たと考えられています。
この頃の朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済の三国に分かれて争っていたのだが、百済の王は倭国の大王にしばしば軍事援助を請い倭の大王は孤立していた百済の王と友好関係を結んで援助を続けていたので、その謝礼の意味もあって、佛教という先進文化を倭の大王に贈与したのだろうと言われているのです。
佛教傳來之地石碑
左の写真、「佛教傳來之地」と大きく彫った碑は、聖明王の使者が佛像や經典を持って、難波住之江から大和川を遡って上流の初瀬川に上陸した地点です。ここはまた日本最古の道と言われる「山の辺の道」のスタート地点でもあります。

佛教が渡来したとき、昔からの氏神様を貴ぶ人と、先進文化とともにやって来た外来の神(この場合は佛)を好む人、さまざまあって、それが廃佛派と崇佛派に分かれたのでしょう。
大連(おおむらじ)物部氏は廃佛派、大臣(おおおみ)蘇我氏は崇佛派のそれぞれの代表格でした。

欽明大王は贈られた佛像などを蘇我稲目に与え、蘇我氏は自分の邸内にそれを祀りました。
倭国の大王はしばらくの間は佛教に対して崇佛でも廃佛でもなく、中立の立場をとり続けていました。
それから半世紀、大王は欽明から敏達、用明、と代わり、権力の座をめぐって物部守屋と蘇我馬子の激突は不可避となり、軍事力での決着をとることになります。
用明大王が死んで(用明二年 587)、物部氏が次期大王候補者として擁立しようとしていた穴穂部皇子を蘇我馬子が殺し、厩戸王(聖徳太子)の援助もあって物部守屋を倒して、そこで廃佛派の勢力は崩壊したのでした。

邪魔者のいなくなった蘇我馬子は佛寺を建てることを計画します。
用明の次の崇峻大王の時、自分の邸のすぐ近くに法興寺、いまの飛鳥寺の建設工事を崇峻元年(588)から始めます。工事を担当したのは百済系の技術者集団と馬子が用意した自分の領有民の集団でした。高句麗清岩里廃寺配置図

堂舎建設の参考にしたのは釜山の通慶寺は、高句麗の清岩里廃寺(右の図)のような、中央に塔、塔の北正面に中金堂、東西にそれぞれ東金堂・西金堂、という配置でした。
そしてその南に中門、中門の両脇から延びた廻廊が塔と三金堂を取り囲む、{一塔三金堂式」といわれる形式です。
飛鳥寺配置図b飛鳥寺復元図西面

もう一度先に出した飛鳥寺の配置図(左)と、復元想定図(右)を出しておきます、これは西側から見たもので、一番右が南大門、そして中門と廻廊が「一塔三金堂」を取り囲み、その北側(左の方)に講堂と經藏・鐘樓があって、一番北に僧坊、という大きなお寺でした。塔や金堂は斑鳩法隆寺のそれに近い規模のものだったことが発掘調査の結果でわかっています。

崇峻五年(592)、馬子は東国の調(みつぎ=租税)を奉る日であると偽って群臣を集め、その面前で崇峻大王を殺害し、遺体は即日葬りました。

蘇我馬子は敏達大王の妃であった炊屋姫(かしきやひめ 額田部皇女)を豊浦宮(明日香村)で即位させて推古大王とします。倭国最初の女王の誕生を阻止する豪族はもういませんでした。厩戸王は摂政となり、のちに聖徳太子と呼ばれるようになります。蘇我氏全盛期の始まりです。

推古大王の即位したときから持統天皇(持統以後、大王とは呼ばずに天皇と呼ぶことにします。)まで、都が主に飛鳥にあった6世紀末から7世紀末までの約100年を文化史上では「飛鳥時代」といいます。

法興寺の本尊、先号(明日香村)で写真を載せておいた「飛鳥大佛」の制作者として鞍作鳥(止利)が決まりました。この人はのちに法隆寺金堂の釋迦如來坐像の製作にもあたった人です。法興寺が完成したのは推古十七年(609)四月七日で、工事の開始から完成まで21年掛かっています。
「佛法興隆」の言葉からとられた寺名の「法興」が示すように、倭國の佛法興隆の象徴であり、その拠点となりました。中金堂に据えられた「丈六釋迦如來金銅佛像」は火災に遭っても修理されながら現在までその位置を動くことなく、今「飛鳥大佛」としてワタクシたちの前に姿を見せているのです。飛鳥寺付近地図

飛鳥寺付近の地図を載せておきます。
その左に甘樫丘、ずっと下の方へ行って川原寺、橘寺、岡寺など、一番下に石舞台古墳があります。このあたりのことを順番に書いていきます。

厩戸王は推古二十九年(621)に死んで、病床にあった推古大王は、次期王位継承者と目されていた敏達大王の孫の田村王と、厩戸王の子の山背大兄(やましろのおおえ)の二人のうち、どちらに王位を譲る、という意思表示をしないまま推古三十六年(628)に死んだ。
二人の王位継承予定者を支持する豪族はまたも二派に分かれたが、最終的には大臣蘇我蝦夷(そがのえみし 馬子の子)の支持を得た田村王が王位に就き舒明大王となった。
推古大王の時代には「遣隋使」が、舒明大王の時には隋が亡んで唐の時代になったので、「遣唐使」が派遣されるようになり、文化大国である中国からさまざまな文化が朝鮮経由ではなくて直接に倭国に流入するようになり、官制や法律、生産技術などと共に佛教経典や佛像などももたらされるようになった。
同時に、それまでの大王は佛教に対して傍観・中立の態度をとってきたのだが、舒明大王によって佛教受容の方向に変更されます。大官大寺配置図
舒明大王は百済大寺というのを、いわば國立寺院のように造営を始めたのですこのお寺はのちに天武大王によって大官大寺というのに建て替えられ、その跡は甘樫丘の北方1kmほどの所にあるのだが、今は礎石も抜き取られて、史跡として保護されているだけのようだ。右がその大官大寺の配置図。
塔は九重塔だったらしくて、これは法興寺の五重塔に対抗してそれ以上のものを建てたいという舒明大王の意思が働いたのかも知れない。
いずれ書かなくちゃならないのだが、大官大寺は都を飛鳥から平城京に移したときに移転して大安寺となって、それは今も残っております。
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