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2018.05.20 (Sun)

泉光院の足跡 307 多武峰

八日 朝少々雨。吉野立、辰の刻。細越と云ふ峠を越ゆる・多武の峰談峰大明神へ詣納經す。本社南向、美甚せる宮也。大織冠鎌足の御廟也。女人法界の地也。諸堂諸社多し、寺中多數あり、奇麗の地也。夕方三輪金屋へ歸り茂平宅へ宿す。

大峯山寺から下るとき、奥千本・上千本・中千本・下千本と、一目千本の櫻木の下を通ります。この吉野の地にこんなにたくさんの櫻の木が植えられたのはひとえに役小角のおかげです。彼は山上ヶ岳で感得した藏王權現を櫻の木に刻んだという伝承から、神木として保護され、修行者たちばかりではなく、ここを訪れた都の皇族・貴族たちも植樹をしたり獻木をしたりして、三萬本を超えるという吉野の櫻があるのです。
吉野山櫻2
春になると、麓の方から順に標高差によって咲き登っていきます。

左は中千本あたりから上千本あたりを眺めた満開の櫻。

…これはこれはとばかり花の吉野山…

という歌があったような気がする。


平安時代には金峯山詣でが流行して、白河上皇や藤原道長を始め多くの人が參詣に来ました。
また金峯山寺が擁した多数の僧兵を頼りに、兄源頼朝に追われた義経は、愛人の静御前と一緒にここへ逃げ込みましたし、後醍醐天皇もやはりここへ逃げ込んで、南朝を開いたのだが京都へ戻ることなく南朝は亡んでしまった。
西行庵西行像吉野水分神社
歌人西行はこの地に隠棲して、その場所はいまでも[西行庵]として残っていますし、豊臣秀吉は徳川家康や前田利家など多くの家臣を引き連れて豪華な花見を催しましたし、松尾芭蕉も西行を慕ってここへやって来ました。

いろんな事を順序もなく書きつらねましたが、吉野山はこのように昔も今も大勢の人を惹きつけました。

右は西行と西行庵です。

泉光院は櫻井へ向かって下山しました。途中には談山神社、聖林寺、そして阿倍文殊院などがあります。
談山神社森
談山(たんざん)神社は大化改新の中心人物、藤原鎌足を祀る宮です。
中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我氏から国政を奪還するために、645年、多武峰(とうのみね)の山中で談合をしたのでした。それがこの山。
談山神社の名前もこの時の談合をした山だから付けられた名前です。
クーデターは成功し、のちに天智・天武大王の時代となります。この時の功績によって天智大王は、中臣鎌足に「藤原」の姓と「大織冠」という冠位を与えたのでした。大織冠という冠位は、大化改新の時に決めた冠位十二階の最高の位であり、しかもこの冠位をもらったのは藤原鎌足一人だけしか居ないので、「大織冠」といえば鎌足のことをさすのです。以後、藤原氏一族は、源・平・藤・橘四姓の貴族のトップとなり、平安時代には天皇家と密接な縁戚関係を結んで権勢を振るうようになりました。
談山神社本堂
談山神社十三重塔下





談山神社の本殿と十三重塔。
こんな山中に泉光院も書いているように、
…美甚せる宮也。大織冠鎌足の御廟也。女人法界の地也。諸堂多し寺中多數あり、奇麗の地也。…です。この神社も、神社と名乗るようになったのは明治になってからで、江戸時代までは大明神、神佛混淆でした。
本堂の中に入ってウロウロ見ていたら、「藤原氏姓一覧」というような紙が置いてあって、藤原氏の末裔一族の姓が記載されているのです。全部で975の姓が載っているその一覧表。実にたくさんの姓が記載されているので、ひょっとしてワタクシの姓も?と思って捜したのですが、ワタクシの住所録の7割の姓は載っているのにワタクシの姓はありませんでした。それにしても藤原氏の末裔を名乗る姓が1000近くもあるというのは驚きでした。

談山神社も中世から近世にかけてはやはり兵力を蓄えていて、いまでも境内の一部には殆ど城壁と言ってもいいような石垣があって、中世の山城の一面も見せていました。
談山神社東大門談山神社下乗2

東大門です。はるか昔の佛寺の名残のような門ですから、神社としてはこんな門は不要!という事でしょうか。
談山神社石佛
門の近くは石垣というより「城壁」ですね、これは。
談山神社下乗1

下乘と彫った石があります。石佛も立っています談山神社へ来たら是非このような場所もしっかり見ておきましょう。


談山神社から櫻井へ下りる途中に聖林寺があります。聖林寺十一面観音

泉光院はこのすぐ脇を通っている筈なのだが立ち寄った気配はありません。というのも、聖林寺の十一面觀音がいまのように有名になったのは明治になってからのことで、明治政府が神佛分離・廃佛棄釋であったため、、もともとは大神(おおみわ)神社の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)にあったこの佛像が廃棄されるという運命だったのを見かねた聖林寺の住職が引き取ってここに納め、フェノロサがこの佛像を見て激賞し、和辻哲郎が驥尾に付して賞めて、さらに國寶になったので急に有名になりました。
いまは本堂から奥に長い廊下を登りつめた所にある宝物館のガラスケースの中に入っているので、写真に写すと天井の蛍光灯がガラスに反射してまともには写りません。
右の写真は「飛鳥園」という有名な佛像写真を写している小川光三氏の写真です。著作権については、このブログでワタクシはお金を得る事もなく、このブログを見て下さる方もごくわずかであろうと思いますのでとりあえずは無視しておきます。
飛鳥園の写真は、ワタクシが初めて奈良へ行った時から、ワタクシの定宿である日吉館の3軒ほど右隣(春日神社寄り)に飛鳥園のお店があってウインドウに飾ってあったのをいろいろ見ているし、土門拳の佛像写真よりもよっぽど親しみがあるので、ワタクシがこのブログに入れている奈良の佛像で非常によく出来ているのの多くは飛鳥園撮影のものであることをここに白状しておきます。聖林寺屋根

右、遠くに見えている屋根が聖林寺の屋根。
聖林寺山門

左が山門。

十一面觀音立像の横顔(左)と、手先(右)です。
聖林寺十一面観音横顔
聖林寺十一面観音右手先

廃棄処分にならずにこうしてご尊顔を拝することが出来るのはありがたいことです。



九日 晴天。草臥れたれば休息滯在。金剛袋仕立てする。近所より心太(こころぶと)贈らる。

三輪村金屋の茂平サン宅で泊まっていて、一日のんびりした。
金剛袋って金剛杖を入れる袋だろうか?心太
季節は新暦に治せば7月11日。晴天であればそろそろ暑い。ご近所の人がトコロテンを持ってきてくれた。暑気払いには格好の食べ物です。一人で食べていてもしょうがないもので、こういうものはやっぱりみんなで輪になって、泉光院の回國修行中のさまざまな出来事を面白可笑しく聞くのがいい。江戸時代でもトコロテンを食べていたのだ。
ワタクシの子供の時、金澤ではトコロテンのことを「こころぶと」と言っていたし、文字で書くと先は「心太」と書いていた。心太もこころぶともトコロテンも語源ははっきりしませんでした。
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*Comment

■廃佛棄釋

つねまるさま
お訪ね下さりありがとうございます。
明治政府の方針で佛教遺跡がところどころ破壊されたことがわかりますね。
神佛混淆の場所が「神社」となっているけれども、ここのように神社の中に佛寺のおもかげを見ることが出来るのはそれなりに意味があります。
ヨリック |  2018.05.24(木) 06:27 |  URL |  [コメント:編集]

■談山神社

こんばんは。ご無沙汰しております。
くしくも私、昨日、談山神社へ能楽の公演を鑑賞に参りました。明日香村から入ると石舞台古墳などを通りますので、中臣氏の勢力内で談合したんだろうなーっとわくわくしました。

一ヶ所だけでなく移動しながらあちこち拝見すると、教科書で習ったことが現実だったんだなととても面白くなります。

談山神社の様々な仏教的な遺構を見るにつけ、ここにあった様々なものはいったいどこへ行ったのかな、二束三文で売られたのかな、と、悲しくなりました。
つねまる |  2018.05.23(水) 21:34 |  URL |  [コメント:編集]

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