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2018.06.08 (Fri)

泉光院の足跡 310 興福寺・佛頭

猿沢池五重塔
龍神が住んでいたという猿澤池のまわりを廻ってから興福寺の境内へ入りましょう。右は猿澤池からの興福寺五重塔。
五十二段あるという石段を登ります。
上まで上がったら一度振り向いてみましょう。江戸時代末から明治にかけての町屋のおもかげを伝えるそのあたりを「ならまち」といいます。元興寺の旧境内で、小さなお寺と格子戸の家が迷路のように入り組んでいます。あとで元興寺極楽坊や頭塔を見に行くときにそこを通ることにします。

興福寺が出来たのは和銅三年(710)の平城遷都の時に、飛鳥にあった藤原氏の氏寺を鎌足の子の不比等がここへ持ってきたからです。だから興福寺では2010年を興福寺1300年記念の年として盛大な記念行事を計画しました。
興福寺伽藍配置
左が初期の境内配置図で、平安初期にはほぼこのような大伽藍になりました。
だがこの中でいま残っているのは右下の五重塔とその上の東金堂、そして右中ほどの北円堂、わずかにこの三つだけです。
このお寺は平安期末には多数の僧兵を擁して、比叡山延暦寺としばしば対立していました。比叡山の「北嶺」に対して興福寺は「南都」。そしてそれぞれ自分たちの権利を主張して、比叡山延暦寺は日吉神社(ひえじんじゃ)の神輿を、興福寺は春日大社の神輿を担いで宮廷に強訴に出かけたので、「南都北嶺」と恐れられ、白河天皇も「鴨川の水、賽の目、山法師」の3つは自分の力ではどうにもならない!と嘆いたのでした。興福寺東金堂と五重塔
右は東金堂と五重塔。
初めてワタクシがハタチになったばっかりの頃に、殆ど予備知識なしに猿澤池から石段を上がって、殆ど感動に近い驚きでこの風景を見たのでした。

興福寺ほど火災に遭ったお寺はほかにありません。
最初の火災は治承元年(1048)で、この時は北円堂など一部をのぞいてほぼ全焼し、承暦四年(1080)には反平氏の動きをしたために平重衡によって行われた焼き討ちによって堂塔のすべてを焼失した。
まもなく再建工事が始まって、佛像など今に多く残るものはこの時の運慶たち佛師の活躍によるものです。
江戸時代になると享保二年(1717)の大火災では五重塔、東金堂、北円堂と鎌倉時代後期に建てた三重塔が焼け残っただけでほかはみんな焼けてしまった。
明治時代には廃佛棄釋で廃寺となり、五重塔も売りに出されて、買主は一番上の相輪(これは金属ですから)を手に入れるのが目的だったので塔に火をつけて焼こうとして、ならまちの人たちが火事になると危ないからと言うことでようやく残されたのでした。築地塀は悉く破壊され、たくさんあった佛像も持ち出されて焼かれたのだが、それでもビックリする程たくさん今でも残っているのです。明治21年になってようやく法相宗大本山として復興しました。
興福寺2006特別公開ポスター
興福寺では創建1300年記念事業としてかっての壮麗な興福寺の偉容を再現せんものと、努力しているようです。
左のようなポスターにつられてワタクシは…興福寺のすべてをみるのだ…と出かけていったのでした。
興福寺中金堂発掘と東金堂五重塔
右は中金堂の基壇礎石の所から見た東金堂と五重塔。



興福寺中金堂発掘現場
左が中金堂跡の発掘現場です。右の方に見えている建物はとりあえず中金堂に収容する予定の佛像などを保管(展示もしていました)するための仮金堂。
この中金堂は興福寺のHPなどでは2018年のうちには完成して落慶法要も行われるらしいので間もなく堂々とした姿を見せてくれることでしょう。

ワタクシが横山サンに、‥山ばっかり行っとらんで奈良へ行って見ぃ‥と言われ、‥そして泊まるのは日吉館にせぇ‥と言われたのがきっかけで、その後何度も奈良へ行きました。

戦後の復興がようやく始まったばかりの頃はまだ観光客も少なく、施設もあまり整ってはいなかった。
上の方に載せておいた平安時代の興福寺の配置図、右上、「食堂 じきどう」が明治8年に取り壊されていて空き地になっていたのだが、そこに國寶館が造られたのは昭和33年(1958)で、ワタクシが初めてここへ来たときはまだ出来ていなくて、ワタクシの大好きな旧山田寺の「佛頭」は現在は國寶館に納められているのだがその頃は東金堂に置いてありました。
興福寺佛頭l
というのも、この佛像は天武七年(678)年に鋳造を開始し、天武十四年に完成して、飛鳥・山田寺の本尊として開眼供養をした佛像です。それを興福寺が盗んできたのかどうかは判らないのだが、文治三年(1187)に興福寺の物になり、治承四年の平重衡による南都焼き討ちの時には堂塔のすべてを焼失してしまった。

その佛像は、まもなく再建事業が始まって再建された東金堂の本尊とされたのだが、応永十八年(1411)の火災で首から下が溶けてしまって、このような姿になってしまったのでした。

でも、いい顔をしていますねぇ。‥

応永二十二年(1415)の東金堂5回目の再建の時には右の藥師如來が鋳造されて本尊となり、旧山田寺佛頭は永らく行方不明となっていたのだが、昭和12年の東金堂解体修理の時、須彌壇の下から発見されたのでした。そんなわけで、國寶館が出来るまでの間、東金堂にこの佛頭は納められていたのでした。この佛頭は白鳳彫刻の代表的名品とされています。
興福寺東金堂藥師三尊像
白鳳佛はそれまでの飛鳥佛よりも丸顔で、頬のあたりがふっくらとして、表情に優しさがあるのが第一の特徴です。飛鳥佛の代表的名品である法隆寺金堂の釋迦三尊像と比べてみるとその違いがよくわかります。

右が今の東金堂内部。
入ってみると、荘厳な雰囲気がただよっています。
ほかのお堂よりもなぜか観光客が少ないので落ち着いて佛像と対面出来ます。

國寶館が出来る前はここに多くの国宝級の佛像が並んでいました。佛頭のほかにも阿修羅像や龍燈鬼・天燈鬼(他にもあったと思うのだが忘れてしまった)といった素晴らしい佛像と対面できて、初めて奈良へ行ったときの感動は忘れがたいものがあります。

次に北圓堂へ行ってみましょう。
興福寺北円堂南東
ここは現存する興福寺の諸堂の中ではいちばん古い建物です。
普段は公開していないのですが、春秋などに
気をつけていると特別開扉されることがあります。
上の方で「興福寺国宝特別公開2006年」というポスターを載せておきましたが、このようなときにはこの北圓堂の扉も開いて、佛像を見ることが出来るのです。

彌勒佛坐像興福寺北圓堂

世親菩薩像全身興福寺北円堂

右が運慶作の彌勒菩薩坐像と世親菩薩立像。
名品揃いです。


興福寺北円堂彌勒佛他
彌勒佛と脇侍興福寺北円堂


左、北圓堂内部。
右、本尊の彌勒佛坐像と両脇侍・
特別公開といっても、このあたりは東金堂や五重塔、宝物館とはかなり離れているのと、建物は築地塀で囲まれているので、こんなに素晴らしい佛像が「特別公開」されているとは知らない人が殆どですから、ワタクシがここで写真を写している間(かなり長い時間だったのだが)、一人の人間も入ってきませんでした。

興福寺という立派なお寺で、一人の人も居ない時に、自由に写真を撮ることが出来た想い出深い写真であります。
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 |  2018.07.10(火) 20:32 |   |  [コメント:編集]

■龍神

龍神という生き物は、人間がこの世に出てくる前の時代に湖や池の底に住んでいたようですが、人間がこの世を我が物顔に歩き出したときにはきっと天上高く登ってしまったのでしょうね。
人間は他のいろんな生き物たちから嫌われていますから、犬猫のように人間に媚びて生き延びる種族もいますし、ワニや虎のように人間にはあまり近づかないように生きている種族もあるようです。
佛という生き物もかってはこの世の中に居たのでしたが、人間が現れるとそのあまりに醜い存在を嫌って、佛たちは兜率天といった宇宙高くに登って行ったのかも知れません。それでも人間は、佛といういい生き物がこの世に居た事を伝承で知っていたので、記憶のかぎり、その姿や思想を思い出しながら再現を計っているのかも知れません。でも佛という生き物は、人知を超えた存在なのではないかと近頃は思うようになりました。
ヨリック |  2018.06.11(月) 20:30 |  URL |  [コメント:編集]

猿澤池に龍神が住んでいたことを全く知りませんでした。
仏像もなかなか奥が深いですね。
遠足とかでよく行った奈良ですが、ちょっと勉強しないといけないなと思い知りました。
sazanamijiro |  2018.06.11(月) 09:41 |  URL |  [コメント:編集]

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