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2018.06.17 (Sun)

泉光院の足跡 312 日吉館のこと

今までにワタクシは何度もこんな事を書きました。 
横山サンから折に触れて、
…山ばっかり行っとらんで奈良へ行って見ぃ。‥そして
…泊まるのは日吉館にせぇ。…

まず奈良公園付近の空撮写真と、ほぼ同じ場所の地図です。上が北、右が東で左が西です。
奈良公園空撮左端真ん中あたりの黒い半円形が猿澤池でその上の緑色広い部分が興福寺の境内。
その右が奈良国立博物館のある地域で、その右が春日大社のある森。右上の淡黄緑が若草山、ということになります。
ほぼ全体が見えてきたでしょう。

奈良公園地図地図で確認しましょう。
上の方、東西に延びる広い道は登大路(のぼりおおじ)、興福寺、国立博物館などの文字が見えて来ました。
その下の東西に延びる道が三条通で、春日大社にぶつかります。

日吉館という宿屋は、この地図の奈良国立博物館の、登大路の道を隔てたすぐ向かい側にあります。国立の建物記号のすぐ上に「日吉館」、その右隣が佛像写真の名品を撮っていた「飛鳥園」(実はこの間に骨董を扱っていた古道具屋さんがありました)の文字が見えています。

この日吉館こそがワタクシが定宿としていた「旅籠」でした。
ワタクシの想い出のために、まさに「廃屋」となった日吉館のことを書いておきます。
日吉館正面

屋根は壊れ、まさに崩れ落ちんとしている「日吉館」。2006年にワタクシの写した見るに忍びない姿です。

この宿でお世話になったオバチャンや、出会ったおおぜいの人たちにまつわる数限りない思い出、、そういったものはワタクシの脳の老化と共に徐々に忘却の彼方に消えて行きます。
忘れないうちに少しばかり書き留めておきたいと思うのです。
日吉館田村キヨノさん飛鳥園
左がオバチャン。
日吉館の廃業に先立って飛鳥園が写した写真です。
日吉館正面飛鳥園












右も同じ頃の飛鳥園による写真。

右の戸を開けて入ると土間になっていて、その左の座敷、いわばロビーとでも言いましょうか、そこにこのようにオバチャンが座っていて迎え入れてくれました。
ここでの夕食は、この写真に写ってる、通りに面した二階の部屋で、宿泊客全員(と言っても20人ほど)が一堂に会して!盛大にスキヤキをつつくのです。
とてもオイシイ牛肉を大量に出してくれて、それを皆さんお腹いっぱいに食べながら、今日見てきた「素晴らしい佛像」のことを口々に喋っている内に次第に佛像や寺社建築のことを理解するようになっていくのでした。時には詩人や画家や、歴史に詳しい物書きの人も泊まりあわせることがあり、そんな時にはその部屋が「日吉学校」となるのでした。
朝ご飯はいまオバチャンの座っているあたりが食堂になって、ご飯を自分でお櫃からよそって、何杯もお代わりをして、「ここでお腹いっぱい食べていって、お昼を外で食べる分のお金を拝観料に充てなさいや」と言いながらグズグズしている人を追い出すようにしているのがオバチャンでした。
日吉館相澤弘子m

右はワタクシが初めてここに泊まったとき泊まりあわせた、東京の出版社で編集の仕事をしている相澤サンという人と、北海道から来ている学生。 日吉館前で写したものです。
後に見えている建物は奈良国立博物館。
のちに相澤サンに、パソコンという道具は便利ですよ、といってワープロ程度には使えるパソコンを一台送ったのだが、彼女は「日本語を横書きにするのはどうしても性にあわないのです。」と断られた。ワタクシはパソコンの記憶力がいいことや訂正能力の優れていることなどを説得して、なんとか早くパソコンを使えるようになって貰いたいと思っていたのだが、使う前に死んでしまったのが心残りです。
彼女は日本語を横書きにすることにはどうしても我慢がならない、という信念のようなものがあって、ワタクシのように何でもいい加減に済ませるような人間とは違っていました。
美しい文章を美しい字で「縦書きで」書いている人でした。
奈良市内地図、日吉館周辺です。
奈良市内地図日吉館周辺

年末年始の何日かをここで過ごして、雪の降る朝早く、奈良を離れるために日吉館を出て、上の地図でいえば興福寺の境内の真ん中あたりまで来た時、「オ客サァ~ン」と言って追っかけてくる声がするのです。何か悪いことでもしたのだろうか、と思ってビックリして振り返ったら、丸顔の一番若い女中さんが、「宿帳を書いていって~。」というのでした。
日吉館宿帳大正11年10月
ここの宿帳は開業以来ずっと右のようなスタイルのもので、廃業までの長い間の宿帳が全部残っていたのだが今はどうなっているのだろうか。もし残っていたらその中の何冊かにはワタクシのサインもある訳なんだが・・・。

日吉館看板と會津八一

開いてあるページの左側ページの一番最初の行は秋艸道人・會津八一の署名で、職業欄には「教員」としてあり、大正11年10月の宿帳だから、早稲田高等学院の教授であった頃のもの。
そして左の写真は會津八一ご本人と、氏の書いた看板。日吉館看板

右は廃業したとき取り外した看板。文字は「旅舎 日吉館 庚午春日 秋艸道人顯」。
高さ67cm、幅151cm、厚さ5cm、ヒノキ材の堂々とした一枚板です。


日吉館縦看板

左の「ひよし館」と縦書きに書いた看板は建物右端の軒下にありました。

會津八一は、昭和四年の秋十月二十一日から十一月五日までここに泊まっていたとき、無口なおやじだった松太郎さんが秋艸道人に、うやうやしく、かつおずおずと、…勝手なお願いでは御座いますが、…と切りだしたのが看板の文字を書いて頂けないでしょうか、と言うお願いだったようです。

オバチャンの手元に會津八一氏からの一通の書状がありました。

「拝啓 過日は柿を沢山お送りくだされ ありがたく存じ候 御頼みのかんばんは 今日小包にて送り候 どれでもよろしき方を御用ゐなされ候やうなし下さるべし…(中略) …彫刻は 紙の大さと全然同じ大さの板にて、凹字に彫らせなさるべし 色は 白色の胡粉を入るゝこと とにかく彫刻師といふものは 書家のかきしものを勝手に直したりするものなる故 かたく申しつけ すべて原稿の通りに彫らせるべし …(中略) …横看板の日付は 只今から彫らせても 来年となるべきにつき 来年正月の日付をかきおきたり
           十二月四日
                        會津八一
   日吉館 御中

その頃の日吉館の東隣には骨董を扱う店、その東隣りに小川晴暘の飛鳥園が店を出してその佛像写真の声価は高いものでした。リプトン紅茶を飲ませた鹿鳴莊や、氷室神社横のミルクホール「さわやま」などとともに登大路界隈は文化人の行き交う社交場となったのでした。
日吉館おほてらの秋艸道人

左は會津八一の歌集『鹿鳴集』所収の一首をオバチャンに書いてあげたものの写しです。
いつもオバチャンの座っているロビーの奥、左上に額に入れて飾ってありました。
オバチャンは写しを何枚か拵えて常連客に別けたもので、ワタクシも一枚貰いました。
この歌は、


   唐招提寺にて

おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ

のちに『自注鹿鳴集』の中でこの歌にかなり長い注記を書いて、唐招提寺の佛像のことや、さらに法隆寺・東大寺・法界寺・平等院など順を追って見るべきこと、さらには、…つきかげ…や…つちにふみつつ…の語句について意図した点を書き、最後に、…因にいふ。この歌の作者自筆の碑はこの金堂の左側にあり。見んとする人は寺務所にてたださるべし。…
とありますので、唐招提寺へ行ったら金堂の左側へ廻って碑を見て下さい。唐招提寺列柱

左の写真は唐招提寺の南大門列柱です。

おおてら の まろき はしら 

です。



あるとき予定外の長逗留になってしまって、お金が足りなくなったので、オバチャンにわけを話して何日かを食事抜きの「素泊まり」にしてもらったのでしたが、それでも同宿の人たちが丼に山盛りのご飯とスキヤキの肉を盛り付けて差し入れをしてくれて、それで命永らえ(オバチャンも見て見ぬ振りをしてくれていたのでしょう)、次に訪れたときそのお礼に金澤の銘菓「長生殿」を持参し、リュックサックに入れておいた茶道具で「山千家胡座流 やませんけ あぐらりゅう」のお茶会をしたのでした。日吉館平面図
ちょうど庭の櫻が満開で、オバチャンは奥二階の、その櫻の木のすぐ脇のいいお部屋を用意してくれて、同宿の人たちみんなと楽しいお茶会になったのでした。右が日吉館の部屋割りで、左が1F、右が2F。お茶会をしたのは2Fの一番右上の部屋。窓を開けると満開の櫻が見えたのでした。
ワタクシは山へ行くとき、(立山・剱岳や槍・穂高は別として)リュックサックの中に茶道具を入れていって、霧ヶ峰や美ヶ原、といった美しい草原でよく「お茶会」をして、その時の作法を「山千家胡座流」、と命名して楽しんだのでした。

日吉館は全部で12部屋しかないので皆さん相部屋(一応男女は別。夫婦であっても別部屋)。知らぬ同志が夜遅くまでしゃべりまくって青春の時を過ごしたのでした。
その頃のワタクシはいつもお金がなくって、旅から帰るとカメラを質に入れてしばらくの生活費に充て、次に旅に出るときには汽車賃と幾らかの宿泊費と、さらにカメラを質屋から出すための余分なお金が要ることになるので随分苦労をしたものです。

ワタクシに…奈良へ行け、日吉館に泊まれ、…と言っていくれた横山サンも、日吉館オバチャンも、縦書き相澤サンも、既にこの世にはいなくなって、次はワタクシの番だ、としみじみ思うこの頃です。

朝日新聞は時々日吉館のことを記事にしました。
お風呂を五右衛門風呂から普通の四角い木のお風呂になったこと。トイレが綺麗になったこと。
日吉館朝日新聞田村キヨノさんこの人

右はまだ75歳の頃のオバチャンの紹介。
日吉館朝日新聞今年限り19821122

1982年11月22日の記事(左)では「今年限りで廃業」すること。


日吉館朝日新聞田村キヨノさん訃報19981125

そして1998年11月25日の記事(左)で訃報とともにオバチャンの業績!を紹介しました。
坐っているオバチャンの左後ろに會津八一の看板が置いてあります。


日吉館のことはまだまだたくさん書きたいことがいっぱいあります。
相部屋で一緒になって一晩中しゃべったり、夜中になってからあちらこちらのお寺へ「侵入」したり、はじめは佛像の話をしていたのにいつの間にか音楽論争になったり、会社の出張で関西方面へ来るときは宿泊を日吉館でとったり、一時期、オバチャンは精神薄弱児の施設の人を、「普通の人と一緒にさせておくと回復が早いかも…」と台所仕事などを手伝わせていた時期があったことなど、見た佛像の数よりも沢山の思い出を作ってくれた日吉館でした。
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