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2017.08.05 (Sat)

泉光院の足跡 245 宇津ノ谷峠

岡部宇都之山東海道五十三次之内


廣重版画「東海道五十三次之内 岡部 宇津之山」の情景は、鞠子と岡部の間を遮る峠。わずかにのぞく空、鬱蒼とした森、盛り上がる山の奥深さ、その山あいの道を柴を背負った樵たちと薪を背負った女と旅人らしいのが通る。泉光院も通る。

廿二日 朝雨。鞠子驛立、辰の刻。宇津の山と云ふを越へ、岡部の驛まで半道にして左右に道あり、右は本街道、左は在道、大井川の下、海際を越す道也、因て托鉢し乍ら此方へ赴く。…

丸子を出た泉光院は、東海道(泉光院の言う本街道)を下って、岡部の宿の手前の坂下という所で焼津の方に向かう道へ入ります。正規の東海道は岡部・藤枝・島田と進んで大井川を渡ることになるのですが、どうやら泉光院はそれをいやがって、大井川のずっと下流の方、海岸近くを歩いて渡るつもりなんです。

岡本かの子にもう少しつきあいましょう。
宇津ノ谷峠略図

右にのせたのは宇都ノ谷峠の略図。丸子を出て峠の下に掛かると、「蔦の細道」と入れておいたオレンジ色の旧道と、東海道と書いてある青色の道に分かれます。

左が蔦の細道の入口を示す道標です。
蔦の細道道標



 …「さあ、これからが宇都ノ谷峠。業平の、駿河なるうつの山辺のうつゝにも 夢にも人にもあわぬなりけり、あの昔の宇津の山ですね。登りは少し骨が折れましょう。持物はこっちにお出しなさい。持ってあげますから」
 鉄道の隧道が通っていて、折柄,通りかかった汽車に一度現代の煙を吐きかけられた以後は、全く時代と絶縁された峠の旧道である。左右から木立の茂った山の崖裾の間をくねって行く道は、ときどき梢の葉の密閉を受け、行く手が小暗くなる。そういうところへ来ると空気はひんやりとして、右側に走っている瀬川の音が急に音を高めてくる。何とも知れない鳥の声が、瀬戸物の破片を擦り合わすような鋭い叫び声を立てている。…
蔦の細道

いまは蔦の細道と呼ばれるようになった旧の東海道の道筋は保存されています。ワタクシも一度だけ通ってみました。
この道はその昔、『伊勢物語』に登場する在原業平も通りました。「第九段 東下り」の段です。
この段は、三河国八橋というところで「かきつばた」の五文字を句の上にすゑて旅の心を詠むくだりがあって、次に駿河国の宇津の山を越えます。
蔦の細道俵屋宗達東下り

左は俵屋宗達の描いた「伊勢物語図色紙」の中の「宇津山図」(MIHO MUSEUM所蔵品)。

『伊勢物語』の主人公である「をとこ」、それは多くの場合貴公子であり、歌に秀で、優雅で情の豊かな男です。読者はその「をとこ」が在原業平(ありわらのなりひら)あることを思い浮かべながら読むのです。

蔦の細道深江蘆舟屏風絵
昔ありける男が登場し、女あるいは男と歌を交わし、華やかな色彩としめやかな情緒のある短いお話を積み上げることでこの伊勢物語は構成されています。
今度は琳派の絵師深江蘆州の屏風絵に描かれている蔦の細道(部分)です。右端の青い衣を着た男が業平だと思われます。

もう一度第九段の所に戻って、

   東下り
むかし、をとこありけり。そのをとこ、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、あづまの方にすむべき國もとめにとてゆきけり。

男は自分を「えうなきもの」と思い捨てて都を離れ、東国へ行きます。何で「要なき者・用なき者」と思い詰めたのか、藤原氏との権力闘争で敗れたからだろうか、それとも、清和天皇女御であり藤原良房の女(むすめ)である二条后高子(たかいこ)との恋がとげられなかったからだろうか。かきつばた八橋

をとこは八橋で、             
 から衣きつつなれにしつましあらば
    はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
と詠んで涙を流します。
右は愛知県の知立あたりだっただろうかカキツバタの名所、八橋の風景。木の橋をこの写真のように曲げて組んであるのが八橋の特徴です。
そしてこの歌の句の頭に、「か・き・つ・は・た」の文字を読み込んであるのです。

 ゆきゆきて駿河の國にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることとと思ふに、修行者あひたり。「かかる道は、いかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京にその人の御もとにとて、文かきてつく。駿河なるうつの山邊のうつつにも夢にも人にもあはぬなりけり。

宇都ノ谷峠を蔦の細道というのは、この段に、細い道に蔦楓が茂ってもの心細く、と書いてあるからでしょう。
こんな所で修行者から「どうしてこんな所をお通りなさる」と声を掛けられたので見たら知っている人だった。それで文を書いてその修行者に託したのです。
「人」というのはもちろん「好きな人」であり、「御もとに」ですからその人は高貴な女性です。昔の人は相手の人が心に想っていてくれると夢に現れてくる、と思っていましたから、駿河の國まで来てみれば、現(うつつ)にも夢にもあなたに逢うことが出来ない、あなたはもう、私のことをお忘れでしょうか、と嘆いて文を書くのでした。
何れまた書きますが、第六十九段「狩の使」の伊勢斎王恬子(やすこ)さんも、「君や來し我や行きけむおもほえず 夢かうつつか寢てかさめてか」と詠み、業平も「かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとはこよひ定めよ」と返しています。昔の人の心には、夢とうつつの間は大きな距離はなかったように思われます。

もう少し後になってから書きますが、泉光院も遠州沖之須という所の庵に泊まっていたとき、そこの尼イワという人に手紙を託されて、美濃國田栗村の政藏という弟の家まで届けています。いつの時代でも修行者は全国を渡り歩いているので、文を届ける、という用事も頼まれたのでしょう。昔の人は「面倒くさい」などとは思わずに引き受けたようです。

この峠は、歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠 つたもみじうつのやとうげ」では百両の金を持っていることを知った十兵衛が、座頭の文弥を殺す場面に使われるなど、やはりここは難所でした。
岡本かの子に戻ります。

 …私は芝居で見る黙阿弥作の『蔦紅葉宇都谷峠』のあの文弥殺しの場面を思い起こして、婚約中の男女の初旅にしてはあまりに甘くない舞台を選んだものだと私は少し脅えながら主人の後について行った。主人はときどき立ち停って「これどきなさい」と洋傘で弾ねている。大きな蟇が横腹の辺に朽葉を貼りつけて眼の先に蹲(うずくま)っている。私は脅えの中にも主人がこの旧峠道にかかってから別人のように快活になって顔も生々してきたのに気づかないわけにはいかなかった。洋傘を振り腕を拡げて手に触れる熊笹を毟って行く。それは少年のような身軽さでもあり、自分の持地に入った園主のような気儘さでもある。そしてときどき私に「いいでしょう、東海道は」と同感を強いた。私は「まあね」と答えるより仕方がなかった。
 ふと、私は古典に浸る人間には、どこかその中にロマンチックなものを求める本能があるのではあるまいかなど考えた。あんまり突如として入った別天地に私は草臥れるのも忘れて、ただ、せっせと主人について歩いて行くうちどのくらいたったか、ここが峠という展望のある平地へ出て、家が二三軒ある。「十団子も小粒になりぬ秋の風という許六の句にあるその十団子を、もとこの辺で売っていたのだが」 主人はそう言いながら、一軒の駄菓子ものを並べて草鞋などを吊ってある店先へ私を休ませた。…
十団子許六石碑
これから結婚しようと思っている若い男女の初旅にしては、いくら物語の上でのことだとしても殺人事件の舞台となった、人通りもない、ヒキガエルのウロウロしているような淋しい峠を連れて歩くのはどうかと思われる。右の石碑は慶龍寺境内にある許六の句の石碑です。許六「十團子も 小粒になりぬ 秋の風」と書いてあるのが読めます。
十団子

十団子(とおだんご)は室町時代から峠道の民家で売っていたようで、杓子で十個ずつ掬って腹を減らした旅人に売っていた。柴屋軒宗長がここへ来た大永四年(1524)には、急な雨で雨宿りをしていて、街道名物というその団子を食べていたようだし、小堀遠州も辛酉日記に「十づつ掬ふによりて とをだむご と云ふ也。」と書いている。
森川許六(きょりく)は元禄時代の俳人で芭蕉の門人だった人ですが、ここへ来たのは小堀遠州が通った1621年よりも多分7~80年後だから、その頃は話に聞いていたよりも少し小さくなっていたのかも知れない。
東海道線に汽車が通るようになって、峠を越える旅人が少なくなって、団子の販売では生活が出来なくなってだんだんやめる家が出てきた。宇津ノ谷峠十団子寺
そこで慶龍寺(右)では8月23・24日の延命地蔵尊例祭の時に参拝客に「魔除け」として売るようになったのが現在の十団子です。
いまお寺ではちっちゃい団子を10個紐でつないだのを九つ束にして、上にのせておいた写真のような形で売っているようです。玄関先に魔除けとして吊しておくのです。

 …私たちがおかみさんの運んできた渋茶を飲んでいると、古障子を開けて呉絽(ごろ)の羽織を着た中老の男が出てきて声をかけた。
「いよう、珍しいところで逢った」
「や、作樂井さんか、まだこの辺にいたのかね。もっとも、さっき丸子では峠に掛かっているとは聞いたが」
と主人は応える。
「坂の途中で、江尻へ忘れてきた仕事のことを思い出してさ。帰らなきゃなるまい。いま、奥で一杯飲みながら考えていたところさ」
 中老の男はじろじろ私を見るので主人は正直に私の身元を紹介した。中老の男は私には丁寧に、
「自分も絵の端くれを描きますが、いや、その他、何やかや八百屋でして」…

ここで作樂井さんが登場しました。主人と杯の応酬をしながら東海道のことを話しているのですが、「私」が退屈をしている様子に気を遣った作樂井さんが、

 …「奥さん、この東海道というところは一度や二度来てみるのは珍しくて目保養にもなっていいですが、うっかり嵌まり込んだら抜けられませんぜ。気をつけなさいまし」
 嵌まり込んだら最後、まるで飴にかかった蟻のようになるのであると言った。
「そう言っちゃ悪いが、御主人なぞもだいぶ足を粘り取られているほうだが」
 酒は好きだがそう強くはない性質らしく、男は赭(あか)い顔に何となく感情を流露さす声になった。
「この東海道というものは山や川や海がうまく配置され、それに宿々がいい具合な距離にあって、景色からいっても旅の面白みからいっても滅多にない道筋だと思うのですが、しかしそれより自分は五十三次が出来た慶長頃から、つまり二百七十年ばかりの間に幾百万人の通った人間が、旅というもので嘗める寂びしみや幾らかの気散じや、そういったものが街道の土にも松並木にも宿々の家にも浸み込んでいるようなものがある。その味が自分たちのような、情味に脆い性質の人間を痺らせるのだろうと思いますよ」
 強いて同感を求めるような語気でもないから、私は何とも返事しようがない気持ちをただ微少に現して頷いてだけいた。すると作樂井は一人感に入ったように首を振って
「御主人はよく知ってらっしゃうが、考えてみれば自分なぞは――」
と言って身の上話を始めるのであった。…
現在の宇津ノ谷峠
こちらは現在の宇津ノ谷峠。宇津ノ谷峠の集落があって、お羽織屋といった建物もあります。

作樂井の身の上話は省略しますけれども、34才の歳になってふと商用で東海道へ足を踏み入れたのがきっかけで東海道をウロウロし始めるのです。あまりにたびたび家を空けるので妻は愛想を尽かして子供を連れて家を出てしまい、この男は器用な男だったので、表具やちょっとした建具。左官の仕事が出来て、襖を張り替えてそこに書や絵を描く、こんな事を生業(なりわい)にしているうちに深みにはまりこんで東海道から抜け出せなくなってしまうのです。
この時の「私」の旅はこれで一旦終わって、島田から汽車で帰ります。


 …結婚後も主人は度々東海道へ出向いた中にも私も二度ほど連れて行って貰った。その時は私も形振(なりふり)構わず、ただくすんでひんやりと冷たいあの街道の空気に浸りたい心が急いた。私も街道に取り付かれたのであろうか。…

岡本かの子にはまた後ほど三河の八橋とか關・亀山あたりで登場を願うことにして一旦休んで頂きましょう。
ワタクシも街道の魔力に心惹かれた一人かも知れないのだが、西行のように妻子を振り捨てて家を出るほどの勇気も才覚もなく、作樂井サンのように会社に辞表を出して街道に嵌まり込むほどの夢とロマンも持ち合わせていなくて、凡々と今まで生きてきてパソコンの前に据わって指先を動かしているに過ぎないのです。

ちから姫サマからコメントを頂きました。コメントを少し引用させていただきます。
♪私も十団子を魔除けとして玄関に吊るしてあります。地蔵盆の時求めてきました。・・・
そうですか。いいですねぇ。これが文化なんでしょう。
ワタクシなんぞ話を聞いたり本で読んだりしたことを知ったかぶりをしてずうずうしく書いているだけなのだが、ちゃんと実践していらっしゃる方からコメントを頂いたのです。本当にありがとうございました。

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2017.08.01 (Tue)

泉光院の足跡 244 吐月峰

ワタクシが北國は金澤という町で高校生だった頃の国語の教科書に、岡本かの子の『東海道五十三次』という小説が入っていた。全体でもそんなに長くはない小説なのだが、教科書だから全文入っていたわけではなかっただろう。
特に印象深かったのは、丸子の宿、とろろ汁を食べてから吐月峰柴屋寺、宇都ノ谷峠の十団子のあたりでした。そしてこの中には作樂井(さくらい)さんという「東海道人種」ともいうべき人が登場します。そうしてワタクシは何故かこの東海道の真ん中あたりの土地に一種のあこがれに似た気持ちをずっとずっと持ち続けていたのでした。
ワタクシが遠州という地に引っ越したのはこの小説が頭のどこかにこびりついていたのが一つの原因かも知れない。仕事の口を捜すのに、条件の一つとして東海道の真ん中あたりにある工場を考えていたのです。そして本社は東京にあるのだけれども工場が浜名湖のほとりの鷲津という小さな田舎町にあった会社に試験!を受けて就職したのでした。(途中入社でしたからあまり条件はいいとは言えなかったと思います。そしてこの会社はワタクシが定年退職してから後、奇妙な人が社長になったためにつぶれてしまって今は跡形もなくなってしまいました。)
安藤電気鷲津工場昭和38年従業員

この写真は、1963年、ワタクシがこの工場に従業員として働くようになってから3ヶ月後、会社の創立30周年記念で写した写真です。ワタクシもどこかに入っているのだろうけれどもどこに居るのか自分でもさっぱり判りません。
当時ワタクシが住んでいたのは後の方右側の建物、守衛所の建物二階の独身寮の一室でした。

入社してしばらく経ったある日曜日、吐月峰柴屋寺へ行きました。ワタクシの頭の中には岡本かの子の文章がシッカリ残っていたのです。しばらくの間岡本かの子と一緒に歩きましょう。

岡本かの子は漫画家岡本一平と結婚して、画家岡本太郎を生んだのだが、彼女が本格的に小説を書き始めたのはごく晩年になってからで、耽美妖艶な物語を書いた。
一平・かの子夫婦の結婚生活は奇妙なものではあったのだが、そのことは関係がないのでふれません。小説の文章はいつもの通り、… … で囲っておいて、ワタクシの注釈は地の文章そのまま行頭一字明けをしないで書きます。始めの方は省略して、

 …私が主人に連れられて東海道を始めてみたのは結婚の相談が纏まって間もない頃である。…

静岡駅に着いてから俥(くるま・人力車)を雇ってあべ川餅屋の前を通って橋を渡り、重衡と千手前の恋のことなどを主人から聞かされたりしながら丸子に着いてとろろ汁を食べるあたりから、

 …午前の陽は流石に眩しく美しかった。老婢が「とろろ汁が出来ました」と運んできた。別に変わった作り方でもなかったのだが、炊きたての麦飯の香ばしい湯気に神仙の土のような匂いのする自然薯は落ち着いたおいしさがあった。私は香りを消さぬように薬味の青海苔を撒(ふ)らずに椀を重ねた。丸子とろろ汁
 主人は給仕をする老婢に「皆川老人は」「ふじのや連は」「歯磨き屋は」「彦七は」と妙なことを訊き出した。老婢はそれに対して、消息を知っているものもあったし知らないものもあった。話の様子では、この街道を通りつけの諸職業の旅人であるらしかった。主人が「作樂井さんは」と訊くと「あら、いま、この前を通って行かれました。あなた等も峠へかかられるなら、どこかでお逢いになりましょう」と答えた。主人は「峠へかかるにはかかるが、廻り道をするから――なに、それほど会い度いというわけでもないし」と話を打ち切った。
 私たちが店を出るときに、主人は私に「この東海道には東海道人種とでも名付くべき面白い人間が沢山いるんですよ」と説明を補足した。
 細道の左右に叢々(そうそう)たる竹藪が多くなってやがて、二つの小峯が目近く聳え出した。天柱山と吐月峰というのだと主人が説明した。私の父は潔癖家で、毎朝、自分の使う莨盆(たばこぼん)の灰吹を私に掃除させるのに、灰吹の筒の口に素地(きじ)の目が新しく肌を表すまで砥石の裏に何度も水を流しては擦(す)らせた。朝の早い父親は、私が眠い目を我慢して砥石で擦って持って行く灰吹を、座敷に坐り煙管(きせる)を膝に構えたまま、黙って待っている。たばこ盆
私は気が気でなく急いで持って行くと、父は眉を皺めて、私に戻す。私はまた擦り直す。その時逆にした灰吹の口に近く指に当たるところに摩滅した烙印で吐月峰と捺してあるのがいつも眼についた。春の陽ざしが麗らかに広がった空のような色をした竹の皮膚にのんきに据わっているこの意味の判らない書体を不機嫌な私は憎らしく思った。灰吹の口が綺麗に擦れて父の気に入ったときは、父は有難うと言ってそれを莨盆にさし込み、煙管を燻(くゆ)らしながら言った。「おかげでおいしい朝の煙草が一服吸える」 父はここで私に珍しく微笑みかけるのであった。…

今はもうほとんど見ることの出来なくなった煙草をのむときの作法、刻み煙草をキセルに詰めて、壺の中に埋め込まれた炭火にかざして火をつけます。喫い終わった煙草の灰を竹の筒(それが灰吹きですが、吐月峰柴屋寺の名産だったので、「吐月峰」と書いて〔はいふき〕と訓(よ)ませました)の中に落とすのですが、その時キセルの雁首を吐月峰の口の所にポンと当てるのでそこが汚れたり凹んだりするのです。上の写真の吐月峰は口の所が凹んでいて汚れていますね。それを「私(かの子)」はいつも砥石で綺麗に磨かされていたのでした。
吐月峰柴屋寺門
前号の地図で、丁子屋から少し先に行った所から右に曲がって山の方に少し入った所に吐月峰柴屋寺があります。
右は柴屋寺の門。

 …まわりの円味がかった平凡な地形に対して天柱山と吐月峰は突兀(とっこつ)として秀でている。けれども矗(直を3個重ねた字、ちょく と発音する)とか峻(しゅん)とかいう峙(そばだ)ちようではなく、どこまでも撫で肩の柔らかい線である。この不自然な二峰を人工の庭の山のように見せ、その下のところに在る藁葺きの草堂諸共、一幅の絵になって段々近づいてくる。柴の門を入ると瀟洒とした庭があって、寺と茶室と折衷したような家の入口にさびた聯がかかっている。聯の句は、
 幾若葉はやし初の園の竹
 山櫻思ふ色添ふ霞かな

吐月峰柴屋寺庭園天柱山
庭園を廻って柴屋寺の裏へ入ったのが左の写真。名月の時、ここに腰を掛けて眺めると、右の山から月が現れる。満月
それが風流なのです。この山から月が出るので吐月峰と名付けられている。左の山は天柱山。


 …主人は案内を知っていると見え、枝折戸(しおりど)を開けて中庭に私を導き、そこから声をかけながら庵の中に入った。一室には灰吹を造りつつある道具や竹材が散らばっているだけで人はいなかった。主人は構わずに中へ通り、棚に並べてある宝物に向かって、私にこれを写生しとき給えと命じた。それは一休の持ったという鉄鉢と、頓阿彌の作ったという人丸の木像であった。私が、矢立の筆を動かしていると、主人はそこらに転がっていた出来損じの新しい灰吹を持ってきて巻煙草を燻らしながら、ぼつぼつ話をする。…
吐月峰竹細工
最近はここも観光化されて、吐月峰(灰吹きの方の)だけではなくて、ビールのジョッキやコップやマグカップのようなものも販売している(右の写真)。
入場料を払って入って、玄関左の部屋から時計回りに拝観順序が決まっていて、4部屋目くらいの小部屋の棚に「私」が「主人」からスケッチを命じられた宝物がある。
かの子の小説はこのあと、この庵の創始者である宗長のことや中世の連歌師の事などが続くのですが、ここで一旦おしまいにしましょう。

 …主人は新しい灰吹の中へなにがしかの志の金を入れて、工作部屋の入口の敷居に置き、「万事灰吹で間に合わせて行く。これが禪とか風雅というものかな」と言って笑った。…

これから先、「私」と「主人」の二人、そうして泉光院も通る宇都ノ谷峠にかかります。その昔、在原業平も通り、黙阿弥の芝居では文弥殺しの場所にもなった峠です。
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2017.07.30 (Sun)

泉光院の足跡 243 安部川餅

六月廿一日の日記の続きから始まります。

…夫より東南十八丁、八旗八幡へ詣納經、本社南向、花表前在村、又驛に出で阿倍川と云ふを歩行渡る、川幅四丁計り。鞠子の驛花屋と云ふに宿す。當宿はトロロの名物とて蕉翁の句に鞠子の宿のトロロ汁とあり、予も思ひ出して一句、
   味なくもトロロに代へし冷し汁
一興して臥す。
府中安倍川東海道五十三次之内

「東海道五十三次之内 府中 安倍川」

この川は戦略上の理由で橋を架けることも船渡しも禁止されていたので、旅人たちは川越人足を雇って渡らねばならなかった。
3人の女性が渡っていますが、左の人は肩車で、真ん中の人は平輦台(ひられんだい)に駕籠を載せた状態で、右の人は平輦台にじかに座るという、三者三様の方法で渡っています。
詳しく見ましょう。府中安倍川広重部分

輦台に駕籠を載せて運んでもらうと、4人で運ぶことになりますから運賃は4人分を支払わなくちゃならない。
だがそれは客の身分などで定まる事です。それぞれの身分に応じて支払えばいい事です。現在でも新幹線に乗るのにグリーン車指定席の切符を買う人もいますし、ワタクシのようにジパングの自由席で安いキップを買うという方法もあるのです。

東海道名所図会(寛政九年)には「此河大井川に双びて歩(かち)渡りの大河也。満水の時は河止めありて旅人の難とす」ですが、泉光院は自分の足で歩いて渡りました。

安倍川を渡る前に昔は「府中」と呼ばれたいまの静岡市のことをちょっと見ておきましょう。
ここは登呂遺跡で知られるように、3000年も前から文化の進んだ農耕集落があり、早くからこの地に國府も置かれました。戦国時代には今川・武田と領主が代わり、その後徳川家康がここを領して駿府城を築いていまの静岡市の基礎を築きました。

現在の地図の上に江戸時代後期の東海道を朱線で引いておきました。
安倍川付近地図l


安倍川を渡る前に、昔は「府中」と呼ばれたいまの静岡市をちょっと見ておきましょう。
東海道は、駿府城跡にある静岡県庁前の道から一本西に入った呉服町通りの「札の辻」、そこには高札場があって、そこから道は西のほう、安倍川に向かうのですが、途中、「二丁町」という妓楼の建ち並ぶ場所があった。右は廣重の「人物東海道 府中」。
二丁町入口の大門です。府中二丁町広重

地図に二丁町の場所は入れておきましたが少し見にくいようですね。『羈旅漫録』という明治初年に出版されたガイドブックには、「駿河府中の妓院は二丁町とよびなす。本名は安倍川町なり」とあります。
江戸の吉原と同じように大門があって、大門の所で馬に乗ってきた客に「むらいち」という名前の入った提灯を下げた女が声をかけている(むらいち というのは、この画集を出版した江戸の本屋、村市です。出版社の宣伝もシッカリ描き込んでいます)。

『東海道膝栗毛』の弥次サン・喜多サンは、沼津の宿で護摩の灰(ごまのはい、スリ・こそ泥の類です)にお金を盗まれて、ここまで苦労をしてやってきて、弥次サンの知り合いの所で借金をして、金の入ったとたん気が大きくなって、「なんでもこよひは、かねてききおよびし、あべ川丁へしけこまん」、こういう所へしけ込もうとするのです。旅籠の亭主は、そこへ行くには二十四・五丁(3kmほど)あるから、と言って馬を勧めているから、いまの感覚でいえば静岡の駅前からタクシーに乗って行く感じでしょうか。弥次サン・喜多サンは二丁町=あべ川町へ行って妓女を買うのです。

弥次・喜多兩人は…爰にて馬を下り廓に入て見るに両側に軒を並べて、ひきたつるすががきの音賑しく(注・三味線を弾いている音が聞こえているのです)見せ(店)つきのおもむきは東都の吉原町にほぼ似たり。…の各店を眺めながら入る店を物色して、ここの揚代は…壱分と拾匁と貳朱だげな…といい、通常の宿場町の飯盛女の料金(だいたい500文くらい、一日の日当程度)より少々高いのを承知で、銀拾匁のほうにしようかな、などと考えるのです。そして店に上がると文政二年刊の『旅枕五十三次』によると、「宿々のめしもりとは又かくべつにて、けんしきもありて廓の作法もただしく、遊女も皆おとなしき風にて、客をたいせつに手あてよく…」と客を喜ばせたのでした。太平洋戦争のあとではこういうお店は法律上ではなくなってしまいました。
ワタクシがこの二丁町という場所に行ったのは、駒形通五丁目と名前を変えたその町の、静岡県工業試験所という通産省(当時の名称、、現在は経産省)の事務所があって、ワタクシの勤め先の会社の仕事で、当時ワタクシが開発した流量計(工場の排水量を計測するための測定器)の「検定」を受けるために出かけたのでした。そしてこの建物の裏手に「静岡雙街記念之碑」という、かっては三弦の音賑やかだった町であった事を偲ばせていました(会社の出張で出かけてもちょっとした時間があればこういうのを見落とさずに確認してくるyorickでした)。

二丁町の大門(のあった碑の所)の前を過ぎると安倍川のほとりに出て、この号のトップに載せた廣重版画「府中 安倍川」の風景になるのだが、川岸に「石部屋 せきべや」というお店があります。(駐車場は店の右手奥、2台分ほどしかありませんがいつも空いています)石部屋店舗
『東海道名所図会』(寛政九年刊)には「東川端を彌勒茶屋とて安倍川餅の名物也」で、このあたりに安倍川餅を食べさせるお店は数件あったらしいのだが、いまはこの石部屋一軒だけしかありません。

デパートや新幹線の車内販売では立派な箱詰めの物を売っているのだが、石部屋ではこのお店の中で出してくれるのを食べるだけです。石部屋安倍川餅
店内には有名人(シッカリ覚えているのは黒柳徹子だが他にも大勢)の色紙が掲げてあります。それらを見ているうちに出来たての安倍川餅が運ばれてきます。きな粉、漉餡のと、わさび醤油をつけて食べるからみ餅の3種があります。昔は一人前五文だったから、「安倍川の五文取り」といって、旅人はここで一休みして食べた。(平成のいまはたしか\500)。

安倍川餅を食べたら安倍川を渡るわけだが、昔はここから川原へ降りて歩いて渡った。
だが女の人にはやはり無理だったようで、始めの方に大きくのせたように、肩車、輦台などに乗って渡りました。男は普通ジャブジャブ歩いて渡りました。
泉光院も…安倍川と云ふを歩行渡る…でした。

川を歩いて渡るとどうしても少し下流に流されるようで、渡った先はいまの安倍川橋の所よりも50mほど下流に着いた。そこは手越の里という所で、『平家物語 巻十』には、捕らえられた公達(きんだち)重衡が、鎌倉の源頼朝の所へ護送される途中、ここで長者の娘 千手前(せんじゅのまえ)との間の恋の物語、というのがあって、どうも恋物語を書くのが苦手なyorickなので省略しますが、あとで重衡が殺された事を聞いた千手前は彼に殉じてここで自害して果てたとも、信濃の善光寺へ行って菩提を弔って尼になったとも伝えているようです。

廣重「東海道五十三次之内 鞠子 名物茶店」
鞠子名物茶店東海道五十三次之内


昔は「鞠子」とも書いた「丸子(まりこ)」の宿はひじょうに古くから驛舎だったところで、…文治五年(1189)十月手越平太、鎌倉に訴て此所を驛舎にせん事を願ふ。頼朝許して散位親能に命じ内屋(うつのや)沙汰人等奉行して驛舎となる。…宿場でした。
『旅枕五十三次』という文政頃の旅行ガイドブックには、「此宿には飯盛女(=遊女・売女)なければ…」と断っていたけれども、たとえ飯盛女がいなくてもこの宿場が有名になったのは、『諸國道中袖鏡』(天保十年・1839刊)というガイドブックに、「この宿のはづれにとろろ汁有、名物也」と紹介されていたからです。

丁子屋という店が昭和46年に近くの古民家を移築して定番のとろろ汁を売り出しました。
鞠子丁子屋
これが「丁子屋」です。
とろろ汁セット

右は丁子屋のとろろ汁のセット。

泉光院も、…鞠子の驛花屋と云ふに宿す。當宿はとろろの名物とて蕉翁の句に、…鞠子の宿のトロゝ汁とあり、予も思ひ出して一句、
   味なくもトロゝに代へし冷やし汁
一興して臥す。…
丸子芭蕉句碑

松尾芭蕉もここでとろろ汁を食べて、…梅わかな まりこの宿のとろゝ汁 はせお…
の句を残していますから、泉光院も一句作ったのでした。
右は丁子屋の店先(入口右手)にある芭蕉句碑です。




鞠子名物茶店とろろ汁部分

左は廣重版画「鞠子」の店先部分です。

男が二人、縁台に腰を下ろしてとろろ汁を食べている。
廣重の、この保永堂版の画集が出版される少し前に、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が出版されているから、案外この二人は弥次サン喜多サン両名のつもりで描いているのかも知れない。
膝栗毛の両名は、とろろ汁を食べようと思って入ったのだが、店屋の亭主と女房がすり鉢とすりこぎの事で喧嘩を始めて、その仲裁に入った向かいのおかみさんも一緒になって喧嘩に巻き込まれ、三人ともおろしたとろろで体中がヌラヌラになってしまって、両名はとろろ汁を食いそこねて店を出る結末になっている。
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2017.07.25 (Tue)

泉光院の足跡 242 天の羽衣

清見寺に詣納経をすませた泉光院です。

…江尻宿より西に入り一里に一の宮あり、此村に入ると夜に入る故に同所の庵に宿す。今晩は此庵へ通夜念佛とて近所の者多く集まり、更くる迄念佛す。

駿河國の一の宮は富士宮の淺間神社です。泉光院は間違えている。
江尻宿(いまの静岡市清水区、というより、清水の次郎長のふるさと、といった方が分かりがいいのかな)の西一里にあるのは草薙神社。この神社は静岡県立美術館の近くにあるようなのだが、美術館は何度も行っているのに草薙神社は一度も行っていないので写真がないのです。
草薙神社には倭建命(ヤマトタケルノミコト=日本武尊)が祀られている。
彼が東征の時、賊にだまされて草原に火をつけられて焼き殺されそうになった時、持っていた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を刈って火をつけて、炎の方向を変えて助かった場所がこのあたりだという伝説です。
この剣は三種の神器の一つとして、現在は熱田神宮に納められているらしい。

江尻宿は港町。安倍川や藁科川が運んだ土砂が駿河湾に砂嘴をつくり、三保の松原となって白砂青松。それに囲まれて天然の良港となっています。
江尻三保遠望東海道五十三次之内
廣重「東海道五十三次之内 江尻 三保遠望」

日本平の東麓にある龍華寺境内から俯瞰した清水湊です。

眼下に清水湊の町並。
停泊している船の先、駿河湾に右手から中央に伸びている松林が三保の松原。

ここには羽衣伝説が伝えられている。
三保松原薪能

羽衣伝説は日本各地にあって、滋賀県の余呉湖や丹後峰山が古くから有名でしたが、近年は三保の松原が断然トップのようです。

天女が海水浴をしている間に羽衣を隠されてしまって、天界に戻る事ができず、里人の妻になってしまう物語として知られています。
天女が衣を掛けて、海水浴をしたという「衣掛けの松」(左)の前では、毎年十月、薪能で「羽衣」が奉納されます。

木村武山は屏風絵を描きました。
羽衣を返してもらった天女の絵です。


羽衣木村武山

このような伝説は世界各地にも残っていて、「白鳥処女伝説」といわれるものです。
ストーリーは、白鳥が水辺に降りてきて、天女の姿になって水浴をする。それを覗き見していて、美しさに虜になった男が衣を隠す。一羽の白鳥が飛び上がれなくなって、男の妻になる。子供を産み(幸いを残し)、衣を見つけて天に帰る。…というのが一般的な白鳥伝説です。日本でもバリエーションがあって、近江国余呉湖では8羽の白鳥のうち1羽が捕まるようです。三保の場合は男の妻にならずに天女の舞を見せるという幸せと引き替えにすぐ衣を返してもらって空高く舞い上がる、というものです。前掲の木村武山の絵はこっちの方の物語ですね。

日本平の片隅、久能山(216m)には今から1400年も前の推古天皇の時代の創建とされる久能寺があった。
当時から由緒のあるお寺だったのだが、永禄十一年(1568)、今川氏眞を破って駿河に進出した武田信玄は、久能寺を山の麓の鉄舟寺に移して、東海道と駿河湾を一望できる久能山の頂に城郭を構え、山国生まれの信玄は念願の海を始めて手中にできました。そうして伊勢の海賊共を手下に組み込んで強力な海軍を編成したのでした。ところが武田信玄は織田信長と雌雄を決するまえに病没してしまって、折角の海軍も役にたたず、久能山も主を失ってしまいました。久能山東照宮唐門

時は移り、江戸時代となり、元和二年(1616)、徳川家康が駿府で死ぬと、その亡骸は遺言通り直ちに駿府城から久能山に移されて埋葬されました。
久能山に詣でた二代将軍秀忠はここに社の建設を命じ、朝廷からは「東照大権現」の神名を頂き、この地は徳川家康を「神様」として祀る「久能山東照宮」とされたのでした。
右がその唐門と拝殿。

左は表参道の石段です。17曲り1158段(正しくは1159段です)の石段です。
久能山東照宮石段

そんなに登るのは嫌だという人は日本平からロープウエイがあります。日本平は国道1号線から車で簡単に登る事が出来ます。


【訂正です。ちから姫さまから石段の数、1159段(いちいちごくろうさん)と覚えてきました、というご指摘がありました。ワタクシの座右の書、今井金吾の著書「今昔東海道独案内」にも{十七曲一一五九段}と書いてありました。参考書も持ちながら誤記をするなんてヨリックもボケましたねぇ。ちから姫さま、ご指摘ありがとうございました。】
一周忌の時、家康の遺骸は日光に移されましたが、いまもこの本殿裏手の石段の上に家康廟があって、いつも西国大名の動向を気にしていた彼の意思を表すように西に面して建ててあるのだそうです。
社殿の構造は日光東照宮とよく似ています。
日光東照宮のことはNo.157日光山内から、No,158日光・陽明門、No.159日光・東照宮本殿、No.160日光二荒山神社、No.161日光輪王寺大猷院、No.162日光・瀧尾神社の項で詳しく書いておきました。
久能山東照宮本殿内部
左は本殿の内部。
漆塗りの扉の内部が神殿。
久能山東照宮家康廟

右が廟。これも日光東照宮とほぼ同じです。






山を下って東海道へ戻れば家康最期の地、駿府城はすぐ近くです。

泉光院は久能山東照宮まで登らないですぐ府中、いまの静岡市の方へ行きました。

…夫より淺間明神に詣納經。當社は家康公當居城の時の鎮主也。因て大公儀御修補の地也。…
静岡浅間神社

右は賤機山の麓にある静岡淺間神社の「大拝殿」。
二階をこんな風に乗っけた造りは「淺間造り:といいます。

…樓門外圍ひ四丁四方、石段の上に玉垣、三十三間の回廊、拝殿八間四面、其上に閣あり、皆赤銅葺、惣體は極朱塗、垂木組物は極彩色、御殿二社あり當國の大社也。日光に少々似たり。

泉光院が書いている通りとても大きな神社です。26棟の社殿が國重文指定となっているほか、多くの文化財も持っているらしいです。

…夫より御城一見、平地廻り半道計り、外に堀あり、高石垣計り、追手南向、町數多し。…
駿府城巽櫓
左が平成元年(1989)再建の駿府城・巽櫓。
城跡は静岡県庁の裏手の所、かなり広い敷地が駿府公園となっています。

家康は隠居して「大御所」となってここを居城と定め、その威光を示すように5層7階の天守閣を建てて、金・銀・銅・白鑞で飾ったので、あまりのきらびやかさに、駿河湾に魚が寄りつかなくなったという伝説さえ生んだ。だがこの御城はたびたび火災に見舞われて、江戸末期には城内が狸や狐のすみかになるほど荒廃した。そして明治4年、廃藩置県で廃城となり、城内のすべての建物は破却され、堀も埋めたてて陸軍の兵舎が建った。
いまわずかに上の写真の部分だけが御城の面影を偲ばせています。

御城を見に行きましたが、この頃はすでにある程度荒廃していたのだろうか、
…外に垣あり、高石垣計り、追手南向、町數多し。…
の情況でした。
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2017.07.15 (Sat)

日記 2017年7月

1日 土 1010hPa 晴 昨日が夏越大祓だったのだが風邪で行けなかった。
松尾神社夏越大祓
松尾神社夏越大祓茅の輪

ぜひ行かなくっちゃ、というわけで多少の無理を承知で松尾神社へ行きました。
はじめて茅の輪くぐりをしたのは、横山サンと近江の國を廻ったときたまたま日牟禮八幡宮で。ここの茅の輪は素晴らしく大きくて、かなり有名なようです。今ワタクシの手元の道路地図1/10,000にも日牟禮八幡宮のところに茅の輪めぐりと朱字で入っておりますから。
横山サンはワタクシに左・右・左、と廻るのだ、と教えてくれた。ワタクシの住む町で古くから茅の輪めぐりをしているのはこの松尾神社。祭神は大山咋神・嚴嶋姫神・徳川家康命で、相殿に天神地祇神・猿田彦神・素盞嗚神・大國主神・少名彦神・月読神・・・とあった。種々雑多な神様たちが同居している感じです。
熱は(20時過ぎ)ほぼ平熱に戻ったようでした。39℃オーバーだったときはかなり応えて、お酒も飲めないような情況だったのでしたが、今夜はいまから少々飲みましょう。
メールをチェックしたら、hiroサンがワタクシの容態を気遣ったメールが入っていました。ご安心ください。大丈夫ですよ。
2日 日 1010hPa  晴。少々買い物。無事。熱は下がったのだがまだ体調は復旧に至ってはいません。
3日 月 1006hPa 晴。 今日も医者へ行く。平熱。まだ咳と鼻水は止まらない。前回貰った薬の内、ロキソニン錠がやめになって、ピーエイ配合錠という風邪薬が代わりに入った。
4日 火 1002hPa いま19時30分。台風3号がワタクシの家の南西60kmを時速60kmで北東に進行中とニュースが伝えています。では20時30分にはどうなるでしょうか。だが今の所雨も降らず風も吹かず静かなもんです。そして20時30分になりました。外では雨が少しばかり降っているようです。間もなく雨はやむでしょう。
5日 水 1004hPa 晴 一日中家から一歩も外へ出なかった。こんな日は珍しい。
昨夜から山口・島根、今日になって福岡・佐賀・大分が大雨。レーダー画像を見ていると降っている場所が動かない。なぜ?
6日 木 1005hPa 晴 日本が亜熱帯気候になったような気がする。異常な気候。
7日 金 1006hPa 晴 Paoで珈琲。
8日 土 1006hPa 晴 「古事記」講座。中つ巻の最後、応神天皇。下つ巻、仁徳天皇。
小学校の頃の修身の授業で、仁徳天皇が民の竈に煙の立たぬのを見て3年間税金を取らなかった、という話が始めの方に出てくる。
9日 日 ◯ 小暑 1007hPa 曇 無事。
10日 月 1008hPa 曇→晴。ワルツで珈琲豆をいつもの通り。ポイントがたくさんたまっているので紅茶も買う。近日中に珠美サンに木賊を見せてあげようと思うのでその時にそれも。Paoで今日初めてアイスコーヒーというのを飲みました。カップ一杯の氷の中にコーヒーを注いだだけ(確かにアイス+コーヒーでしたけれども)です。意外にいいものだナと思いました。途中で甘い液体(黒蜜?)を入れてくれたのがとてもおいしくてヨカッタ。
哲子サンからお中元でモロゾフのプリンセットをいただく。哲子サンモロゾフプリンお中元
Telをして久しぶりに声を聴いた。まだコーラスをやっているのでいい声です。いつも日本橋三越から送付。わざわざあそこまで行くらしい。電話だけで注文しているのかと思っていた。失礼しました。
11日 火 1008hPa 晴
7月11日かき氷
金澤行のキップを買い、暑いのでかき氷。
まず最初はイチゴ。\200でこれだけ食べられる。
お店の人はもうそろそろ来る頃だろうと思って待っていたそうです。



12日 水 1008hPa 晴 Paoで珈琲。塩崎サンが来て、先日のフェリーチェコンサートの写真で、いつもの例の品物を頂きました。ありがとうございます。
金澤、西福寺へ持って行くメロンを鹿谷町の八百屋で(\3600)もらって帰る。西福寺ではこのメロンが楽しみ、ということなので毎年欠かさず持って行く。南図書館でNobサンに逢う。
夜のFMラジオでモーツアルトのレクイエムを聞きました。演奏はガブリエル・コンソート。モツレク1RequiemAllegro4
先月18日に浜松古楽アンサンブルのコンサートとモーツアルトのレクイエムの演奏会が重なったので、hiroサンにモツレクを聞きに行ってもらったのでした。
ラジオで聞くので楽譜を見ながら(そしてお酒を呑みながら)モーツアルトのレクイエムを聞いているのはなかなかいいものです。右の楽譜は第1曲、Requiemの後半、AllegroでKyrie eleison,を歌いだす所。バスから歌い始めてすぐアルトが追っかける。なかなか気持ちのいい部分です。ヘンデルのメサイアとか、このモツレクは聞いているよりも自分で歌うのが楽しい。
13日 木 1008hPa 雨→曇 静岡方面でも豪雨があったようだ。
金沢行きのために必要な物を買う。吉野サン、丹む子サンに連絡。
14日 金 金澤・西福寺、須弥壇収骨盂蘭盆法要。2時。
金沢着11h50m頃。西福寺の前の住職の奥さん、もう90歳はこえていらっしゃるでしょうに去年よりも若返っているようにお元気だった。森八へ行って金澤銘菓をいつもの方に送り、お寺へ戻って法要。これもいつものように觀無量壽經。恩(めぐむ)チャンの説教は女偏の文字のいろいろで女の一生のお話。
西福寺恩サン説教西福寺きりこ


こうして写真に写すと、恩チャンなどというのも憚られるわけだが、ワタクシが始めて西福寺へ行った時は恩チャンはまだ小学生だった。今では立派な「ゴンゲンサン」になられたようだ。
いつものようにキリコをあげた。
吉野サン宅へ行って昔の事など思い出話を少々。
食事はKKRで豪華なのを食べた。値段も豪華。
写真を幾つか載せておきます。
KKRお献立7月14日

箸付の玉蜀黍豆腐、前菜は茗荷鮓・枇杷薩摩芋・蝸牛・桜桃大根・白瓜雷干し・沢蟹艶煮・青楓チーズといった物、椀が蒸し雲丹・海老・蓴菜、といったもの。揚げ物は鮎の天麩羅を能登鹽で食べる、骨も別に焼いて出ている。
KKR箸付前菜椀KKR鮎の天婦羅酢橘


暮れなずむ庭園を見ながら豪華お食事はなかなかなものでした。

左が前菜etc.
左手前に沢蟹が一匹見えます。

右が鮎の天麩羅。
KKR庭園夕暮れ
お酒は金澤小立野の造り酒屋のを冷と燗でもらって出てくる料理に合わせて吞んだ。
庭園はビルの中なのでこの程度のものしか出来ないのだが水をたくさん使っているので気持ちがいい。
バーにも立ち寄ったのだが印象はよくなかった。


15日 土 晴。近江町市場へ行ってドジョウの蒲焼きをかなりたくさん買ってしまった。今は一本\120もするのだ!その後驛の売店でお土産いろいろ。
予定を11時と言っておいたので丹む子サンのところへ行きました。窪三丁目というと満願寺山の麓のような場所。こんなところまで住宅地になってしまったのだ。
中條サンの遺影にお詣りをして、書斎を見せてもらった。丹む子サンの言うように膨大な書籍の量ですが、ワタクシの持っている本と実によく一致している事に驚いた。音響装置もかなり立派で、真空管アンプもあった。あれは多分KT88という真空管のプッシュプルのアンプだ。ワタクシは2A3という真空管のシングルでアンプを作ったのだが今はもうなくなってしまった。レコードの量も相当たくさん。以前横山サンの所にあった「放浪藝」関係のレコードも全部ここに納まっていた。
丹む子サンはワタクシのためにずいぶん豪華なお寿司を取って下さった。ありがとうございます。丹む子サンが石川県立第二高等女学校(いまの21世紀美術館の場所)の隅っこにあった金沢大学の女子寮にいたとき、中條サンは北陸女学校の近くのYMCAの所にあった進学塾の講師をしていた時代なので、そんな頃に出逢ったのらしい。もっとゆっくりしていないと彼と彼女の思い出話は語り尽くせないであろう。来年もし生きながらえていたらまた丹む子サンを訪ねて見ましょう。
14時48分金沢発しらさぎ12号で帰りました。
16日 日 1009hPa 晴 珠美サンにお土産千歳をお渡しした。新茶とゼリー(らしい)を頂いた。
ヨーコチャンから℡。元気な声でした。この人もまだ歌を歌っているのでしょう。
17日 月 晴 Nobサン宅でお母さんにどぜう蒲焼etcをお渡ししてからPao へ行き、塩崎サンの分を預かってもらう..
hiroサンにほんのちょっとだけだけれども金澤のお菓子。
18日 火 1008hPa Paoで珈琲。
19日 水 1007hPa 晴 梅雨が明けたと気象庁。気持ち風が乾いているようだ。だが今日は歩きに行かなかった。Nob
サンからメール。
20日 木 1008hPa 晴 えり子サン体調が悪いので明日は閉店とのこと。お大事に。
21日 金 1009hPa 晴 Nobサンから手造り紫蘇ジュースと「阿波の国和三盆ポルポローネ」というお菓子を頂く。Nobしそジュース

Nob阿波ポルポローネ
徳島の大塚美術館へ行ったお土産です。
この美術館は世界の名画を陶板で複製・展示してあることで有名です。
システィナ礼拝堂、そのたありとあらゆる名画の複製を見ることができるそうで、とても一日では全部を見ることができない!のだそうです。
右の美しいのはNobサン手造り紫蘇ジュースをロンドンのビーフィーターというジンで割って氷水でを入れて作ったカクテル。色が綺麗ですねぇ。
22日 土 1009hPa 晴 気候が以前(たぶん半世紀以前)とはだいぶ変わってきているように思われる。気象庁の職員サンは皆さん若いからわからないだろうけれども、ワタクシのような年寄りにははっきり感じられる。
23日 日 ● 大暑 1009hPa 晴 暑いですねぇ。野田泉光院の足も清水湊のあたりでストップしてしまった。いつになったら動けることやら。加賀棒茶野田屋
24日 月 1006hPa 曇/晴 暑いときに、冷凍庫に入っている小豆アイスを取り出して齧りたくなるのだが、思い切ってお茶を沸かすことにしました。
先日金澤へ行ったとき、竪町の野田屋で右の「加賀棒茶」を買ってきたのです。棒茶というのは焙茶(ほうじちゃ)の一種で、素材は「葉」ではなくて「茎」。
昭和天皇が昭和58年に来訪されて、湯涌温泉のホテルにご宿泊の際、ホテルから「旨い焙茶を」という注文があって、その折献上したのがこの「加賀棒茶」。このお茶には、ブランドも、作法も、美意識も何もありません。普段の飲物として適当に飲めば宜しい。至って簡単。熱さで暑さを制する趣。
25日 火 1004hPa 晴/曇
モグさん暑中見舞




moguサンから暑中お見舞いをいただきました。この絵は藤城清治サンの絵のようですね。
moguサンもお元気で暑い夏をのりきってください。



26日 水 1004hPa 曇/晴 Paoへ行ってかき氷を梅シロップで。塩崎サンが来ていた。
27日 木 1005hPa 曇 後期高齢者健康診断・木村内科。
胸部レントゲンは一昨年、昨年などと比較して格段変わったところはなくてOK。尿蛋白は少々出ているがこれも一昨年、昨年と同様。尿糖は出ていない。心電図も良好。心拍数は60p/minで問題なし。血圧は、140/80程度。少々高いけれども最近ずっと高血圧治療薬であるディオバンという薬は飲んでいないのでこの程度ならマアマアであろう。血液検査の結果は1週間あとに出る予定。
右は木村内科の前の家が祀っている「三組地藏」。三組地蔵

ワタクシの家から100mほど南のお宅です。
いつもはこんな大きな旗など立ててないし、お花もめったにあがっていないのだが、今日はこのお地蔵さんのお祀りの日なのだろうか。このお宅の庭に木賊(とくさ)が生えているので、先日少々分けていただいた。
木賊の生えている家
木賊の生えている家というのは珍しい。
左が生えている木賊。

夜の食事に鰻を食べた。
土用丑の日は2日前の25日だったのだがいろいろ都合で今日になってしまった。
ウナギで思い出すのは万葉集巻十六、大伴家持で、
  痩人を嗤ううた 二首

 石麻呂に我物申す夏痩せに
   良しといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ

 痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた
   むなぎを捕ると川に流るな

このうたが合唱曲に作曲されて、金澤合唱團の定期演奏会で歌ったことがある。
ハタチの頃だったワタクシはいまと違ってかなり痩せていたのだったが、貧乏で、鰻など食べられる情況ではなかった。今日、鰻を食べながらこの歌を思い出しています。
28日 金 1006hPa 曇 Paoでアイス珈琲。えり子サンと、サイモンとガーファンクルの歌っている「スカーボロフェア」、何度も何度もパセリとセージとローズマリーとタイム、という香草、ハーブの名前が繰返されたり、縫い目のないシャツを作るひと、それがShe once was a true love of mine.だったりといったことが話題になった。イギリスの古い歌や子供の歌、なぞなぞのような歌詞のあることなどの話題。
29日 土 1006hPa 曇/晴 無事。
30日 日 1005hPa 曇/晴 ワルツで珈琲豆を買う。いつもと同じ。今日はポイント5倍デーだというので、一挙に1000ポイントを超えたとの事。紅茶を買うときの足しにしましょう。
31日 月 1006hPa 晴 浜松市周辺では、7月1日から31日迄、毎日の最高気温が30℃をこえている、つまり一ヶ月連続で真夏日だったという。
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