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2017.05.26 (Fri)

泉光院の足跡 233 佐土原江戸用船

伊豆國へ入った泉光院は、先ず東海岸を歩いて先端の石廊崎まで行き、そこから山を越えて下田街道、伊豆の踊子コースで修善寺、三島、という具合に歩きます。
伊豆半島衛星画像
伊豆半島というのは右の衛星画像の左下にあるのがそうで、右の島が伊豆大島です。
地学の講義をするつもりはないのだが、この半島は日本の本州のほかの部分とはちょっと違っていて、フィリピン海プレートの上に乗っていた「古伊豆半島」という島が、1年に4㌢ずつ近づいてきて本州に衝突して今のようにくっついたのです。


プレート日本付近2次元
日本列島は、左の図のように北半分が北米プレート(異説もあります)、西半分がユーラシアプレートの上に乗っかっていて、その境目が、糸魚川静岡構造線(フォッサマグナ・大きな溝という意味のラテン語、とも言います)です。
ここの所に割り込むようにフィリピン海プレートが古伊豆半島の島を乗せて日本列島の中に潜り込むように侵入して、今のように伊豆半島になったのが200万年程前の事だと言います。プレート3次元
大きな地面がぶつかって潜り込むのだから、その摩擦熱で富士山や箱根火山が出来ましたし、今も潜り込んでいるのだから伊豆や箱根にはいい温泉が湧き出ているし、そのうち東海地震や東南海地震が起きるだろうと言われているのです。
右の図はその三次元模式図。

十国峠から日金山東光寺へ下って、お詣りをしてその晩は近くの地藏堂で泊まった泉光院は、

十九日 晴天。坂中地藏堂立、辰の刻。又十八丁下り伊豆權現へ詣納經す。八州総社と云ふ額あり。…

伊豆山神社
急な坂を下って伊豆山神社へ来ました。
ここは伊豆に流された源頼朝が北條政子とデートしたという噂で、境内には二人の「腰掛石」などというものもありますがそれは後世の作り話。

日金山は前にも書いたように死者の霊が集まる場所として信仰を集めていたのだが、ある時海岸に鏡が一つ流れ着き、それを神鏡として日金山に祀った所、鏡の流れ着いた場所から温泉が湧いた。それが熱海の走湯(はしりゆ)だというのです。
伊豆山神社走湯権現
この温泉を信仰の核にして走湯(そうとう)權現(右)を祀ったのが伊豆山神社です。
源頼朝はこの伊豆山神社と箱根神社、三嶋大社を三所詣りとして大勢の部下を連れてたびたび参詣しています。
江戸時代になると、小田原藩は熱海の温泉を接待の場所として利用するようになり、徳川家康も招待されているようです。
さらに明治になると読売新聞に『金色夜叉』という小説が連載になって、熱海の海岸を♪貫一お宮の二人連れ♪が散歩をしたり蹴飛ばしたりする舞台になってたいそう有名になりました。貫一お宮銅像
熱海の海岸を散歩をするとこの像はすぐに目につきますから。
だがこの像は外国人観光客にはかなり不人気なようです。何しろ男が足駄履きで女を蹴飛ばしているのですから。
間(はざま)貫一と鴫澤お宮の関係がここに至るようになるまでの長い長い物語を説明しても外国人にはなかなか分かって貰えないようです。

…夫より熱海と云ふに峠を越へて行く。此處市中に湯湧き出る所あり、廻り十四五間に垣あり、其内に大石あり、其下より湯を吹き出す。其勢大瀧の落るが如く、其音大雷よりも高し。惣じて湯の湧き出ること日に二三度、夜一二度也。朝六つ時、四つ時、八つ時、夜も同斷也。湧出でざる間には水も出ず小石原となれり、多くの子虫出であさる也。又湧出る時には土中に遠雷の如き音あり、段々音高くなればそろそろと湯湧き出る。又休み日とて湯の湧出ざる日あり、一ヶ月一日宛月の十五日か十六日にあり。此時は前夜湧續きて暫くも止まずに出る、此湯の流れを六七軒にて分配し入湯人入湯す。…

右は「自噴泉」。熱海自噴泉
昔は泉光院の書いているように本当に自噴泉だったのだが現在はポンプ仕掛けか何かで観光用に吹き上げているようだ。泉光院はこの自噴泉の事などたくさん書いているのに、自分は入湯をせずに素通りをして次に行っているのです。

…夫より上多賀村と云ふに峠を越して下り藤右衛門と云ふに宿す。夜に入り近所の者共多く集まり、其内には盲僧盲女もありて何ぞ話せよと云ふに付、世上話は平四郎に譲れり、然る處是非吾にも話せよと云ふ、眠さはねむし據なく話す。先づ各々方は話聞かんとして御出で、何が聞くぞ、又爰へ來れる身體は何が歩行させじぞ、其の聞かんと思召すものは何が思はするぞ、先づ此事を聞いてより話し申さると云へば、聞くは耳也、歩行は足也など一切分からざる故、先づ人間の始まり天の一理よりして、五倫五常、大學三綱領三歳に漏れざる心性皆々話し聞かすれば恐れをなして居られたり。

熱海から山を越えて多賀村へ入り、藤右衛門サン宅で泊めてもらった。村の庄屋さんのようなお宅だったのでしょう。村人が大勢集まってきて話を聞きたがる。
泉光院は面倒くさいので、孔孟の學、人は何のために生きるかなど哲学を喋る。
村人達はそんな話を聞きに来たのではないのです。日本中をくまなく歩いてきた修験行者から面白く珍しい話を聞きに来ただけなのに。

二十日 晴天。多賀村立、辰の刻。網代と云ふ獵場へ托鉢しに行く、夫より二里の峠を越へウサミと云ふ村へ下り庄右衛門と云ふ宅へ宿す。
廿一日 晴天。當村晝過ぎ迄托鉢、伊東と云ふ村へ行き一宿、當所伊東と云ふは日向國飫肥の領主今の伊東氏本國城下の跡也。東林禪寺と云ふ菩提寺今にあり詣づ。年々代參あり。當所にも温泉三ヶ所あり入湯。
伊東東林寺
伊東という所は曾我兄弟の仇討ちに登場する伊東祐親(すけちか・曾我兄弟の祖父)の領分だった場所だが、江戸時代の伊東氏は宮崎県の飫肥の領主(泉光院時代の殿様は伊東祐福、51,000石)になっていた。右は東林寺。伊東氏の菩提寺だから毎年代理の人が飫肥からお墓参りにくるのを泉光院も知っていたのでお詣りをした。
伊東祐親は伊豆に配流された源頼朝の保護観察をする役目を平家から任されていました。しかしいつの間にか祐親の娘八重姫と頼朝は仲良くなってしまって、千鶴丸という子供を作ってしまった。それを知った祐親は平家の怒りを恐れて(つまり監督不行届の責任でしょうか)千鶴丸を殺して頼朝をも暗殺しようとしたので事前に察知した頼朝は北条時政の館へ逃げて、今度はそこの政子と一緒になってしまう、というような出来事があるのですが、そのことはさておいて、伊東市では祐親を英雄扱いにして、毎年5月の末頃の土日に「伊東祐親祭」というのをやっています。
伊東市の東の地下では微少群発地震がよく発生する所で、その所為だろうか温泉がたくさん湧き出ています。泉光院の頃は…温泉三ヶ所あり…だった源泉が今は800ヶ所もあり、市中にはうんと安く入れる(\170~\200)共同浴場が10軒あります。
とりあえず大黒天とか、寿老人、福録天、辨財天など七福神の名前の付いたのを捜せばいいです。
今井浜温泉露天風呂
下田へ行くまでは大したことをしていません。ときどき平四郎と仲違いをするらしくて、…平四郎は別宅したり。…とか、…平四郎昨夜は別宅せしかど今夜は予が旅宿へ來れり。…など、別々の家に泊めて貰たりしている。
伊東から、北川(ほっかわ)村、稲取村、河津町の見高村や縄地村など、ほんの少しずつ移動してお泊まりを重ねています。

左は今井浜の露天風呂。いいですねぇ。入りたくなりますねぇ。

「静岡妖怪譚」という本を見ていたら、稲取に八百姫さまがいらっしゃる事を発見しました。
八百姫東伊豆町稲取
八百比丘尼神社東伊豆稲取
右が東伊豆町稲取の八百姫神社と、八百姫さま。
八百姫さまのことは、「No.069 八百姫」の項で詳しく書いておきましたが、若狭國遠敷郡小浜にいた人で、ある時父親が土産に持ってきた人魚の肉を食べて、若さと美貌を保ったまま800歳まで生きたのです。
日本各地をめぐり巡って、道を開き、橋を架け、堂社を作り、五穀樹木の繁殖を教え、人の病を治し、貧しい人を助け、人の守るべき五徳を教え、世の人々につくして歩いたのだと言います。ここ稲取の八百姫サンは、民俗学者柳田国男の高弟である折口信夫がここを訪れた時発見して、氏の代表的な著書『古代研究』国文学編の中に、昭和初期に写した写真とともに紹介してあるそうです。

廿九日 晴天。上野村立、辰の刻。柿崎浦と云ふに出づ、此所は伊豆の下田とて江戸廻船入津んも所也。佐土原江戸用船問屋喜衛門と云ふ宅へ休息す、下田町通り湊浦繁七と云ふ宅に宿す。

佐土原藩は外様(とざま・関ヶ原の戦いの後に徳川家に服従した大名)の小藩(27,000石)でしたが、それでも大坂の中之島には蔵屋敷を持ち、江戸では「No.138佐土原藩上屋敷」 で書いたように三田に上屋敷を持ち、中屋敷・下屋敷も持っていました。佐土原藩用船

日向国佐土原と江戸はずいぶん離れているので、用船を七艘ばかり持っていたようです。だいたい400石から700石積の船です。
右は島津忠徹が主君であった頃の用船の絵。
白地に太い黒の中筋の入った帆と、紫地に白抜きの方喰(かたばみ・酢漿草)紋の幔幕をめぐらし、白地に紺色の轡紋(くつわ・丸に十の字の紋、島津家共通)の旗印を掲げて、佐土原から瀬戸内海を通って大坂へ、それから紀伊半島を廻って東海道沖を東進して伊豆から江戸へ入りました。江戸の藩邸と佐土原の御城との間の貨物や連絡文書、必要に応じて人間も乗せる、メール便の役目をします。そして大坂の蔵屋敷、江戸の御屋敷の御用を勤めます。
途中の下関や鳥羽、伊豆の下田には藩指定の船問屋があって、泉光院は…佐土原江戸用船問屋喜衛門と云ふ宅へ休息…してから10kmほど石廊崎の方へ行ったところの…湊浦繁七と云ふ宅に…宿泊しました。

前に載せておいた八百姫サンの絵をのせておきます。       
小浜八百姫厨子大宮八百姫祠

左は福井県小浜の空印寺。八百比丘尼の御厨子に入っている像。
右は埼玉県にある八百姫大明神の祠。
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2017.05.21 (Sun)

泉光院の足跡 232 箱根峠

小田原から早川の左岸を辿って行くと、今の箱根登山鉄道・箱根湯本駅のちょっと手前に三枚橋があって、箱根峠道(の旧街道)はその橋を渡って芦ノ湖へと進むのだが、そのまま直進すると温泉道で、いろいろの温泉が湧いていた。
箱根広重常ヶ島温泉

左は廣重の「人物東海道・とうじば」と題された一枚。箱根七湯といって、1.湯本湯 2.塔ノ沢湯 3.常ヶ嶋湯 4.宮下湯 5.底倉湯 6.気賀湯 7.芦之湯、というのがあった。泉光院もきっとこれらの湯のどれかに入湯したでしょう。この温泉での一宿は、千里の道を歩いた疲れも一夜にしてとれる、と宣伝されたものです。左の絵では白糸の瀧が見えているので常ヶ嶋湯でありましょう。
右は廣重「東海道五十三次之内 箱根 湖水圖」。
廣重版画箱根湖水図

廣重の箱根湖水図は箱根の難所を強調するように切り立った峰々を誇張して描く。芦ノ湖へ向かって坂道を下って行く大名行列の姿が、山の間を頭だけを見せて歩いている様子も道の険しさをあらわしているようだ。

十八日 晴天。湯治場立、辰の刻。直ちに坂に掛る、…
箱根杉並木の道

右は旧東海道の杉並木です。
♪昼なお暗き杉の並木♪です。

疲れたら甘酒茶屋に寄って,砂糖や添加物を使わず昔通りの作り方で作った甘酒と、臼と杵で搗いた力餅を食べましょう。海苔を巻いたのが「いそべ」で、きな粉のが「安倍川」。昭和48年に通りがかりのハイカーが捨てたタバコで全焼したのだが、また復活して昔通りに売っている。
箱根甘酒茶屋箱根甘酒茶屋甘酒とお餅


この茶屋は赤穂義士の一人、神崎与五郎が、馬子の丑五郎に言いがかりをつけられたのだが、「大事の前の小事」、とこの茶屋で詫び証文を書いたという逸話のある店で、ということはかなり古くから開業していたのでしょう。
泉光院はどうやら立ち寄った形跡はありません。
箱根山から富士山秋

登りつめると芦ノ湖が見え、お天気がよければ富士山も見える。

…箱根權現へ詣納經す。本社南向、湖の岸也、花表前人家少々、夫より賽の河原と云ふを通り關所へ出づ。…

箱根芦ノ湖と鳥居

箱根神社の鳥居が見える。
古い案内書には芦ノ湖を、
「一名芦の湖(うみ)といふ。富士八湖の其一也。箱根の山嶺にあり。長さ三里許(ばかり)、幅壱里余。… 産物は鱒、腹赤(はらか)也、山椒魚は山中の谷川に生ず。小児五疳の妙薬に用ゆ。」と解説している。箱根山椒魚
ハコネサンショウウオ(右)は箱根に限らず全国の500m~2000m程の高さの谷川に住んでいて、金澤時代のワタクシがよく登った石川・富山の県境にある醫王山の三蛇ヶ瀧の下にも住んでいた。
胴よりも尻尾の方が1.5倍程も長く、スリムな体つきで、大きいのは20cm程にもなる。
黒焼きにしたものは、子供の疳の虫を抑えるのによく効く、といわれていて、上記の案内書にも書いてある通りだが、実はこれを生きたまま吞むと精力剤になる、とまことしやかに伝えられているのです。それも頭から吞まないとまた這い出てくる、などともっともらしく言われていた。みなさん聞き伝えのことを言うだけで,実際に吞んで効果を確認した人はいないようだった。
医王山大池から鳶岩


右はワタクシがよく登った醫王山、尾根の途中にある鳶ヶ岩で、左下からこの岩のテッペン迄登ってから向こうの尾根へと進みます。この岩の向こう側に三蛇ヶ瀧というのがあってそこの所にハコネサンショウウオがいるのでした。

医王山鳶ヶ岩金大合唱団
鳶ヶ岩のテッペン付近。写っているのは金沢大学合唱団の人たち。右は鳶が岩の下、大池。
医王山大池鳶岩から


箱根権現は古くから山岳修験の中心地であり、湖岸に朱塗りの大鳥居が立ち、そこから鬱蒼とした杉の並木の中を真っ直ぐに石段が上に伸びていて、その上に右のような社殿がある。左が門で右が御本殿。
箱根神社
箱根神社本殿



山伏である泉光院は当然ここにお詣りをしてから、賽の河原というのを通って御關所へ行きました。
箱根賽の河原

左が賽の河原。
芦ノ湖の畔にお地蔵さんや五輪塔などが立っています。
ここを過ぎればすぐ御關所です。

箱根お関所平成19年春

箱根関所は昭和40年に観光用として本来の場所から離れた所に「関所」を建てたのでしたが、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門(反射炉で有名なところ)宅から資料が発見されて、それを元に平成10年から発掘調査・復元をして、平成19年春、江戸時代の「御關所」が復元しました。左が復元間もない頃の御關所と付属の建物群。

箱根お関所復元
左が御關所。
そして前に建てた観光客用の関所は取り壊してしまった。

この關所はよく「入り鉄砲に出女」といわれているように、江戸への武器搬入と、江戸在住の大名の妻子が無断で國元へ行くことを禁止することで有名だった。
古い案内書には、
「御關所――小田原の城主勤番也。女人と武具は御證文なくては通さず。鑓持たせざる者は主人の手形、あるひは所の庄官の手形持参して通る。」、「明六つ御開門、暮六つしまる」と書いてあります。
ここへ来た泉光院は、…關所へ出づ。番衆口上、…と、関所役人とのやりとりを記録しているのでそれを書きましょう。泉光院は醍醐寺三寶院発行の通行手形を持っていて、これは権威のある通行手形なんですが、ここではそれが通用しなかったらしい。佐土原島津家の江戸屋敷事務局が発行して、宛先が箱根の御關所御役人様となっている手形の提示を要求されたのです。

…其方共江戸屋敷よりの引合差出すべしとありけり。吾々共は日本回國の行者、左様なる事は存知申さず、諸國通行の往來手形は所持致居候外はなんにも存知申さずと云へば江戸屋敷よりの引合無之(これなく)ては通ること罷りならず、又回國の者とても聞合せもある筈也と言はれければ一切左様なる事に氣も付申さず、且又江戸御屋敷と云ふも存知申さず、又屋敷共へ出る様な吾々共にても御座なく候と云へば、其方共は名は何と云ふと尋ねらる。私は一葉坊此者は合力助と申しますと云へば、先づ今日は内分にて罷り通す、重ねては決して罷り通すことはならぬと云ふて通されたり。

今度だけは通してやるけれども次回は絶対駄目だぞ、と言って通してくれた。
文化文政時代になると関所の取り調べもきびしい所やフリーパスの所もあったようです。
No.177 出切手 の項で、立山登山の帰りに越中と越後の境の関所を通る時、富山城下にあった加賀藩役所で、一人前80文の料金を取られて出切手をもらって提出したことや、No.186 象潟 の項で、出羽庄内、鶴岡城下を出る時、女鹿の関所でやはり一人前35文と、その向こうの藩、久保田藩の関所でまた35文取られた。そんなことを思い出して日記に注釈を付け加えているのです。

…此所も加賀の境川、出羽庄内鶴ヶ岡、當所と同様成る事にて切手ばかりにて往來手形也。當所錢の出ざる分がよかった。…
箱根関所通行手形

右は箱根御關所で通常取り扱っていた通行手形。
字が難しくって読めないのだが、一番頭に
…○○通行手形之事…と書いてあって、次にこの手形の所持人である武州(武藏國)何とか村の百姓らしい人の名前、
本文に入って、旅行目的が伊勢参宮であること、御關所御通行の許可を求めること、などが書いてあって、年月日、発行者氏名印(これは村の村長さんまたはそれ以上の人、菩提寺の住職など)。最後に相州(相模國)箱根御關所御役人○○様、となっている。
泉光院の持っている通行手形は、醍醐寺の権威でもって…この手形を所持している者は日本国中どこでも通行勝手たるべし、…と言うような内容の、幕府の権威を無視したような通行手形ではないかとワタクシは想像しているのです。
ここで面白いのは、泉光院が自分の主人である佐土原藩の名前も、佐土原島津家の殿様、島津忠徹の名前も出さず、自分は一葉坊という山伏であり、供をしているのは助という名前の荷物担ぎの人足にすぎないよ、という返事をしていて、役人もあまりしつこく追求はしないで、「今回は大目に見てやるけれども、次回からは決してこのような事は許さないよ。」といって通してくれた。境川の関所や女鹿の関所のようにお金を取られなくてヨカッタ、と書いているのが可笑しい。
彌次郎兵衛・喜多八の両名も箱根関を通る時、「夫より御關所を打過ぎて、…春風の手形をあけて君が代の戸ざゝぬ關を越ゆるめでたさ…斯く祝して峠の宿に悦びの酒酌み交わし…」ました。このように無事箱根の関所を越えると、山祝いと称してお互いにその困難を克服した事を祝うのでした。

泉光院はこれから先、東海道を三島の方に下らないでずっと伊豆半島を廻るのです。

…夫より宿を通り抜け辻堂あり、左山中へ入る、大峰奥駆けの道より少しはよし。三里行き日金の地藏と云ふに駈け出す。此地藏靈驗新たなるとて參詣多し、…

箱根峠の所は十字路になっていて、そこにコンビニがありますが、真っ直ぐ行けば国道1号線で三島、右へ曲がれば芦ノ湖スカイラインで、泉光院は左へ行きました。ずっと行くと十国峠。十国峠標識
たいそう景色のいいところです。展望は十国・五島に及ぶといいます。
伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・信濃・武蔵・安房・上総・下総の十国と大島・新島・神津島・三宅島・式根島の五島。
富士山がすぐ近くに見えます。
十国峠日金山東光寺標識
左の案内標識の一番下のは日金山東光寺を示しています。右の方へ下って行くとすぐ東光寺です。
十国峠真鶴方面展望

見下ろすと右、真鶴のあたりが見えます。ここを下れば東光寺。

伊豆では昔から死者の霊はみなこの日金山に集まる、といわれているのです。

日金山東光寺
日金山東光寺地蔵群

左が日金山東光寺で右がおびただしい地藏群。
春秋のお彼岸にこの山に登ると、通行人の中に逢いたい人の後ろ姿が見える、といい伝えられています。またこの山のどこかには地獄と極樂があって、お地蔵さんは地獄の辻にいて死者を極樂の方に導いてくれると信じられています。今もおびただしい地藏さんがこのお寺に奉納されているのです。
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2017.05.17 (Wed)

泉光院の足跡 231 道了薩埵

…未だ明き山にならざる故、吾々共登り得ず殘念也。…
で、大山の頂上、石尊大明神へ登ることが出来ず残念なまま
…夫より三十丁下り町あり、此道小田原本街道也。尾尻村と云ふにて日も入る故に、釋迦堂とて三階作り五間四面の堂あり此寺へ宿す。
十六日 曇天。尾尻村立、辰の刻。飯泉山坂東札所へ詣納經す。本堂七間四面、東向、二王門あり、前に茶屋三間あり、至て惡き地面也。…

今の小田急秦野駅の近くの尾尻村のお寺に泊めてもらって、翌日は坂東觀音札所第5番の飯泉山勝福寺へお詣りをしました。勝福寺金堂
このお寺は酒匂川のずっと河口近くの場所ですから、三角州の上、埋立をしたような地形だったのかも知れない。
勝福寺大公孫樹





右は本堂で、左は境内にある大公孫樹です。

これで坂東觀音札所33ヶ寺全部をすませました。

秩父の34ヶ寺はずっと先に全部済ませてありますから、箱根山の東にある觀音札所は残らずお詣りした事になります。

…夫より最乘寺と云ふに赴く、大川あり、堤を上る事二里にして道惡し。日も西山に傾きし故に川を渡り、塚原村と云ふに宿す。

酒匂川を堤防沿いに遡ってから、今の伊豆箱根鉄道大雄山線の塚原駅近くのどこかの農家あたりで泊めてもらったのかも知れない。そこからだと最乗寺まで一里ほどです。

十七日 同天。此宅へ笈頼み置き最乘寺へ詣づ。朝辰の上刻。最乘寺入口二王門あり、松杉の山中を上る事二十八丁にして道了權現へ詣づ。本社辰巳向、小社なれども美盡せり。御本體は大天狗にて石尊權現と同一體也。曹洞禪寺三ヶ寺、納經す。金印と云ふも當寺より出づ。…
最乗寺参道杉並木

大雄山最乗寺は曹洞宗のお寺ですが、寺内に道了薩埵(どうりょうさった)、つまり天狗さまを祀っております。

二王門をくぐると杉の大木が生い茂る参道をずっと歩いて登ります。120haの寺域全域が神奈川県指定天然記念物となっています。見事な森林です。
最乗寺杉の並木


道了は、師の了庵慧明禪師を助けて、五百人力を出してこのお寺の建設工事を行い、慧明が歿すると、道了は大薩埵(十一面観音菩薩の化身)となって、このお寺を守護しようと誓願をたてて、たちまち天狗の姿となって白狐に乗って虚空に舞い上がってその姿を消した。

最乗寺御真殿
最乗寺下駄

左は御眞殿という、道了薩埵を祀るお堂です。
その脇には天狗となった道了薩埵に捧げる下駄や羽団扇がたくさん奉納されております。

最乗寺特大の下駄

鉄筋コンクリ製の巨大な下駄も奉納されていて驚きます。

右は烏天狗となった道了薩埵の石像。最乗寺烏天狗石像

泉光院は、ここの天狗は雨降山(大山)の頂上に祀ってある石尊と同じものだ、と書いています。そうなのかも知れないし違うのかも知れない。単なる言い伝えです。
最乗寺開山堂

左は開山堂。

最乗寺多宝塔

右が多宝塔。






これが普通のお寺としての最乘寺です。

…又元の塚原村へ歸り直ちに立つ、小田原驛と云ふへ晝時出づ。御城山の手、追手南向、諸人知る所なれば略す。…

小田原へ着きました。
遠くに小田原城の三層の天守閣が見えます。
これは最近建てた御城の姿です。
小田原城藤の花

藤の花が咲いていますね。綺麗な御城の姿です。
小田原城天守閣









こちらは小田原城の天守閣。新しいものですから省略しましょう。

…當町にて面白きことあり、予兩替屋にて錢を買はんとて一歩(一分金の誤)を一つ出し候へば、右へ廻し左へ廻し、永々と爪繰り見る、因て其金惡しきやと云へば、惡しきにてはなし、裏へ紙の張付けある不審也と云ふ、予笑ひ出し夫れは目録の金也、紙に張付てありしを剥取りたる金也、夫れを水にて洗ひ取り見玉へと云ふ。場所と云ひ乍ら世上ものゝ分からざる者多し。…
天保一分金
両替屋で左の一分金を出して、錢と交換して貰った。きっと江戸の御屋敷を出る時に、殿様か奥方様から戴いたお初尾の包みに入っていたもので、落ちないように糊で紙に貼りつけてあったのだろう。両替屋としては両面ともシッカリ見定めるのが当然。紙が貼りつけてあるなんて可笑しい。泉光院の言い方はちょっと傲慢。
この写真はインターネットから見つけたもので、元禄時代の金貨。
文化の年代まではこれが流通していて、文政になって改鋳したのが流通するようになった。改鋳したものは金の含有量が少なくて粗悪。だが素人目には殆ど分からない。

…當所より鴫立澤一見に行く。…
鴫立庵西行

平安時代の歌人西行の、
  ♪心なき身にもあはれは知られけり鴫立澤の秋の夕暮れ
の歌で知られた古蹟です。
西行は、平清盛と同い年に生まれて73才で死んだ。
佐藤義清(のりきよ)といって、初めは鳥羽院付きの北面の武士だったのだが、事情があって出家して西行と称した。
出家した理由は、一説では鳥羽院の中宮であった待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)に恋をしたためだといわれた。
西行のことはもっと書きたいのだが、いろんな人がいっぱい書いているのでワタクシがあえてここに書くこともないでしょう。右は鴫立庵です。

…夫より引返し箱根の入湯場へ行き一宿。

泉光院はいよいよ箱根の關所へ向かいますが、ここで通らなかった平塚と大磯の宿を見ておきましょう。
廣重版画平塚縄手道
廣重の「東海道五十三次之内 平塚 縄手道」
正面に見える丸い山は高麗山、右のとんがった山が石尊のいる大山で、画面中央、高麗山の右に富士山が小さく顔を見せている。
東海道といってもこのあたりは田圃の中を通る一本道。手前に牓示杭(宿場の出入口の境界を示す杭)と立札が見える。ここは平塚宿の西のはずれ。高麗山はこの付近では目立つ山で、平塚の宿を出てすぐの花水川の所から見た高麗山が右の写真。平塚高麗山

廣重の絵の所から花水川を渡るともうすぐ大磯jの宿となります。



右が「東海道五十三次之内 大磯 虎ヶ雨」
廣重版画大磯虎ヶ雨
この絵は大磯宿の東の入口。手前を行く馬の先に今度は宿の入口を示す牓示杭が立っている。文字は読み取れないが「從是南 大磯宿」などと書いてあるのだろう。絵の右端に山裾が見えているが、それは前の絵の高麗山の一部。馬に乗っているのは白い合羽に身を包んだ旅人が雨の中を急いでいるようだ。
大磯松並木
この付近は今でも松並木の風情を残しています。
大磯は「曽我物語」に登場する曽我十郎祐成の恋人、白拍子の虎御前が住んでいた地として知られていて、彼女にちなんだ名跡が各所に残っているのです。絵の表題になっている「虎ヶ雨」は、虎御前が十郎を想って流した涙雨に由来しています。大磯虎御前化粧井戸
右は化粧(けわい)井戸で、屋根のついたごく小さな井戸ですが、虎御前がこの井戸水で朝夕お化粧をした、というのだが、今は残念ながら水は涸れてしまっている。

大磯という場所で覚えているのは、ワタクシがまだ会社に勤めていた頃の話です。
「勉強会」と称して、会社の業績向上を図るということを主要目的として「捕らぬタヌキの皮算用」的な五ヶ年計画というようなものを会社の各部・課長が集まって年に一回は立案したものだった。その会場がこの大磯で開かれたりしたこともあってワタクシにはなじみの場所ではあるのです。だがその頃のワタクシには虎御前も西行も念頭にはなくて、もっぱら新製品開発、とか、売上高拡大、とか、そういう「会社の方針」に従ったような作文を、社長・専務などのお気に召すように毎晩殆ど徹夜の情況で仕上げることに専念していたものだった。そうして夜中でも酒を売っているコンビニを捜してウロウロしたことは覚えていても、どんな作文を書き、それが会社の業績向上にどれだけの寄与をしたかなどということはすっかり忘れてしまった。

鴫立庵はこの大磯の宿場の西のはずれにあるのです。
京都嵯峨野の落柿舎、滋賀大津義仲寺の境内にある無名庵とともに日本三大俳諧道場と称されて、今でも毎月、句会が開かれているそうです。俳諧の道に疎いyorickですので深入りは避けますが、楊柳軒一葉という俳名を持っていて、芭蕉を尊敬している泉光院は、小田原から三里も戻って鴫立庵へ、いわば「お詣り」に行ったのでしょう。
廣重版画小田原酒匂川
左はもとの小田原へ戻って廣重版画の「東海道五十三次之内 小田原 酒匂川」。

酒匂川は季節による水量の増減の多い川で、冬場は水が涸れて仮橋を架けたが、3月から10月頃迄は夏川といって歩行渡しでした。
川の中央を渡っているのは身分の高い人の乗る高欄輦台(こうらんれんだい)で、駕籠に入った人間ごと10人以上の川越人足が担いでいる。その向こうに4人で担ぐ平輦台、一番こっち側には肩車に乗って渡っているのが2人。背景には箱根連山の麓に小田原宿と小田原城が小さく描かれている。
唱歌箱根八里
いよいよ箱根の山を越えることになります。
明治になってからでも、
♪箱根の山は天下の険、函谷関もものならず~♪、と歌われるほどの難所だった。
小田原が標高50mほどで、箱根峠が845m。一気に800mほど登りつめるのです。
♪万丈の山、千尋の谷、前に聳え後方(しりえ)に支(さそ)う~♪、と、約17kmの山道は急勾配の連続、そのうえ相模湾や駿河湾から吹き付ける湿気の多い海風が箱根の山を駆け上がって、
♪雲は山を巡り霧は谷を閉ざす~♪となり、
年間平均3000mm(小田原の2倍ほど)の降水量が旅を難儀なものとします。
♪昼なお暗き杉の並木、羊腸の小径は苔滑らか~♪と、箱根山を形成している赤土の山道は雨が降ればぬかるみとなり、石畳はツルツル滑って歩行を困難なものにしました。
江戸時代には加えて「御關所」があって、通行手形のチェックもあり、御關所を通らずに裏山を越えようと思えば關所破りとして重罪(死罪となった者は江戸時代を通して二十数名)を課せられたのです。
泉光院は峠にかかる前に先ず…箱根の入湯場へ行き一宿。…したのでした。
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2017.05.15 (Mon)

日記 2017年5月

1日 月 メーデー 1010hPa 晴一時雷雨のち晴れ山下淳子ハガキこれじゃないの
昨年12月、由美画廊でArt Joint-4展というのがあって、その時出展していた山下淳子サンから上島のSceneというお店で2回目の個展を開くのでお立ち寄りくださいというお手紙を頂いた。
右は案内ハガキにあった版画「これじゃない」。
scene室内

左はSceneの室内。いいお店でした。…珈琲、紅茶どちらもとても美味しいお店です…と案内にありました。
sceneの珈琲



晝過ぎ、一天俄にかき曇って雷が鳴ったのだがすぐ晴れた。浜松は昼頃気温が21℃を超えて、上空に寒気が入ったので積乱雲が発生したのでした。


2日 火 八十八夜 1014hPa 晴
熊野(ゆや)の長藤を見て来ました。熊野の長藤行興寺
天竜川左岸の池田の里、行興寺です。
今年は春、寒い日があったためか5月に入ってもまだ綺麗に咲いていました。
熊野の長藤花熊野の長藤ゆやと母の墓

謡曲「熊野」に登場する「ゆや」はこの池田の宿の長者の娘で、都で平宗盛の寵愛を受けていたのだが、故郷の母が病のため帰郷を願い出る、…「如何にせん 都の春も惜しけれど 慣れし東の 花や散るらん」の歌で帰郷を許され、故郷へ帰った熊野は好きだった藤の花を植えたのがいまも「熊野の長藤」として美しい姿を見せてくれます。右の写真、熊野(左)と母(右)のお墓です。

3日 水 憲法記念日 1015hPa 晴
日本国憲法前文恒久の平和
左は日本国憲法、前文の一部です。
この憲法が施行されて70年、この前文に書かれている精神は、平和を愛する諸国民すべてにとって崇高な理想です。
この前文に書かれている精神が、全十一章、103の条文を構成しております。
この理想を守り、全世界に広めるための努力を日本国民はしていかねばなりません。このように立派な憲法を、70年も昔に作ったのです。大切に守って、後の世に伝えていきましょう。
ゴールデンウイークの間、ラジオのいい音楽番組はすっかり消えてしまった。仕方がないからワタクシは手持ちのCDを聞いているのです。ポリーニの写真
はじめのうちはエリック・サティ氏の歌、「あんたがほしいの Je te veux」といったたくさんの歌を聞いて、次に今度はベートーヴェンのピアノソナタ、No.28から最後のNo.32まで全部を鳴らしています。弾いているのはマウリツィオ・ポリーニ。ワタクシはこのピアニストの弾くベートーヴェンが大好き。
2010年10月23日、東京サントリーホールでのベートーヴェンプログラムを聞きに行きました。その時の曲目は、No.30.E-dur、No.31.As-dur、No.32.c-moll、の3曲。この大曲3曲をポリーニ氏は休憩を入れずに続けて弾いたのでした。その時のことを思い出しながら聞いているのです。

4日 木 みどりの日 1015hPa 晴佐鳴湖西岸ボート

お天気のいい日が続いている。お散歩は佐鳴湖西岸。花は咲き鳥は歌い人はスポーツに精を出す季節。

Im wunderschonen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen.
Da ist in meinem Herzen,
Die Liebe auf gegangen.
  素晴らしく美しい五月に、あらゆるつぼみが開き、
  僕の心の中にも、愛が花開いた。
R.シューマンの歌曲集 『詩人の恋』 の第1曲です。
だが年寄りのワタクシはウロウロ歩くに過ぎない。
佐鳴湖西岸花蒸しを見つけた鳥m

この鳥は何という鳥なのだろうか。何か虫をくわえているようだ。この鳥にとってはゴチソウに違いない。成り行きを見ていた。首を振って虫を地面にたたきつけている。虫が動かなくなるまで繰り返し、動かなくなるやいなや虫をくわえてパッと飛び立った。
東京ラ・フォル・ジュルネ、熱狂の日、というコンサートの実況中継を今日の午後、ずっとラジオでやっていたのだが、最後にラヴェルのボレロ、これにピアノとトランペットの余分なパートを付け加えてつまらない音楽にしてしまったのが放送に流れた。こんなことはよした方がいい。
5日 金 こどもの日 立夏 1014hPa 晴三つ編みの草5月5日
先月見つけた三つ編みの草が気になったので見に行きました。好天が続いているのですっかり枯れてしまったがご覧の通りの姿で健在でした。

そのあとChantillyでいつもとちょっと違う珈琲を飲みました。
シャンテリーでモカマタリ
左、カップも砂糖入れもミルク入れもいつもとちょっと違っていました。
画廊で富川信介氏の油彩展、
「朱鞠内湖の表情」。
この湖は北海道の北の方、名寄市の東、あまり人の行かない場所だと思います。
いつも思うのだがこのお店の珈琲はワタクシの舌によく合うのです。


6日 土 1012hPa 曇/夜小雨
平井み帆サンから「罪深きマエストロ、クラウディオ・モンテヴェルディ生誕450年の軌跡」というコンサートの招待券を送って頂いた。
平井み帆チェンバロ
6月3日(土)、14.oo開演、名古屋の電気文化会館、ザ・コンサートホール。
このコンサートのことは、今年の2月11日、名古屋のスタジオ・フィオリーレでみ帆サンの第8回レクチャーコンサートの時、ソプラノの加藤佳代子サンと予告で少しだけ歌ってくれたのだが、今度のコンサートでは本田美香サンや男声諸氏と一緒にたくさん歌ってくれるようです。予定に入れておきます。
N響の古い録音を聞かせてくれている。W.サバリッシュ指揮・園田高弘ピアノでシューマンのピアノ協奏曲。吉田雅夫のフルートでモーツアルトのフルート協奏曲第2番D-dur 。
ワタクシがフルートを中田昭サンに教わっていた頃、吉田雅夫はフルート吹きにとっては神様のような存在だった。一度聞いたこの曲を、何度も何度も練習して、いずれはオーケストラの前に立って吹きたいものだと思っていたのだった。ワタクシがフルートで演奏したのは、ビゼーの「アルルの女・第2組曲メヌエット」を金澤交響楽団で、バッハの「組曲第2番・全曲」を金澤放送局管弦楽団で、の二つでした。いずれもフルート吹きにとっては一度は吹きたいと思っている音楽です。中田サンはその後東京交響楽団へ入団し、このモーツアルトのフルート協奏曲第2番を吹かないうちにワタクシは静岡県の会社に就職してフルートとは縁がなくなってしまった。
7日 日 1010hPa 晴 ズボンのベルトが傷んだのでデパートへ買いに行きました。革ベルトイタリアコードバン
やっぱりベルトはコードバン、馬の肩の革、のシッカリしたのを買わなくちゃならないと思ったので、イタリア製のを買ったら、右のようなイタリアの形をした革のタグがくっついていました。まぎれもなくイタリアの革だゾ!という形の物でした。
今日の音楽は東フィルの演奏で、チャイコフスキィの交響曲第4番f-moll。
この音楽のワタクシの思い出は、金澤の香林坊近くにあった第四高等学校講堂の屋根裏物置に積んであったオーケストラのパート譜で、一番先に手に取ったのがこの曲のヴィオラの楽譜。第3楽章が全部ピチカートだったのが驚きだったことと、第4楽章でフルートでロシア民謡「小さな白樺の木」という旋律が主題になって何度も繰り返されるのが珍しかったのだった。高校2年の時でした。学生音楽連盟の主催で金澤の高校音楽部合同のコンサートを開いた時のことでした。
8日 月 1010hPa 快晴
久しぶりのPaoで珈琲。
9日 火 1013hPa 曇 Paoで珈琲。図書館で借りた本の中に辻まことの写真がありました。野枝まこと辻潤大正3m
左が伊藤野枝、右が辻潤で、間のちっちゃな子供が辻一(まこと)です。
ワタクシは辻まことという男が好きなので、ついでに伊藤野枝という女と、その女が辻潤を捨てて大杉栄という男のもとへ走って、辻潤と別れ、大杉と同棲するようになったことや、野枝が憲兵大尉甘粕正彦に虐殺されてしまったこと、辻まことがイヴォンヌという女となかよくなったことなどを書きたいと思っているのです。野田泉光院の足跡が終わったらすぐに辻まことの生きた時代のことを書きたいと思っております。どうかそれまでワタクシの寿命がありますように、神様。
10日 水 1010hPa 曇 Paoでランチを食べた。バリ風ビーフン炒め。塩崎サンも来て食べていた。塩崎サンはいつも水曜日に来てランチを食べているようだ。
11日 木 ◯ 1011hPa 晴  scene で珈琲。
12日 金 1012hPa 晴 Paoで珈琲。
帰りに成城石井でCointreauとシシリーレモンジュース100%を買いました。ホワイトレディs
由美画廊が開いているようなので入ってみたらAkh.サンが居ました。Godivaが美味しかったと言ってくれたのでよかった。
右のホワイトレディというカクテルは、パリでバーを経営していたハリー・マッケルホーン氏が1916年に作り上げたカクテル。ジンベースで、ジン1/2にコアントロー1/4とレモンジュース1/4をシェークしてカクテルグラスに注ぎます。甘味と酸味のバランスが取れたカクテルとして高い評価を受けているカクテルです。
13日 土 1009hPa 夕方までずっと雨、予報通り。一日中動かず。
14日 日 1010hPa 曇 冬物を少々クリーニングに出した。
15日 月 1010hPa 曇少々雨 Paoで紅茶。由美画廊が開いていたので入る。
(売れ残りらしい?)美濃紙が置いてありました。いつ何に使うか判らないけれどもとりあえずベージュのと白いのと一枚ずつ買っておいて、雨が降っていたので取り置きをお願いしておきました。手漉き美濃紙で、模様の入った美しい紙です。こういうものは見つけた時に買っておかないと次にいつ買えるか判りません。残りわずかですからこの記事を見た人はすぐ買いに行きましょう。実に安いお金で買えます。
16日 火 1011hPa 晴 ワルツへ行って珈琲豆を買う。ワルツのVIPカード
このお店で珈琲を買うたびこのカードにハンコを押してもらって、3年以内に6kg以上の豆を買うとVIPの権利が持続して割引で買える。ワタクシは1.5年ほどで6kg以上は買っているので多分当分の間珈琲豆は割引で買えるでしょう。

17日 水 水 1011hPa 曇 Paoで珈琲。
塩崎サンも来ていてランチを食べていた。
コンサート情報など話してくれた。6月18日(日)にモーツアルトのレクイエムと古楽の魅力vol.2 が重なってしまった。
モツレクは好きな音楽なので、Paoでキップを買ってしまったのだが、古楽の魅力の方は「浜松古楽アンサンブル」いう名前だけれどもいつものメンバーであり、しかもパーセルの曲でプログラムを統一しているので、これは聴きに行きます。先にパーセルを聞いて、済んでからモツレクを聞きにアクト中ホールへ走る、ということにします。
18日 木 1011hPa 晴 Chantillyで珈琲。右の写真のように綺麗な場所です。Chantillyで珈琲
由美画廊に預けておいた美濃紙をもらって、Nobサンなら使ってくれるかもしれないと思って勤務先まで持って行って、なかば無理矢理押し付けて渡した。
白いのとベージュのとがあってサイズは両方とも64cm×87cm。
手漉き美濃紙2枚写真は下がベージュで上に白い紙を重ねて写したのだがよくわかりませんねぇ。
大判の美濃紙ですから強くてきれいで、しかも両方とも透かしが入っています。まだ売れ残りがあったのでまた3枚買って、欲しい人(あるいは欲しそうな人)を捜して押しつけて貰ってもらうつもり。

Akhサン蜂蜜チョコ中国菓子蓮実
由美画廊のAkh.サンから右のお菓子(中国・大吉大栗)という蓮の実のようなお菓子と、東北地方で採った「くろばなえんじゅ」という蜂蜜とチョコを貰った(右の写真)。ありがとうございます。

一輪の薔薇チラシモツレクチラシバッハ研
6月18日でかさなっているコンサートのチラシです。

19日 金 1013hPa 晴
カルメ焼お買い物の帰りに立ち寄ったお店でカルメ焼を発見した。
ワタクシが子供の頃好きだった(というより他にお菓子はない)のでつい懐かしく、買ってしまった。そしてPao へ行ってえり子サンと少しずつ囓ったのでした。
デパートで綿長袖ストライプ柄のシャツを買い、ついでに安い食堂で鰺の味噌煮定食+アサリ汁で晩飯を済ませて、18時になるのを待って浜松駅前へ出ました。えり子サンも加わって、共謀罪反対のビラ配りをしていたので、ワタクシも署名をして、ビラ配りをほんのちょっとだけ手伝ったのでした。だが帰ってから見たテレビでは衆院の委員会を与党多数で通過させたと報じていました。これから先、自民党一党支配のもとで、どんどん国民の口を封じて、戦争に荷担する日本をつくりあげていくことでしょう。
20日 土 1013hPa 一日中一点の雲も見えない快晴。珍しい。
塩崎サンからEri Violin Recital,No.5 のコンサートがYAMAHAホールで開かれるので、6月11日のフェリーチェコンサートのチラシを挟み込んで来て!と頼まれた。 Vaiolinを弾く岡田恵里さんもピアノの鳥谷部美帆さんも知らない人なのだが塩崎サンからチケットも貰ったので聞きました。ワタクシの知らない人が、ワタクシのよく知っている曲を弾くのでちょっと困る。Bachの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第2番のシャコンヌ。この曲は亡息も練習していたし、いろんな人が弾いている。…難しい曲なんだゾ!…と力一杯弾く人や、…とても綺麗な曲ですヨ…と優しく弾く人もいる。ワタクシは後者の弾き方をする人が好きなのだが、今日のは前者の弾き方だった。
後半でラフマニノフのボカリーズなどを弾くのだが、この曲は本来はピアノ曲なんだし、ボカリーズは鼻歌だがそんな風には弾いてくれそうにもないので聞かないで出た。Paoへ行って珈琲。
21日 日 小満 1012hPa 晴、今日は巻雲と薄い巻層雲が少々。無事。
22日 月 1012hPa 晴。 Pao で珈琲。えり子サンの妹さんが作ったという紅茶を淹れて戴いた。
23日 火 1011hPa 晴。 Paoで珈琲。プリンターのインク、黒とライトマゼンタを補充。
NHKFMで原田英世のピアノ。主な曲目。バッハ曲ブゾーニ編のシャコンヌ。シューベルトのさすらい人幻想曲。リストの巡礼の年第2年。ラフマニノフのコレッリの主題による変奏曲。素晴らしい演奏でした。滅多に聞けない曲ばかりなので面白い。
24日 水 1010hPa 曇 無事。
25日 木 1008hPa 曇一時雨
図書館で「ユリシーズ1-12」柳瀬尚紀訳2016年版を見つけたので借りて、Chantilly で珈琲を飲みながら見ていた。ユリシーズ1-12柳瀬山本容子絵
山本容子の挿絵が1章に一つずつ入っていて,今までにないタイプのユリシーズだったので、思わず谷島屋へ行って買ってしまった。
左は”第五章 Lotus-eaters 食蓮人たち”の挿絵のページP-144の部分。
「ユリシーズ」は今までに出版される度に買っていたのでこれで4度目。今度の訳は、柳瀬氏が言っているように注釈なしで読ませる訳だという。挿絵も見ながらまた最初から読んでみようか。

26日 金 ● 由美画廊へ行く。先日買い残しておいた美濃紙がまだ残っていたので全部(といってもたった2枚だが)を買った。赤堀サン着物姿横
由美画廊は今月28日で閉店となります。
Akh.サンとはしばらくのお別れになります。左がAkh.サン。
この人に和文化の会に勧められて行ってみて、和服の素晴らしさを見せて貰ったのでした。感謝しております。
Paoで珈琲。由美画廊での美濃紙を、えり子サンや塩崎サン、あるいはその知人で使いそうな人が居たらあげますよ、ということで預けておいた。

27日 土  1004hPa 快晴。
Voix Vert というのは混声合唱団の名前でした。ヴォアヴェール第7回演奏会プログラム表紙
女声12・男声7の合唱団。曲目を書いておきましょう。珍しい曲が多かった。
1st stage は東洋の音楽。
バリ島や日本の「おらしょ」千原英喜曲ほか、
2st stage は木下牧子のアカペラ作品、祝福 他
3rd stage はモンテヴェルディのマドリガーレ3曲
4th stage 静岡県在住の作曲家魚路恭子に委嘱した「静岡の歌たち」という作品の本邦初演!
以上の内容でした。
塩崎サンと幸運な事に入口でバッタリ出会ったので塩崎サンからキップを買いました。
近頃の合唱団は皆さんそうなのかも知れないのだが声がまったく合唱向きに出来ていないようだ。昔(というのはワタクシなどが歌っていた時代)は、横隔膜を動かすような発声法で、体中を響かせるような歌い方だった。今日の皆さんの歌い方は声帯から上だけが動いているような声なので、アサハカに聞こえる。木下牧子の曲、「44羽のべにすずめ」という曲などはそれでもいいのだろうが、少なくともモンテヴェルディの曲は、かりにマドリガーレであろうともヨーロッパの石造りの教会堂が響くような発声法でなくてはならないとワタクシは思うのです。
 
28日 日 1004hPa 快晴
嬉野京子さんの講演会。嬉野京子講演会Pao
14:00からコミュニティカフェPaoで開催されます。
報道写真家として沖縄をずっと撮り続けてきた方です。
戦後長い間アメリカ軍の占領下にあって、返還後の現在も、日本にとって「沖縄」とは何であるのか、いま私たちは沖縄とどう向きあわねばならないか、考える時です。
29日 月 1007hPa 晴 Paoで珈琲。 Nobサンから6月4日のリコーダーフェスティバルのタイムスケジュール、プログラム等資料一式送っていただいた。打ち上げの費用もNobサンが立て替えて戴いている。当日は午後早めに行きます。塩崎サンからチラシ挟み込みの依頼も受けているのです。
30日 火 1006hPa 晴 ワルツで珈琲豆を買う。ポイントがたまって上等の紅茶を買うだけのポイントになった。シャトレーゼでケーキを買う。甘いチーズケーキ。
31日 水 1005hPa 曇/晴 Paoで珈琲。今日は水曜日だから、と思って2時近くに行ったらやはり塩崎サンがいました。6月4日の第22回リコーダーフェスティバルの時、お客さんに渡すプログラムに、6月11日のフェリーチェ合奏団の演奏会のチラシをワタクシが挟み込む仕事をするので、そのチラシを塩崎サンから受け取らなくちゃならないのです。チラシを200枚受け取りました。 
リコフェスプログラム表紙20170604フェリーチェやさしい調べモンテヴェルディ平井み帆

左がリコーダーフェスティバルのプログラム表紙。これにフェリーチェのチラシを挟んでお客さんに渡す。右のは6月3日、名古屋でのコンサート。み帆サンから招待状を送って頂きました。6月には他にもいっぱいコンサートがあるのです。
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2017.05.13 (Sat)

泉光院の足跡 230 大山詣り

十五日 霧の天 日向山立、辰の上刻。一の澤山と云ふに詣づ。當寺は東叡山末常念佛あり。本堂八間四面、南向、寺一ヶ寺、夫より奥の院へ一丁上る。開山籠り堂岩屋自然石、出山の釋迦古迹等あり。夫より又山へ上ること一里半にして大山不動へ詣で納經す。本堂八間四面東向、二王門あり、當山は靈地にして參詣の火と多し、老若男女毎日百人計りあり、諸堂諸社並に寺中多し、門前にて菖蒲團子と云ふ物を賣る。參詣の者買ふて數十匹の犬に喰はす。本堂南脇より石尊へ登る道あり、未だ明き山にならざる故、吾々共登り得ず殘念也。夫より三十丁下り町あり、此道小田原本街道也。尾尻村と云ふにて日も入る故に、釋迦堂とて三階作り五間四面の堂あり、此寺へ宿す。

一の澤山は淨発願寺といって、日向薬師を降りてから右側の方にあるらしいのだが殘念ながらワタクシは行かなかったので省略して、いよいよ大山です。
大山新幹線から
右は東海道新幹線の窓から見た大山。整った二等辺三角形の美しい山です。日向薬師は右側の尾根の向こう側の谷合にあります。
この山はお天気が悪くなる前から雲に包まれるし、最後まで雲がとれない。なのでこの山の中腹にある大山不動は雨降山大山寺(アフリサンタイセンジ)と号している。ワタクシは都合3回この山に登ってしまった。
登山口でバスを降りるとやはり長い石段があって、両側にお土産屋と茶屋(及び食事処)がありますが、ここの名物はなんといっても大山独楽と豆腐料理。大山寺こま
ケーブルの駅までの間にたくさんお店があって、かっては塔頭だったような門構えの立派なお豆腐料理の店や、椅子とテーブルが並んでいるだけの安直に食べられるようなお店があったり、選択自由。
大山豆腐料理店

右は立派な豆腐料理店で、そこで食べたお豆腐料理。


大山豆腐


ワタクシも独楽を買ってお豆腐を食べたのでした。
大山寺正面

ケーブルに乗って途中の駅で降りて、右の方へ歩いて行くと雨降山大山寺です。
このお寺には鐵製の不動明王があって、鐵の鋳物で出来ているのです。作られたのは13世紀半ばで、鐵は青銅に比べて溶融温度が高くて硬い金属だから当時の鋳造技術では造るのが難しいのに、仕上げがとてもよく出来ているのだそうです。
右が國寶の鐵不動。
大山寺鉄不動

これはなかなか見せて貰えないらしいのですが、世界遺産研究の会でここへ来た時には予約を入れておいたので見せて貰えたのでした。有難いことでした。





大山寺宝篋印塔
こちらは青銅製の寶篋印塔。
明治の廃佛棄釋でこの塔は破壊されたのだが、破片を拾って再生されたのです。


江戸時代中期頃から大山詣でが盛んになりました。
年間十万人、講をつくって押しかけました。江戸の下町の町民には特に人気があったようです。江戸から大山に行く道筋は、世田谷三軒茶屋から町田・海老名と通って16里程。帰りは藤澤の、廣重版画にあった大きな鳥居をくぐって江ノ島へまわって、そこの遊女屋で精進落しをして、鎌倉や金澤八景などを見物して帰ると21里ほど。

古今亭志ん生の語る落語「大山詣で」の一席はこのコースを通っているものと思います。
喧嘩っ早い熊サンが一緒に行くことに長屋の衆は心配して、もし喧嘩をしたら罰として頭の毛を剃ってしまう、と約束させる。とりあえず參詣するまでは無事だったのだが、やはり心配した通り山を下りてから酒を飲んだ熊サンが大喧嘩を始めてしまう。酔っ払った熊サンがまだ寝ている隙に頭を剃って丸坊主にしてしまって、長屋の衆は早立ちして江ノ島へ行く。それを知った熊サン、急いで長屋へ戻って、長屋のおかみさんたちを集めて涙ながらに語るのです。…長屋の衆たちは江ノ島へ行って船遊びを楽しんだのだが海が荒れてアッという間に転覆、酔っ払って腹をこわした俺一人が船に乗らなかったので生き残ってしまった。俺は坊主になって、みんなの菩提を弔って、して急いでそのことを知らせに戻った。だから死んだ亭主のためにみんなも髪を剃って尼になって亭主の菩提を弔うがよい。…そして長屋のおかみさんたち全部を丸坊主にしてしまう。そこへ長屋の衆が江ノ島から帰ってきてとんでもない事態になっていることを発見して大騒ぎになる、というのがこの落語のあらすじ。
落語なんてあらすじを読んだって面白くも何ともないものなのだが、たまたま泉光院が大山詣りをしたのでそのコースを紹介かたがたあらすじを書きました。
江戸時代の人にとっては「髷」というものは男女を問わず非常に大切なもので、それがなくなるのはとても恥ずかしいことだと思っていました。
明治維新になると新政府は徳川時代と一線を画すべく次々と新政策を発表しましたが、その中の一つに「断髪令」というのがあります。明治4年8月9日の『太政官令』、「散髪制服略服脱刀共可爲勝手事 但 禮服ノ節ハ帶刀可致事」というのがそれで、表向きは、散髪をしても、刀を持ち歩かなくてもいいよ、と、あくまで強制ではないという法令でしたが事実上は、新政府の官僚はみんなザンギリ頭にしましたし、私の車夫イサベラ

 ♪半髪頭をたたいてみれば因循姑息の音がする   
 ♪惣髪頭をたたいてみれば王政復古の音がする
 ♪ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする
と新聞にザンギリ頭を奨励するような記事が出たりしたのでした。だが東京市民の頭からチョンマゲがなくなるにはかなりの時間がかかって、明治22~23年頃にようやく100%ザンギリ頭になったということです。
右はイサベラ・バードのスケッチ「私の車夫」という絵。
明治11年に日本へ一人で来て日本の奥地紀行をしたイギリス女性。日光へ行くために人力車を3台雇ったので、その時の人力車の車夫です。チョンマゲが乗っているようです。
髪型丸髷髪型文金高島田
女性の髪型、丸髷と文金高島田の二つをのせておきました。
江戸時代の下町おかみさんはこんな髪型はしなかったでしょうね。


…本堂南より石尊へ登る道あり、未だ明き山にならざる故、吾々共登り得ず殘念也。…
大山山頂登山口
大山寺から上に登ったところ(ケーブルの終点)に今は大山阿夫利(あふり)神社(の下社)があって、その左脇のところに頂上にある大山阿夫利神社奥社への登山道があります。大山阿夫利神社山頂奥社

左がその登山道。そして頂上に奥社(右の写真)があります。
この奥社の中に石尊大明神という神が降りてくる依代(ヨリシロ)
石が祀ってあるのだろうか。

明治になる前は神佛習合の社でした。泉光院がここへ来たのは(旧暦の)五月十五日(今のグレゴリオ暦に直すと6月28日)です。ここの山開きの期間は六月二十六日から七月の十七日ですから山開きの期間ではないのです。だから…石尊へ…登ることは出来ず殘念でした。いまの「登山」という考え方では理解出来ないことだが、山開きの期間でないと登ってはいけないのです。ハイキングで1250mのこの山頂まで登って眼下に広がる秦野市内風景を眺めるのは大山詣りではありません。
大山阿夫利神社下社拝殿
こちらはケーブルの終点にある下社。この社殿の中には地下に真っ暗な通路(信濃善光寺の胎内めぐりと同じような)があって、そこを出ると美味しい水の飲める場所もあります。
たまたま社殿で巫女さんの舞を見ることができればそれはシアワセ。




大山阿夫利神社巫女舞


大山寺参道女坂


下りはケーブルに乗らずに女坂(右)を歩いて降りましょう。お豆腐料理が美味しくなります。
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