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2018.02.03 (Sat)

泉光院の足跡 285 徳本上人

五日 大西風。ダイヱ村托鉢し晝時歸る。風止まざる故に滯留。二王一部。
六日 晴天。大江村立、辰の刻。徳本の妹宅へ立寄り托鉢の處、法事あり二汁三菜の料理出る。其上今晩一宿せよと申さるゝに付宿す。

この辺りは徳本(とくほん)上人生誕の地でもあるようです。泉光院は2年程前の文化十三年三月廿四日に高崎城下で、
…城下町冷泉寺と云ふに紀州産の徳本上人昨日江戸より着ありたりとて…徳本上人の説法を聞きに行き、…十念授かり六字名號貰…ったことを、No.148 上州路 の項で書きました。その時は「南無阿彌陀佛」の名號を頂いて、…幸ひなり…と喜んだのでしたが、…日も西山に落つる故、旅宿を尋ね行きたる處、徳本參詣の人男女數知れず居る、…で、ようやく豊岡村傳四郎さん宅で泊めてもらったのでした。

日記の続きは、徳本上人の幼時から修行にまつわるエピソードをひじょうに長く、(約1600文字以上)書いているのでうんと要約しておきます。

億本上人は幼名を重助といって、子供の時から洞穴に籠もって念佛三昧、寒暑共に木綿の単衣物だけで生活して、長じて田畑の仕事をしても、…虫も天地の間の者なれば、食せずには居られまじ、腹一杯食したら止むべし、是を殺すことは罪なり、とて其儘になし置きたり。… だったけれども、ほかの人より収穫が減るということはなかった。
徳本上人坐像
…惣じて幼少の頃より念佛計りの人なれば読み書きの事は一切無き人也、至て文盲の人也。…でしたが、26歳で出家して後、日本各地を念佛しながら説法をして歩くのです。紀州の殿様からも召し出されていますが、自分の事を、…下賤の生れ、其上無知蒙昧にして東西も分ち難し、…と言ってもっぱら民衆の間に入って念佛し説法をしている人でした。右は日高町誕生寺に残る徳本上人の坐像です。
泉光院は、上人の兄や妹から徳本上人の事をいろいろ聞いて日記に書き残しているのですが、省略しまして、

…夫より徳本幼少の時毎日念佛せられたる岩穴一見に行きたる所、生い茂りて何の印もなき故、草を拂ひ石をもて禮座の如きを拵へ、平四郎大ヘチの内玉島と云ふ所より黒色の丸き一尺計りの石を拾ひ來り納め置きたり。由良村吉藏と云ふに宿す。

というふうに徳本上人を偲んでいます。だが、泉光院が高崎での上人の説法を聞いてから、上人は江戸へ帰ってその年の10月頃には歿していたようです。そんな情報は故郷にまでは届いていなかったようですね。

八日 晴天。由良村托鉢、晝より吉藏方出立、興國寺とて曹洞禪日本四ヶ寺の一也、詣納經。折柄佛生會參詣多し中村平助と云ふに宿す。
興國寺

興國寺は先に書いた普化宗明暗寺の本寺でもあります。
8月15日の盂蘭盆会には日本三大火祭りの一つとして燈籠焼というのが行われます。



興國寺燈籠焼
左、興國寺。
右、燈籠焼。
燈籠焼の時は大勢の虚無僧姿の僧が尺八を吹いているのが見えます。
この日は四月八日。お釋迦様の誕生日、佛生會だったから參詣人が大勢来ていた。
ワタクシも子供の頃、近くの慶覺寺(きょうかくじ)というお寺で「花祭り」があった。本堂前に釋迦誕生佛が置かれていて、柄杓で甘茶を汲んで頭からかけて、ついでに甘茶を飲んで、お菓子を貰って楽しい一日をすごした。

九日 晴天。中村立、辰の刻。峠を越へ湯崎と云ふ三千軒計りの町へ出る。此所に一向宗正學寺と云ふがあり、昨日鐘鑄ありて今日掘り出せり、一見す。
梵鐘鋳造

由良町の中村から有田郡の湯浅町へ行ったようです。たまたまお寺の梵鐘を鋳造していて、今日それを掘り出すところだという。さっそく見に行きました。あんな大きな物を鋳物で作るのだから当時としては大工事です。
梵鐘鋳型
右は今の作り方です。
梵鐘の木型を作って型枠の中に入れて、鋳物砂を入れて固めてから木型を取り出して、溶けた銅合金を上の穴から流し込む。
すっかり冷えてから型枠をはずして、鋳物砂を取り払うと出来上がる。
泉光院もここへ来るのがもう2日程も早ければ鋳込むところを見ることが出来てもっと面白かっただろう。

ワタクシは旧制の工業学校の電気科という所へ(倍率4倍!の試験を受けて)入学したのでしたが、最初の(中学一年の)時は機械実習を習うのです。週3時間で、旋盤・ボール盤などの工作機械の運転・切削や、鍛造(鉄を焼いてトンチンカン叩く)、鋳造(つまり上に書いたような溶かした鉄を型に流し込む)、といったことを一通りやりました。ところが一年経って昭和22年になったら学制改革ということで、工業学校というものが高等学校以上の学科になって、中学校は普通の中学校になってしまって、今迄のような「腕を磨く」勉強はやらなくなってしまった。だがワタクシにとって、このようなたった一年間だけだったけれどもこの体験はひじょうに大切なものだったことを今改めて思うのです。中学生位の年齢のときに体を使って物を作って、腕を磨く体験をやっておくと、それがあとになってずいぶん役に立つものです。
余談はさておいて、

十日 晴天。田村立、辰の刻。又峠を越へ千田村と云ふに行き托鉢、當所谷廣く四方は高山也。絶頂迄皆々拓き地となし蜜柑畑也。紀の國蜜柑とて名物は此地より出る也。…
蜜柑山

有田は蜜柑の産地。当時すでに広い面積で蜜柑が栽培されていたことが判ります。

紀伊国屋文左衛門が元禄年間、蜜柑を江戸へ送るために廻船を仕立てて悪天候の中、決死的に運搬して巨利を得たことが伝説として残っている。この時の利益は五万両だったとか、三十数万籠を出荷したとか、伝説はさまざまに拡大して、
   …沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の國蜜柑船…
と、カッポレで唄われた。彼が豪商となったのは火事の多かった江戸へ大量の木材を運んだからであって、蜜柑だけであんなに儲けたわけではない。しかも百萬両といわれた資産を彼一代で吉原の遊里で蕩尽してしまった。
蜜柑実蜜柑です。
   ♪てんてん手鞠は 殿さまに
    だかれて はるばる 旅をして
    紀州はよい國 日のひかり
    山のみかんに なったげな
    赤いみかんに なったげな
    なったげな   ♪
 西條八十・中山晋平、鞠と殿様

この歌はワタクシのブログを読んでくださっているほとんどのお方は幼い頃に歌った覚えがあるでしょう。
こんな歌でしたね。
♪てんてん てんまり てん手鞠 てんてん手鞠の 手がそれて どこからどこまで 飛んでった 垣根をこえて屋根こえて おもての通りへ飛んでった 飛んでった

この歌は全5節あって、上に書いたのは一番おしまいの節です。
懐かしいから歌いたいのだが途中を忘れちゃって… という方のために各節の歌い出しを書いておきましょう。
2節 ♪おもての行列なんじゃいな 紀州の殿さまお国入り 金紋先箱供揃い …
3節 ♪てんてん手鞠はてんころり はずんでお駕籠の屋根の上 …
4節 ♪お駕籠は行きます東海道 東海道は松並木 とまり泊まりで日が暮れて …
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2018.01.30 (Tue)

泉光院の足跡 284 安珍清姫道成寺

十九日 晴天。滯在。木綿二反調へ紺屋へ染めに遣はす。大川あり川向ふ中村と云ふに托鉢に行く、、托鉢先にて馳走の所二軒あり。
二十日 晴天。無事。
廿一日 晴天。染物出來ざる故今日も滯在す。

木綿を二反買って染物屋へ出したのだが、「紺屋の明後日」(あさって)」という諺があるように、明後日までには必ずやっておきますから…と言っても約束通りには出来上がらない。出来たのは明明後日。

廿二日 晴天。染物出來に付近所の老女三人集まり菩提の爲とて仕立呉れられたり。是も回國の一得也。因て一句、前あり略す。
   吾れ一と器量の花の針揃へ
赤飯茶漬け等出る。六右衛門と云ふより豆腐、儀衛門と云ふより草履、清八と云ふより鼻紙贈らる。

十七日からずっと富田村の六右衛門サン宅に泊まっております。染物が仕上がったらご近所のお内儀さんが3人集まってきて、…菩提のため…といって仕立ててくれた。
老女なんて失礼な!みなさん口には出さねど内心は自分の方が器量よしだと思っている。

そこから海岸通りを避けて富田川を少し遡って、ということは白浜を通ると回り道になると思うのですが、…田邊往還を除け北山道を通り、保野村… で泊まり、…富田川と云ふを川上へ上る、一の瀬と云ふ村…や、 …川を渡り岩田村…などと托鉢をしながら少しずつ泊まりをかさねて、

廿六日 晴天。近村托鉢晝時立、然る所平四郎編笠古物を見つけ調へ來れり。夫れにて六部天蓋の似せを作る。…
編笠と箱明暗
虚無僧編笠2

左は前にも載せたのだが編笠をかむった虚無僧姿。
右は京都の北の方のお寺で見つけた深編笠と「明暗」と書いてある箱。


今はこんな姿を見ることの出来るのは禪宗の一派である普化宗(ふけしゅう)の僧だけでしょうが、江戸時代にはかなり居たようだ。山伏と同じように脇差と似た刀を帯びて廻国することも許されていた。一心に尺八を吹くことで禪の境地に入る、とされていて、尺八を吹きながら托鉢をした。
明暗時の門
虚無僧というと京都・明暗寺(みょうあんじ)が有名でここは今でも尺八の「本曲」を伝えています。左が明暗寺の門。

本曲というのは、尺八だけで演奏する音楽で、鎌倉時代中期(13世紀頃)、禅僧法燈國師覺心によって中国南宋から伝えられたとされています。

この音楽は、「一音成佛」とか「吹禪」、「虛無一聲」といった言葉が示すように、演奏を他人に聞かせるのが目的ではなくて、自己の内的なものを一管に託して表現する、という音楽ですから、奏者はテクニックよりも気迫とか精神性が強く要求されます。
1960年代に日本の現代音楽界で、この音楽に興味を持った作曲家、諸井誠が尺八のための新作本曲ともいうべき独奏曲、「竹籟五章」を作曲して、明暗寺の酒井竹保によって初演され、そのレコードが発売されました。そのレコードの中に、酒井竹保の演奏による「霧海篪 むかいじ」という本曲も入っていて、これこそ尺八の音楽だ!と思ったものでした。「霧海篪」という曲は、覺心禪師が中国での修行を終えて帰国するとき、海上で濃霧に遭遇し、進退窮まったとき唐代の高僧普化禪師の姿が霧の中に現れ、鐸(たく 鉦のような打楽器)を打ち振るにつれて霧が晴れてゆくのを見て、その音に合わせて吹奏したのがこの曲だ、といわれているものです。
ところで尺八ですが、リコーダーと同じように大小いろいろありますが、標準管は一尺八寸(約55cm)で、表に4個、裏に1個、合計5個の穴があいていて、フルートと同じように吹口のエッジに息を吹きあてて音を出します。
尺八表裏
左が尺八です。
穴を全部ふさいだときが、D (レの音、壱越 いちこつ)、下から順番に1番目を開けたときが F (ファの音、勝絶 しょうぜつ)、2番目をあけると G (ソの音、双調 そうじょう)、3番目をあけると A (ラの音 黄鐘 おうしき)、4番目、この時は下二つの穴を塞ぎますが、 C (ドの音 神仙 しんせん)という音が出ます。全部塞いだときの音がDですから、西洋楽器のヴォイスフルートと同じ音高の楽器、
ヴォイスフルートリコーダー
左がリコーダー類の楽器ですが、一番左がテナーリコーダー、中がヴォイスフルート、右がアルトリコーダー(いずれもピッチが415Hzのバロックピッチ、NOBUYOサンからお借りした楽器)で、尺八はヴォイスフルートとほぼ同じ音高の楽器のようです。
尺八は、リコーダーと比べて穴の数か少ないので、これで自在に音を出すためにはいろいろ工夫が要るようです。指穴をちょっとだけ開けたり、唇を吹口に当てる角度を変化させたりし、息の強さや首の振り方などで音色や音高の微妙な調整をするらしいです。俗に「首振り三年」といって自在に音が出せるようになるまでには大変な努力が必要とされています。
ところでテレビドラマの時代劇で虚無僧が出てくるとき、たいていの場合、胸に黒いヨダレカケのような物を掛けていてそれに「明暗」と白抜きで書くか、「明暗」と書いた箱をぶら下げていますが、あれはなんとかの一つ覚えで、虚無僧イコール明暗寺と決めつけているようです。
編笠といってもう一つ思い出すのは、戦前、刑務所へ入っていた思想犯が外へ出る時編笠をかぶさられていたらしい。
 …手錠をかけて笠をかむって腰縄つけて 男ケンジがゆらりとあゆむ
  後からヒロシも手錠をかけて 笠をかむってぶらりとあるく
  あるきゃひとや(牢屋)もゆらりと揺れる
  春の日ながを 軒じゃ雀が ひと声 ち ふた声 ち …
ワタクシの好きな詩人、《ぬやま ひろし》が刑務所へ入っていたときに作った、
「編笠すがた」という詩です。
戦前、日本共産党員は(主に)巣鴨刑務所に入れられていて、戦争がすんでから出獄できた。
そして《ぬやま ひろし》こと西澤隆二の詩集『編笠』も出版する事が出来た。
ぬやま ひろし は、「若者よ」の歌の作者です。楽譜を入れておきます。
若者よ楽譜

若者よ 
体をきたえておけ 
美しい心が 
たくましい体に
からくも 支えられる
日がいつかは来る
その日のために
体をきたえておけ
若者よ




この歌をワタクシはよく歌いました。米軍基地反対闘争の時など、若者たちがいっぱい集まってスクラム組んで、♪若者よ 体をきたえておけ…と歌ったのでした。
はじめの詩の中に出てくる「男ケンジ」は多分宮本謙治で、ヒロシが「ぬやまひろし」です。
西澤隆二は、魚眠堂=室生犀星の庇護のもと、澄江堂=芥川龍之介、中野重治、堀辰雄らと「驢馬」同人に入っていた詩人です。
平四郎の編笠のおかげでずいぶん道草をしてしまった。ゴメンナサイ。次へ行きます。

廿八日 晴天。アサウカ村立、辰の刻。田邊城下晝前通る、先づ鶏合の明神と云ふ大社へ詣る。此の明神は少彦名(すくなひこな)命と云ふ。寺一ヶ寺。納經す。…
闘鶏神社

右の神社は鶏合権現、今は闘鶏神社といっています。二代目社主湛増の時、屋島の合戦でここの僧兵を利用しようとして、源平両陣営から味方にと誘われ、去就に迷った湛増は社前で赤白の鶏を七羽ずつ闘わせて神意を占った結果、…赤き鶏一つも勝たず皆負け…て、白鶏が勝ったので、湛増は白旗をなびかせた熊野水軍を率いて紀伊水道を渡った、という故事で名高い神社です。

…夫より大福院と云ふ山伏宅へ見舞ふ。當主幼く、老女の出られたり。此の家久しき家にて辨慶出生の時の産湯の釜とてあり。辨慶の家筋にてもあらんか、當院故ある寺故に、御門主様入峰の節も御立寄り御輿を寄せられたる所也、此の地は松林にて濱へ近き所也。城下陣屋作り、追手東北向、西に小川あり、町數は多し。シナヘ新庄村儀平と云ふに宿す。
闘鶏神社弁慶産湯釜

この神社入口の左側に大福院があって、そこに「弁慶産湯の釜(左)」というのがあった。今は闘鶏神社に寄贈されてそこに展示してあって、湛増の次男が武蔵坊弁慶であると言い伝えられているのです。
闘鶏神社弁慶湛増像

右が湛増と弁慶の像(立っているのが弁慶で座っているのが湛増)。


弁慶とは関係がないのでしょうが、京都醍醐寺の三寶院ご門跡様が熊野にお入りになるときはここにお立ち寄りになるのは古くからの例で、泉光院がここへ来る9年前の文化六年にもその時のご門跡様である高演法親王の入峰の際お立ち寄りになった、と随行の人の日記に書かれている。だから三寶院の末寺である泉光院としては是非とも立ち寄らなくてはならないのです。

托鉢しながら少しずつ北上しています。
廿九日 晴天。滯在にて近村托鉢に出る、又儀平宅に宿す。
四月一日 晴天。新庄村立、辰の刻。本街道へ出でず山道通りにて山中一里計り行く、、箱屋と云ふ村へ出る、古井村と云ふにて日も西山に落る故圓吉と云ふに宿す。夜に入り大雨大雷。
二日 晝時より晴る。滯在。笈の詰めかへする。
三日 晴天。古井村立、辰の刻。又谷合を一里行き江川村と云ふへ出で托鉢。笈頼み置きたる所、若女ながら埒明きたる女にて今晩は宿參らせんと云ふ、一人として請合ひたり、武兵衛と云ふ一向宗宅也。
四日 晴天。江川村立、辰の刻。大川ありて渡船あり、日高川と云ふ。先年清姫と云ふが蛇に成りたると云ふは此川下の渡し場也。日高村道成寺へ詣納經す。本堂八間四面南向。諸堂あり、三重の塔あり、樓門二王を安置す。鐘樓の跡とて今石礎殘れり、又外に鐘樓再建したる所怖ろしき事共多き故に其儘にして捨て置きたり。麓より石段六十二階、安珍の石塔あり。門前茶屋六七軒あり。夫より志賀村と云ふに赴く、當村は念佛行者徳本俗性の地也。因て尋ね行く。大ヱ村と云ふに宿す。寺にて一句、
   蛇はしらず垣に角振る蝸牛
道成寺山門
道成寺へやって来ました。いつもの癖で…先年清姫が…と、ついこの前の事のように書いております。右、仁王門です。

8世紀初頭に建てられ、8世紀末までには南大門、中門、回廊、金堂、塔、、講堂、僧坊、倉院と、一大伽藍を形成したのだったがその後衰退した。
道成寺三重塔
石段を登って仁王門をくぐると境内には本堂、三重塔が現れる。江戸時代中期に建てられた三重塔は和歌山県唯一のもので、その傍には安珍が埋められたという「安珍塚」があったりする。
ほぼ泉光院の書いている通りです。道成寺十一面観音

古いお寺なのでいい佛像もたくさんあって、本尊の千手觀音、日光・月光の両脇侍は國寶。重文もたくさんあるらしい。
右は十一面觀音立像。



安珍・清姫の事を少々書いておきましょう。
延長六年(928)といいますから、…先年清姫が…などと言うにはあまりに古い出来事です。
奥州の若い修行僧安珍が熊野詣にやって来て、眞砂の庄司の家で泊めてもらった。清姫村上華岳日高川清姫圖
その家の娘清姫が安珍に一目惚れをしてしまった。
安珍は、修行中の身なので、と、帰りに立ち寄る約束をしたのだが、熊野詣をすませた安珍は約束をすっぽかして通り過ぎてしまうのです。
それを知って清姫は安珍を追っかけます。
清姫小林古径日高川


左 小林古径「日高川 (部分)」     右 村上華岳「日高河清姫圖」

どちらもなかなか素晴らしい画です。古径も華岳も随分たくさん絵を描いている人ですが、その中でも日高川のほとりの清姫を描いたこれらの絵が一番高い評価を得ているのです。
道成寺縁起下巻龍

男女の間のことは当事者でないとよくわからないものではありますが、いったんキューピッドの矢に当たってしまうともうどうしようもありません。あとは破局に向かって突き進むしかありません。
道成寺に逃げ込んで釣鐘の下に身を潜めた安珍を、清姫は蛇体となって鐘を取り巻き、ついに安珍は焼き殺されてしまうのでした。
道成寺縁起下巻鐘の中

江戸時代の説話ではこのように無惨に焼かれたことになってはおりますが、実際のお話では、恋の炎に身も心も焼かれた清姫に、おそらく安珍もその気になって、墨染の衣を脱いで、世俗の人生を歩むことになったのではないでしょうか。
新しく一人の男として生まれかわって、清姫と一緒に幸せに生きたのだと思いましょう。
謡曲に謡われ、能で舞れ、歌舞伎に脚色され、長唄になって踊られ、古くからこの物語を人々は吾が身に置き換えて親しんできました。男は男で、女は女で、それぞれ自分のこととしてこの物語に親しんできたのでした。
道成寺1鐘上
道成寺2


道成寺8

歌舞伎「京鹿子娘道成寺」の場面です。歌舞伎では花子という白拍子が女心を訴えながら、少女から大人の女へと変化するプロセスを踊りで見せるのです。
21:05  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.01.25 (Thu)

泉光院の足跡283 潮岬

三月一日 晴天。太地浦燈明崎へ行き、金毘羅並に觀音へ詣づ。夫より南の鼻諏訪明神へ詣づ。文化十三年御神託により勸請せりと云ふ。此二ヶ所に鯨捕りの遠見あり、五六人宛終日居て百里の遠眼鏡を以て鯨の居る所を見立て、梵天紙を振り方角を指し船に知らせる。遠方にて梵天紙見へざる時は火焚き臺に煙り立る所あり。一見して晝時歸る。種々馳走あり節句迄滯留せよと留められたれども、村中は皆鯨の油にて臭き事言語に堪へがたく、且快晴故に晝時より出立、先日立寄りし高嶋町又七宅へ宿す。夜話に大學の序を少々講ぜられタリ。子供の今讀み習ひに輪講するが如し。無用の辨ことごとくあり。然る故によく讀めたりと賞し置きたり。時分にはよく讀め學者と思ふているであらうと可笑しく思ふ。
燈明崎風景

左が太地浦燈明崎付近の風景です。
先端が燈明崎でしょうか。町の地図を捜してみたのだが、今はこのあたりには金毘羅さんも觀音さんも諏訪神社も見当たりませんでした。諏訪神社は泉光院がここへ来る2年前に建てたというのだがもう壊してしまったのだろうか。
燈明崎鯨記念碑
その代わりに「くじら記念碑」というものが建っている。
そして鯨捕りの遠見番所も観光用に新しく建てて、ここがかっては日本捕鯨発祥の地であったことを宣伝しているようです。
左が遠見番所。
燈明崎鯨番所
ここで番人が常駐して、100倍もの望遠鏡で鯨の来るのを見張っていて、鯨の姿が見えると、♪クジラが来たぞぉ-♪と、梵天紙、これは棒の先に御幣のような紙束を結びつけたものらしいのですが、これを振ったり、狼煙を上げたりして船団を組んで捕鯨に出かけるのでした。

…先日立ち寄りし高嶋町又七宅…というのは廿八日に太田川を下って大辺路街道へ出たときに泊めてもらった家です。なにしろ太地浦ではご馳走してくれた上に、…節句迄は滞留せよ…と言ってくれたのだがあまりの臭さに辟易して逃げ出したのです。
又七サンは学問好きで、「子曰く…」といった話が大好きな異人(変人)だったらしくって、泉光院に向かって『大學』の講義をした。始めの部分らしいから、「明明徳・親民・止於至善」あたりを子供に教え諭すように泉光院に向かって喋ったのだろう。輪講、という言葉は今でも学校で使っているけれども、昔から使っていたのだ。
四書のうちワタクシが読んだことのあるのは『孟子』だけで、大学・論語・中庸、いずれも読んだことがないのでここで解説などできないのだが、『大學』は儒教の基本文書で、政治家として(あるいは人間として)大切な徳を明らかにするところからはじまって、「修身斉家治国平天下」を説く書物のようです。今の日本の政治家には是非とも読んで「実行してもらいたい書物です。(政治家を志さない人は『孟子』を読むといいでしょう。とても面白い。ワタクシの好きな書物の一つです。)

黙って聞いていた泉光院は、…よく読めたり、…と賞めておいた。これが人とうまく接する心構えですね。
ここから先は古座浦から潮岬にかけて托鉢しながら歩いているだけです。
…今晩は一宿して當浦を托鉢せよ。…といってくれる老婆が居たり、大風雨でやむなく滞在して日記の清書や仁王護國經を唱えて過ごしたり、大したことはしていませんので省略しましょう。橋杭島夕景

右は橋杭岩。古座浦と潮岬の途中にある岩です。
やっぱりはじめてこれを見た時は面白くって、何枚も写真を写してみたりしたのだが、一枚で全部入りきれないので2枚をはぎ合わせるような事になってしまった。

七日 晴天。大西風。潮の御崎へ詣納經す。當所は紀州第一の南へ出張りたる所也。社一宇南向。一句、
   花咲くや潮の御崎の波の上
村を托鉢し藤兵衛と云ふへ歸り宿す。
潮岬灯台
潮岬は本州最南端。
北緯33°25'58" 東経135°45'45"の位置です。

いまは立派な灯台があります。この灯台の上から眺めると潮御崎神社が右の写真のように下の方に見えるのです。

潮御崎神社灯台から
泉光院がここへ来たのは新暦では4月11日ですから花の盛りでした。


先を急ぎましょう。潮岬を出て、

十日 晴天。江田村立、立の刻。峠二つ越へ濱邊へ出で、岩鼻を廿丁計り行き和深村と云ふに托鉢する處、臨月の家あり奥州鹽竈の護符所望に付遣はす、右に付安産の祈願し呉れ候様頼むに付一宿す、武平と云ふ宅。

奥州塩釜神社へ行った時、今の殿様、島津忠徹の奥方のために安産の御守り札を貰ってきて、…十五日 晴天。奥州鹽竈日本第一安産の御守札奥様御方へ差上げ…たのでしたが、余分に貰ってきておいたのでしょう、余ったのを有効利用してしまった。九州へ戻ってからも誰かに渡していたように思うから、たくさん貰ってきたのだ。
大辺路長井坂
右が串本から和深浦への道、長井坂です。
この坂を下りきると左の枯木灘の絶景。

大辺路枯木灘


大辺路街道なんてなかなか歩く事はない道だから、少々風景写真でも載せておきましょう。枯木灘の向こうが周参見(すさみ)で、ここから佛坂というのをを越えて、日置川町、白浜、と進むことになるのですが、

十五日 晴天。スサミ立、辰の刻。三里の峠を越へ安宅村と云ふに下る。然る處當所より大邊路街道本道なれど當時疱瘡流行の爲旅人通ることならず、因て濱通りと云ふに行く、此方は道惡るく遠し、然し據なく行く、日置と云ふに行き一宿。龜右衛門と云ふ宅。
大辺路日置川船渡し

と、たまたまこのあたりで疱瘡が流行っていて、佛坂越えの本街道は通行止めだったので、迂回して海岸通りを通って、日置(ひき)、いまの日置川町へ入って龜右衛門サン宅で泊めてもらいました。
本当なら佛坂を下って、左の写真、日置川へ出て船で渡ることになります。
この大辺路街道は古くから開けていた道ですが、平安時代から鎌倉時代にかけての上皇や貴族たちはここをあまり通らず、田辺から山中へ入る中辺路を主に通っていたようでした。
こっちの道は難路ですが海岸から望む太平洋や、リアス式海岸の景観が素晴らしいので、近世の物見遊山の旅では好まれた道です。

十七日 晴天。シンサイ村立、辰の刻。又峠を越へ富田村と云ふに出づ、此所は伊勢より八鬼山、熊野大へち等山中八九十里の間の山中を通り抜けて平原の地也。當地六右衛門と云ふに宿す。
大辺路富田坂

右が富田坂(とんだざか)。大辺路街道の難所です。
伊勢路からここまでずっと難所の連続でした。



富田坂を越えると、伊勢路から大辺路街道の長かった難所もほぼ終わりを告げて、
…平原の地…になりました。
大辺路富田坂から白浜

左は富田坂から白浜を見下ろした所。彼方に平原の地が見えていますね。


十八日 晴天。滯在。洗濯する。熊野本山山伏とて三人計り托鉢に見へたり。然る處予が笈を見て修驗と見たるゆゑ、風呂敷より袈裟を出して掛け、予に向ひ、此の方共法衣着したる所、我々共を見下げ白衣にて御あしらいやといじりかけたり。予云ふ御覧の通り洗濯半ば故物も取敢へず失禮也とて手洗ひ法衣を着したり。尚改めて、各々方には本山修驗方と見受け候、本山方にては歩行の節、柴折は御用ひなきや、無刀にての御歩行、是れは修驗當本共に相用ふる事同様の事也、相用ふべき事十二道具の一つ也、何故御用ひなきやと云へば、そこそこの返答にて居られたり。又峰中十界修行並に金剛經二王の義相尋ね候處一切不相分、初手のグズリ掛けの上は餘所になり直ちに出立せられたり。

ここで本山派の山伏と鉢合わせして、ちょっとした諍いが発生したけれども大したことではないので省略しましょう。「柴折」は短刀のことで山伏の所持品の一つだが、相手が持っていなかったようなので喧嘩もこれでお終いになったようだ。
13:11  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.01.20 (Sat)

泉光院の足跡 282 鯨

泉光院は熊野三山を、…數度上る故に委細は記さず、…だったがyorickとしては委細を尽くさなくっちゃならないと思ったので詳しく書いてしまった。
熊野詣を済ました泉光院は、
…那智山の南の半腹を行くこと半道にして山八合目に平野と云ふ所あり、爰(ここ)に一軒かしこに二軒、鹿猿を友とする山中也。此所武平次と云ふに宿す。…
と相変わらず山伏的歩きぶりです。

廿七日 晴天。大井村立、辰の下刻。下に大河あり、船渡り、和田村甚太夫と云ふ社人宅へ笈頼み置き托鉢す。今晩一宿せよと申さるゝに付宿す。
廿八日 晴天。和田村立、辰の刻。川を下り高崎村と云ふに行く、此所大ヘチ街道也。…

太田川を船で渡って下流へ下ると大辺路(おおへち)街道へ出ます。
熊野参詣道地図

右がおおざっぱな熊野参詣道。
東の伊勢神宮から南へ濃紺色の道が「伊勢道」。途中で本宮と新宮の別れ道がある。
大坂から紀伊半島西岸に沿って薄青色の道で南に下るのが「紀伊路」で、
紀伊道の途中、紀伊田辺あたりで別れて黄色の「中辺路 なかへち」経由で本宮へ行く道と、そのまま南へ下って串本経由で那智大社へ行くのが緑色の「大辺路 おおへち」。高野山から本宮へ行く道が赤色の「小辺路 こへち」。
このほかに奈良県の吉野山から大峰連山を縦走して本宮へ出る「奥駈道」というのがあるのだが、これは泉光院のような山伏専用道路なのでこの地図には入れてありません。
泉光院の今度の旅は、伊勢路から入って、本宮、新宮、那智大社の順でまわって、大辺路へ出ました。これから和歌山まで紀伊路をたどる事になります。

廿九日 晴天。下里村立、辰の刻。峠を越へて太地浦へ行く。佐土原自徳寺住隠居眞龍和尚の廟所へ詣で追善一句、前あり略す。
   霞彩擁墳處 朦朧月色空 七年刹那夢 唯殘花前風


こんな所に佐土原自徳寺にいた住職の廟があった。お詣りをして墓前で五言絶句を作った。おおざっぱに意訳してみましょう。
…七年の間放浪の旅をしていたのだが、こうして死者と対面しているとそれも刹那の夢の如きもの。眼前には櫻花が散り初めているのを見るばかり。…
(この日は新暦に直せば四月四日です。櫻の花も盛りを過ぎていた。)

…夫より俗縁淺右衛門と云ふを尋ね行き一宿す。主人淺右衛門一句、
   聞及ぶ今日ぞ始めて花の客
予續墨して、
   風和らかに軒の麗か
謝して一句、
   花よりも猶言の葉の匂ひ哉
又、
   色も香も蕾に見へし花の宿
主人續墨、
   かなたこなたとさがす獨活(ウド)の芽

こんな所に友人がいたのだ。久し振りにいい句のやりとりをしています。季節がおだやかになって、櫻も咲いて、友人と句のやりとりをする。こんなに楽しい事はない。

…當所一昨日鯨四匹上る。大は長さ十二尋(ひろ、長さの単位、両手を一杯に伸ばした長さ、約六尺=1.8m)、中小、五尋、六尋、七尋あり、因て浦中賑々し。千軒計りの所皆鯨の油を取る、代金凡千兩と云ふ。乍然(しかしながら)殺生の商売宜しからず、千計りの家宅皆々貧家にて家破れ壁落ち居る也。鯨取りの次第は事多き故に爰には略す。

太地浦へ来ました。ここは日本捕鯨発祥の地。12世紀末の源平の争いの頃に発達した「熊野水軍」は、始めは平氏に荷担していたのだが、時勢を読んで源氏方について壇ノ浦の合戦で源氏の勝利に貢献した。その後太平の世が続くとこんどは捕鯨業に転職してその名を高めたのです。熊野浦捕鯨圖
右は捕鯨の圖。

鯨の捕り方について書きましょう。
江戸時代の初め、鯨を網に追い込んで捕る大がかりな捕鯨法が考案されました。
一組40人ほどの刺手組が4艘から5艘の船に乗り込みます。まず頭に網をかける。これが一番最初の大きな仕事です。だいたい3重くらい網をかけると、もう鯨は網を破る力がなくなって泳ぐ速度がグッと落ちるんです。そこへ勢子組というのが押しかけて一斉に銛を投げる。何本も銛を刺して、鯨の勢力が衰えたところで、人間が鯨の背中に飛び乗って、刃刺し包丁で鼻の下の所へ穴を開けます。そこへ綱を通して括りつける。もう一つ、鯨の下側へまわって心臓を突きます。これで鯨は参ってしまう。すると持双(もっそう)という船が二艘寄ってきて、大きな丸太に鯨を括りつけて海岸まで曳いてくる。
浜へ引揚げると、まず包丁で切っていって厚い白い皮の脂肪を煮て油を取る。
鯨の油は揚げ物にもいいのだが、主として灯油に使いました。油を取った滓はコロといって美味しいので関西の人は大変喜びます。
次に赤身のいい所は船に積んで兵庫まで持って行く。とにかく四丁艪か八丁艪で漕ぎだして、人数は倍乗って交代しながら全然休まずに漕いで、潮岬を越えて一気に兵庫まで漕いで行く。そして兵庫で「番取り」ということをする。どの船も一緒に行くので浜へ着くと同時に提灯を持って問屋へ行って、最初に提灯を投げ込んだのが一番になる。それが大阪の雑魚場で鯨を売る時の順番になるのです。少しでも早く売れれば肉が傷んでいないから高く売れる。(氷はこの時代まだありませんでした)
九州の方だと、大消費地である大阪まで運搬するのに時間がかかるから塩漬けにする。塩漬けにして長く置いた赤肉はどうしても臭みが出るからあまり喜ばれないのです。
販売用の肉を取ったあとの、骨の付いた肉は地元で消費するのだが、一斗樽の中に肉を削って入れて塩で漬けておいて、殆ど一年間くらいは食べる。
残った骨は叩いて割って、次に臼に入れて搗くのです。これは燐酸カルシウムを含んだ大変いい肥料になる。太地や土佐のものは大阪平野で綿の肥料になり、九州のものは鹿児島の煙草の肥料になった。
鯨のヒゲはゼンマイの材料になって、いろんな細工物、例えば飛騨高山の屋台のからくり人形の動力になったり、和裁の物差、「鯨尺」の材料になったりする。竹の物差と違って、ささくれが出ないから滑りが良くて絹物も傷めないのでいいのです。

このように鯨はすみからすみまで全部利用できたので、一頭捕れれば七浦賑わう、といわれたほどでした。
泉光院が来た時には4頭も捕れて村は賑わっていた。大きいのは22mから中小のでも13m~9mもあった。
…代金はおよそ千両…というのは4頭全部なのか一頭平均の値段なのか詳しいことはわかりませんが相当の大金です。これだけ上がれば村はずいぶん豊かになるはずなのに、非常に貧乏だった。捕鯨は九州の五島列島や土佐の室戸あたりでも盛んで、しかもこっちの方は割に経済は豊かであったらしい。そうすると太地が貧乏であったというのはやはり制度の問題じゃないかと思うのです。誰か悪い奴が居て、バクチ場を開いて吸い上げるとか、花街を大規模にやって吸い上げるとか、そういう社会構造があったのではなかろうか。

鯨は昔の日本人の生活に深く結びついていたもので、以下、鯨のついた言葉を並べてみました。

鯨帯  片側が黒繻子、片側が白の博多織で作った帯。鯨の皮の黒色と腹の白色を重ねた色を鯨に見立てて名付けた。
鯨餅  道明寺粉などで作った竿菓子。鯨餅
上の一面が黒くて鯨の皮に似て、下の方が白くて鯨の脂肪層に似ている(右の写真)。
ワタクシはこのお菓子が大好きで、出張などで各地のお菓子屋さんを廻って見つけたら必ず買います。
鯨汁  鯨の白肉、つまり脂肪層を入れた味噌汁。
鯨熨斗 鯨の筋肉を精製したもので、三杯酢とか吸物にして賞味する。博多名物。
鯨幕  黒と白の布を一幅おきにはぎ合わせ、上縁に横に黒布を配した幕。凶事用。
鯨尺  布を測る物差。和裁に用いる。鯨尺の一尺は曲尺(かねじゃく 建築用)の一尺二寸五分(約38cm)。鯨のヒゲで作る。前に書いておいたように絹物などの布を傷めない。鯨尺一寸
右の写真、下が鯨尺の一寸四分ほどが写っていますが、鯨尺の一寸と、上のcmとあわせてみると3.8cm程になっているのが判るでしょう。

太地には鯨捕りの出稼ぎが各地からたくさん来ていました。ここで働くと、一日に米が四合もらえる。そのうち二合を食べて、足りない分は鯨の肉とサツマイモを食べる。そうすると10月から春5月までの稼ぎの期間に5斗ばかり残る。これを故郷へ持ち帰るのが出稼ぎの大きな目的でした。
またこのような大きな産業を支えるためには、直接船に乗り込む漁師ばかりではなくて、船の建造や修理をする船大工、桶を作るための樽屋、網を作る網屋、銛や釘を作る鍛冶屋、といったさまざまな技術者集団も必要だし、管理や販売を担当する組織も必要だったでしょう。太地の鯨漁の組織は和歌山藩の支配下ではなくて、和田一族というのが管理する独立の経営体、つまり今でいう「民営」だったのでした。
だが明治11年(1898)、111名の犠牲者を出す大惨事があってここの鯨方の組織は崩壊してしまいました。
くじら浜公園
いま太地町には、くじら浜公園、くじらの博物館、捕鯨船資料館、くじら供養碑、鯨方漂流記念碑、鯨浜トンネル、etcと鯨でいっぱいです。右がくじら浜公園、左がくじらの博物館の天井から吊してあるクジラの実物大模型
(体長15mのセミクジラ)。
くじら博物館鯨の模型

太地の町はクジラで一杯です。

泉光院が…鯨取りの次第は事多き故爰には略す。…と書いてしまったので、代わりにワタクシが略しないでいっぱい書いてしまった。
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2018.01.19 (Fri)

日記 2018年1月

年賀2018
1日 月 1020hPa 晴
ワタクシのブログを見て下さる方々に謹んで申し上げます。
あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
福梅と千歳2018
お正月のお菓子でございます。
福梅(上のお菓子)と千歳(下のお菓子)です。
お正月らしく淡い紅白の甘いお菓子。
お雑煮角餅2018

お雑煮もいただきましょう。

いいお正月をお迎え下さい。


2日 火 〇 1020hPa 〇
スヌーピーとニッパー
今年は戌年、ワタクシは戌年生まれ。
スヌーピーとニッパーです。
ニッパーはHis Master's Voice を聴きいっている犬。ビクターレコードの商標になっている犬。
両方ともワタクシの好きな犬。
椿姫観音堂建物
3日 水 1020hPa 晴 初詣のつもりで椿姫観音へ行きました。この人は浜松城ができる前の、曳馬城主飯尾豊前守の奥方であった人で、お田鶴の方という人が祀られているお堂です。
椿姫観音像写真
左がお堂の中に祀られているお田鶴さまの写真。
詳しいことを知りませんので、いずれ調べておきましょう。
残りは町内にある神明神社で、神明さまだからアマテラス、もう一つ、火伏をしてくれる秋葉天狗を祀ってある秋葉神社。
これだけ初詣のつもりでお詣りをしてきた。

4日 木 1020hPa 晴 お散歩で四つ池公園。
四つ池公園2番目鴨
写真は上から2番目の池。鴨がたくさん泳いでいる。

5日 金 小寒 1015hPa 曇。 一日中曇で、一日中一歩も外へ出なかった。こんな日は珍しい。
6日 土 1016hPa 晴
hiro.サンとmiho.サンからメールをいただきました。
老齢の男にとって、美女からのメールはとても嬉しいことです。
ありがとうございます。
7日 日 1019hPa 晴。「にごり酒」というのを買ってきて飲んでいます。とても美味しいのでちょっと吞みすぎたようだ。
8日 月 1010hPa 雨、一日中。
お散歩の帰り、ギャラリーショップ遥懸夢が開いていたので立ち寄りました。イスタンブールの盃
Akh.サンもいたので、オーナーの方と少々お喋りをしてから図書館へ行ったのでしたが、ちょっと気になったのでお店へ戻って、右のものを買いました。\500
オーナーの方がイスタンブールで買い求めたものだそうです。
とりあえず昨日のにごり酒がまだ残っているのでそれを入れて飲んでみましょう。
他にもいろいろ日本では珍しいものもお持ちのようで、時々立ち寄ることにしましょう。
9日 火 1016hPa 曇→晴 風強 半僧坊道、追分から下る。追分一里塚から遠鉄自動車学校まで。道端には磨り減ったお地蔵さんなどが並んでいる。
半僧坊道端地藏
Gemサンから「年男には別バージョンの年賀状も出しているので送りますね!!」で、戌年の出来事を列記した賀状が届いた。
「BC586バビロンの捕囚」から「1994南ア、マンデラ政権成立」まで、さまざま。
10日 水 1014hPa 晴
今年初めてPaoで珈琲。塩崎サンも来る。
えり子サンから沖縄土産の「らんすこう・ショコラ」と「くるみ黒糖」というお菓子、塩崎サンから「パン・オ・レザン」というレーズンパンと手作り見事なベーコンを戴く。何だか貰いに行ったようで心苦しい。
もらいものえり子塩崎

だが写真に写しておくとちょっと豪華でいいですねぇ。
楽しんで食べましょう。


11日 木 1015hPa 晴。ワルツで珈琲豆。クラシック・モカ・マタリを240g、ロイヤルマウンテンを120g。紅茶はアールグレイを一箱。
甘酒を造るつもりで麹を300g買ってきた。夜10時頃から甘酒造り、もち米1合5勺でお粥を炊く。美味しいおかゆができた。麹と混ぜて約60℃で保温。明日が楽しみ。
12日 金 1021hPa 晴 遙懸夢へ立ち寄ったらAkh,サンからお菓子を頂いた(右)。ありがとうございます。Akhサンお菓子

Paoで珈琲。
1月12日ハルケムの絵と珈琲
ハルケムで買った絵

向こうの壁にかけてある絵は遥懸夢でえり子サンが買った絵。とてもいい絵です。手前はワタクシの飲むコーヒー。
13日 土 1026hPa 晴 遥懸夢へ立ち寄りオーナー(山田サンといったかな)と少しお喋り。
14日 日 1028hPa 晴 上島のScineで珈琲。風もなくお散歩に好適。
15日 月 1028hPa 晴 普済寺、西來院など禪寺を歩いた。築山御前のことを少々。築山午前墓碑西来院
岡崎にいた松平元信、後の徳川家康が今川家の人質になっていた頃に結婚して、長男信康、長女亀姫を産んだ。家康が岡崎城主となったとき、城内の築山御殿に住んだので築山御前と呼ばれるようになった。織田信長と徳川家康との間の政治的駆け引きと、岡崎城内に於ける徳川家内部の派閥抗争の間で、身に覚えのない「謀反人」扱いをされて、佐鳴湖の湖畔で殺されてしまった。右が西來院にある築山御前の墓碑。
16日 火 1023hPa 晴 Paoで珈琲。
月世界一個
塩崎サンが富山銘菓「月世界」をワタクシに、とえり子サンに預けてあったのを戴く。

17日 水 ● 旧暦12月朔日 1016hPa 雨  Paoで珈琲。
18日 木 1010hPa 晴。 昨年末、浜リコ クリスマスケーキの時の写真をNby.サンの所へ届けに行った。

My birthday. 84歳になりました。思えば長く生きたもんです。
幼時は虚弱でしかもエサのない時代だったのだから、今まで生き延びたのが不思議です。
思い切ってワインを買ってきた。 「Chateau Mont-Perat 2012」、ボルドーの「モン・ペラ」というフルボディのワイン。
ワインMont-Peratワイン他いろいろ

他にも日本酒は「菊姫」限定品、ジンはTanqueray、リキュールにオレンジ系のクレーム・ド・ジュレ。
ワイン誕生日
今夜は飲みましょう。


一人静かにいいワインを飲むのは愉しい。


19日 金 1016hPa 晴 
Gemサンに先日ワルツでもらってきた紅茶、アール・グレイをお渡しして、舞坂産の焼海苔を戴いた。
近日中に今年の味噌作りを始めるつもりなので、道具や鍋などのチェックをした。
久し振りで近所にあるかかりつけの医者へ行った。
お薬手帳をチェックしたら昨年7月に一度行ったきりだった。
かなり前に血圧が高い、と言われて、治療薬ディオバンというのを一日一錠飲む事になっていて、4週間分ずつを貰っていたのだが、半年かけてようやく無くなったので貰いに行ったのでした。(余程飲むのをサボっていた事が判ります)
血圧のチェックと、心臓の動きをチェックして貰って、血圧は136/75 程だったので、マアマアいいでしょう!ということになった。そして実は昨年7月に受けた健康診断のデーターをまだ貰っていなかった事が判明して、それを貰ってきた。
結果の概要を書いておきましょう。
尿検査 : 尿糖 - :  尿蛋白 ++
血中脂質: 中性脂肪 154 (150以下):
      LDLコレステロール 113 (120以下) HDLコレステロール 56 (40以上)
肝機能検査: AST〔GOT〕=20 ALT〔GPT〕=18 γ-GT=24 何れも全く問題なし。
血糖検査: HbAlc=5.7% (5.6以下)
その他幾つかの検査項目は殆ど問題はないようだった。今年も7月頃に受けてみる予定。
20日 土 大寒 1017hPa 晴 麹を買いに行く。
米麹1kg、¥1150。北海道十勝産黒大豆1kg、\1200。塩420g,\140。合計約\2500。
21日 日 1018hPa 晴 
第1回味噌作り。朝5時半頃から10時頃まで。約4.6kgの味噌が出来た。
1kgあたり約\540程か。遥懸夢土鍋店
第2回は23日を予定。

遙懸夢で土鍋展(右の写真)。
作者は中村文夫という人。

22日 月  1019hPa→1014hPa 晴
明日2回目の味噌作りを予定して、麹を1kg買ってきた。
23日 火 晴 2回目の味噌つくり。
24日 水 雨/曇 Paoで珈琲。
25日 木 1013hPa 晴 麹を買いに行く。味噌用と甘酒用。
夜、ハイドンのオラトリオ天地創造を聞く。この音楽は金沢大学合唱団の定期演奏会でワタクシが指揮をした曲。
Die Himmel erzehren die ehre Gottes, で始まる(ような気がする)。懐かしい。
26日 金 1014hPa 晴 本年3回目の味噌作り。 約4.5kg出来る。 Paoで珈琲。
甘酒もとても甘くできました。あとで攪拌カッターで麹や米粒を粉砕したら、さらに甘くなった。
27日 土 1020hPa 晴 あす4回目の味噌作りの予定。 準備をしていたらNHK交響楽団の演奏、ホルストの The PLANETS (惑星)を4曲目、木星からしか聞くことができなかった。
28日 日 1019hPa 曇 味噌作り。全部で約18kg出来た。これで2020年夏頃迄の味噌が確保できた。
味噌つくり道具味噌つくり豆を煮る


左が道具類。右、圧力鍋で軟らかく煮た豆。豆は北海道十勝産の黒大豆。
味噌つくり捏ねる

塩と麹を入れてこね上げた味噌。

豆 1kg 麹 1kg 塩0.4kg でほぼ4.5kgの味噌が出来る。


今日は秋葉神社の年に一度の大祭。この日に浜松中のお正月飾りがここに集まる。
秋葉神社祭礼前通り

ワタクシの家の前通り。このあたりから露店が並ぶようになる。


秋葉神社祭礼鳥居前

神社の前は道の両側いっぱいに露店が並ぶ。
秋葉神社祭礼鳥居前2

右が神社の鳥居前。


この神社では「管粥神事」というのをやって、作柄を神様に占って貰う神事が行われます。今年の作柄は次のようでした。
秋葉神社祭礼作柄
春作 七分三厘、 夏作 六分九厘、 秋作 七分〇厘
これが今年の神様のお告げでした。秋葉神社御札

この神社では火災除けの御札も頒けています。
古い御札をお正月の玄関飾りなどと一緒に納めて、新しい御札を買ってきて台所の一隅に貼りつけるのが長い間の習慣になっております。



29日 月 1017hPa 晴 Paoで珈琲。
30日 火 1018hPa 晴 Paoで珈琲。塩崎サンも来ていた。

31日 水 ◯ 1025hPa 晴 Paoで珈琲。ユリシーズを持って行く。渡辺サンに貸すつもり。
英語と写真の入っている方はえり子さんに貸す。月食1月31日部分皆既
今夜は満月でしかも皆既月食。20時現在東天かなり高く月が上っていて周囲には雲がなかったのだが、皆既になるころに雲が出てスッキリとは見えなくなってしまった。
月食1月31日皆既

写真は朝日新聞2月1日朝刊から頂いた。
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