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2018.04.06 (Fri)

金澤の食べ物 春03 岩魚

犀川の近くで育ったヨリックにとって、犀川という川は懐かしい川です。
室生犀星もこの川の畔、雨寶院というお寺で二十余年の春秋をすごして詩人というものになり、こういう詩を残しています。

    犀  川

  うつくしき川は流れたり
  そのほとりに我は住みぬ
  春は春 なつはなつの
  花つける堤に坐りて
  こまやけき本のなさけと愛を知りぬ
  いまもその川のながれ
  美しき微風ととも
  蒼き波たたへたり

ワタクシも20余年をこの川の畔で生きていたのでしたが、いまはふるさとの地を離れて異土に老残の姿を曝しているので、犀星のこのような詩が心に響きます。

  ふるさとは遠きにありて思ふもの
  そして悲しくうたふもの
  よしや
  うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても
  歸るところにあるまじや   ………

犀瀧地図

犀川をずっと遡ると犀瀧という大きな瀧があって、そこは人もなかなか寄せつけない所だ、という伝説がありました。伝説というものは魅力のあるものでして、人を寄せつけない、と聞けば無性に行きたくなるものであります。ある時ワタクシの勤め先の数人でそこへ行くことにしました。

犀川はその源を石川県と富山県の県境に聳えている、見越山(1621m)、奈良岳(1644m)、奥三方岳(1601m)に囲まれたあたりに発します。右の地図、右下の方に小さく赤丸をつけたのが「犀瀧」。そこから左上に向かって延びている線が「犀川」。金澤市街中心部は犀瀧のある場所から北北西に25km程の場所になります。
この地図で一番左上隅のあたりが、覗という地名の村落があってそこまでバスが行きますからそこがスタートになります。
犀川上流河原
道がある間は道を歩けばいいのだが、沢登りというのは道のない所を歩くのが常なので、こういう広々とした河原を歩くことが出来る間はとても気持ちがいいのですが、次第に渓谷は狭くなってきます。
日も暮れてくるので、その前に寝る場所を捜さなくちゃなりませんし、食べる物も採らなくちゃなりません。

このあたりの山や谷には自然の恵みというのか、食べる物はとてもたくさん採れるのです。春にはワラビ、ゼンマイ、ウド、フキ、といった食べられる野草が採れますし、秋になるとキノコやクリ、クルミ、それにアケビは到る所にぶら下がっています。お魚も、イワナが(昔は)たくさん釣れました。
だから山の人たちはいろんな所に小屋を造っておいて、採ったそれらの食べ物を、茹でて乾燥して、商品にして市場に出せるように山中の小屋で加工をしているのです。イワナなども焼いておけば日持ちもしますし、たくさん釣っても運搬に便利です。そしてそういう小屋をワタクシたちは一夜のねぐらに借用して、山中をウロウロするのでした。犀瀧森本魚釣り

日の暮れる前にお魚も釣っておきましょう。

犀瀧泊まった小屋
泊まった小屋と、泊まったメンバーたち。ワタクシは右から2番目。

犀瀧鮎とヨリック



お魚がたくさん釣れるとウレシイ。
お魚を見上げて喜んでいるのはヨリックその人であります。



犀瀧小屋の中



小屋の中は広々としているし、大きな囲炉裏もあるし、タキギもたくさんあるのです。飯盒でご飯を炊いて、釣ったお魚を焼いて、腹一杯ご飯を食べて、、囲炉裏の廻りで寝袋に入れば安眠熟睡疑いなし。

ここから先はいよいよ本格沢登り。


右の大きな石の上から下へ降りて、真ん中の岩の下の隙間から左の岩へと移動するのです。
犀瀧巨岩を通る

落ちたら命はありません!


犀瀧雪渓



ここまで来ると雪も残っております。これだけの厚みがあれば上を歩いても絶対安全。落ちる心配はありません。川の水は岩の下や雪の下でゴウゴウと響いています。
犀瀧正面

目指す瀧が見えてきました。大きな瀧です。


もっと近づいてみましょう。

犀瀧側面

立派な瀧ですねぇ。
しばらくは呆然と眺めておりました。





滝の脇を上がってみるともうそこは岩ばかり。
犀瀧瀧上

これで今度の犀瀧見物の旅は終わりました。



もう少し高い所へ登ってみました。
向こうに見える山は口三方岳。犀瀧口三方岳

その左にまだ真っ白に雪をかぶった白山があるのだが綺麗には写っていませんね。

口三方岳の向こう側には実は「石川県石川郡河内村字下折( かわちむら あざ そそり )」(今は石川県白山市河内町下折、と呼び方が変更になってしまった)という今はもう廃村になってしまったかも知れないのだが、むらがあるのです。そしてそこはワタクシの母親が生まれ、死んだ(そしてワタクシもそこで生まれた)村なのであります。ワタクシの記憶のために書いておきます。先に載せておいた地図の一番左下に小さく赤丸をつけておいたのが下折という村の場所。
ワタクシのブログ、正式名称である 《http://azasosori.blog.fc2/》もこの下折という村の名前から取ったのでした。
いわなの骨酒L


お待たせしました。
この項の題目である「岩魚」です。
焼いてお酒を入れた「骨酒」です。
お酒がグッと美味しくなります。

21:25  |  金澤  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.04.05 (Thu)

泉光院の足跡 297 玉虫厨子

法隆寺には聖徳太子由来の宝物がたくさんあります。
法隆寺聖霊院
初めて行った時は左の写真、聖霊院の建物の前を通って宝物館へ入ったのでした。
その後大寶藏院という新しい建物ができて主な寶物はみんなそこへ納められて展示されるようになりました。
一時期、奈良国立博物館に百済觀音が展示されていた時がありましたが、それは大寶藏院が出来てそこへ百済觀音を納めるまでの一時的なことだったようです。
新しくできた大寶藏院へ入ってみましょう。
右が新築間もない頃の大寶藏院。
法隆寺大寶藏院外観
入口から時計回りに、金堂壁画(模写)、夢違觀音、玉虫厨子、正面奥に百済觀音。次に橘夫人鮨、百万塔といったものがあり、金銅佛や塑像、絵画、刀剣、染織、といったこまごまとしたものも同時に見ることが出来るようになっている。
さすが國寶・名寶ぞろいです。
法隆寺夢違観音

夢違觀音という謎めいた名前の觀音菩薩立像。
7世紀頃に作られたらしいこの優しい顔立ちから、悪夢を善夢に変えて下さる、という信仰が生まれたらしく、この佛像が立っている蓮華座(足の下の土台)は元禄七年(1694)に江戸の太子講の人々がこの像のために作って奉納したのだが、その頃には夢に関して霊験のあることが知られていて、「夢違觀音」の名前が付けられていたということです。

右は玉虫厨子。法隆寺玉虫厨子

金銅飾り金具の下に玉虫の羽を貼りつけて飾ってあるので玉虫厨子というのだが殆ど剥落しているようだ。
内側の右側面には「捨身飼虎圖」、左側面には「施身問偈」という図が描かれている。
両方とも「本生図」。、すなわち釋迦の前世における善行の物語です。

法隆寺玉虫厨子捨身飼虎図
左は捨身飼虎圖。
マカサッタ王子が2人の兄とともに山中に狩りに出かけ、7匹の仔を生んで親子共々餓死しかかっている虎に出会う。これを見た王子はこの虎を救おうと決意して、恐怖する兄たちを帰し、この絵の一番上に書かれているのは、自ら高所に登って着物を脱いで木の枝に掛け、真ん中の絵の所で虎の前に飛び降りている場面、そうして一番下の絵では、飢えた虎に食われている場面。この時天地は王子の行いに感動して鳴動賛嘆し、この王子は後に生まれかわってお釋迦さまになるという説話。

「施身問偈」という説話は、雪山(ヒマラヤ)で修行をしていたバラモン僧が、あるとき山中で怖ろしい姿の羅刹に出会ったのだが、「諸行無常、是生滅法」の二句を唱えるのを聞いて、残りを是非聞きたいと願う。それを聞いたらお前は死ぬぞと羅刹に言われるのだが、もし聞くことが出来れば命は惜しくない、といい、残りの二句、「生滅滅已、寂滅為楽」を聞いて岩に書き付けて、こうしておけば後世の誰かが知るだろうと言って羅刹に命を与えようと崖の上から飛び降りる。所が実はこの羅刹は帝釈天であって、そのバラモンは釋迦の前世であった、というのです。
弘法大師はこの句をわかりやすいように、「いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやかけふこえて あさきゆめみしえひもせす」と日本語に訳した、ということになっています。

法隆寺橘夫人厨子
右は橘夫人厨子。
橘夫人ってどんな人だか知らないのですが(光明皇后の母だともいわれている橘三千代?)、この厨子を寄進した人だそうです。
法隆寺橘夫人厨子菩薩像
扉には実物は殆ど見えないらしいのだが、右のような觀音と勢至(だと思う)の2菩薩像が描かれています。
厨子の中には橘夫人の年持佛と伝えられている阿彌陀如來と兩脇侍が納められています。当時の最高技術を駆使した品物のようです。

いよいよ百済觀音の名前で知られている觀音菩薩立像です。

この像は大寶藏院の一番奥の中央に立っていらっしゃいます。
法隆寺百済観音三態
百済觀音三態です。

この像はしばらくフランスはパリで展示されていて、1995年に帰国してからも大寶藏院が出来るまでの間奈良国立博物館で展示してありました。
博物館正面入口を入って真ん中の広間にガラスケースに収まっていたので、このようにいろんな方向から見ることが出来ました。
その時のことを思い出したので三態の写真をまず載せておきます。

普段薄暗いお寺の中でしか見ることの出来ない佛像と違って、明るい会場で、身体の隅々まであらわになった佛像を見るのはちょっと気恥ずかしい気持ちでありました。

もう少しこの佛像の像を載せておきましょう。
法隆寺百済観音全身正面
法隆寺百済観音お顔法隆寺百済観音水瓶を持つ手

水瓶を持つ手、
お顔、
正面全身像です。


飛鳥時代に作られた像です。乾漆がかなり剥落しているのだがお顔の輪郭や水瓶を持つ指先の柔らかで優美な曲線は美しいですねぇ。
14:02  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.04.01 (Sun)

金澤の食べ物 春02 ごり

金澤を代表する食べ物のひとつが、「ごり料理」。
ごりをとる犀川
市内を流れる犀川、浅野川でいまでも多少は鮴(ごり)という魚が取れる。

左の写真は犀川。ごりを捕っているところ。
見えている橋は櫻橋。
この橋の右の方は金澤市街中心部の方、本多町から兼六園の方に通ずる道で、橋を渡って左の方はダブリュ坂を上がって寺町になります。

W坂

ワタクシの通った高校は寺町台にあったのと、ワタクシの家は本多町に近い下主馬町という場所なので、学校への往復はこの橋か上流にある下菊橋のどちらかを通りました。ダブリュ坂はWを横に倒したような石段の坂です。
この坂を登り切って真っ直ぐ行くと突き当たりが寺町。
その名の通り両側には大きなお寺がズラッと並んでいます。

その間に戸水屋というお饅頭屋がありました。
五色生菓子日月山海里



そのお店で売っていた「五色生菓子」。
この生菓子は、天地自然の姿を現したものと言われております。
左から、【日・月・山・海・里】と名前がついている。



日 : アンコの入った白い丸餅の一端を紅色のいり粉(米の粉)で半円にまぶして日の出を現す。
月 : 白いお饅頭に黒ごまをちょっとだけくっつけて月面を行雁(ゆくかり)の意を表す。
山 : 山の幸である毬栗(いがぐり)で、餅一面にまぶされた「いがら」はクチナシで黄色に染めた米粒。
海 : は菱形に調えた餡餅で、海の波の重なりを見せています。
里 : 村里に拡がる水田の土の色を表現した蒸し羊羹だが、角をおとして縁起よく丸く仕上げました。
五色生菓子蒸籠
門前に積み上げられている蒸籠の中味はこの五色生菓子です。
このお家では今日お嫁さんを迎えるのです。
嫁いできたお嫁さんは、お姑さんに手を引かれてご近所に挨拶回りをするのですが、その時にこのお菓子を縮緬の袱紗をかけた蒔絵の重箱に入れて持参するのです。


五色生菓子重箱
この風習の始まりは、慶長五年(1600)、前田家三代の利常に、江戸幕府三代将軍家光の娘珠姫がお輿入れの折のことと伝わります。この時の利常チャンは5歳、珠姫チャンは3歳。カワイイ盛りの結婚式です(珠姫についてはいずれまた登場して頂くつもりです)。前田家としては徳川将軍の娘を嫁にもらうのだからずいぶん気を配りました。菓子司樫田吉藏に命じてお菓子を作らせたのです。この時吉藏は特に容器を吟味して、塗り物の五重の容器に納めて奉納したのがことのほか喜ばれて、以来、加賀の生菓子として武家町人のへだてなく慶事のお菓子として用いられるようになったのでした。
このお菓子は、ワタクシの家のあった犀川寄りの家では戸水屋で誂えましたが、浅野川寄りのお宅では越山というお饅頭屋に注文しました。
金澤では昔から住んでいる場所によってお買い物をするお店は決まっていたようで、ワタクシの家ではお茶は野田屋、お肉は天狗というお店、と決まっていて、子供の時にお買い物に行かされたことを覚えております。

ごり料理の話をするつもりで犀川、櫻橋の写真からずいぶんそれてしまいました。
ごりの唐揚げ佃煮ごり汁
櫻橋を渡ってダブリュ坂を上がる手前の右に「ごり屋」という料理屋がありました(このお店はかなり早くになくなりました)し、浅野川方面では天神橋のもう一つ上流の常盤橋のたもとに「ごり屋」があって、こちらは今でも営業しているはずです。
右の写真、手前左から佃煮、唐揚げ、汁。
これは自宅で作る場合のごり料理です。
最後に簡単にレシピを書きましょう。

ごり屋でお食事をしましょうか。
ごり屋お座敷
ごり屋のお座敷です。

ごり屋骨酒


まず、ごり酒。


このお魚は鰍(カジカ)に属する小魚で、せいぜい7~8cmほどの小魚です。
最近、デパートや土産物店で「ゴリの佃煮」という物を売っていますが、あれは(殆どの場合)偽物で、ハゼ科の小魚を佃煮にしたものです。本物の鮴ではありません。本物は写真のお酒の中に浮いているお魚です。お目にかかるには多少お金がはりますが、ごり屋のお座敷に上がるしかないようです。
誰かが「室生犀星の、ゴリのように三角に尖った顔」と書いていた。たいそう失礼な言い方だが、それを読んでからというもの、ワタクシはゴリという文字を見ると犀星の顔を、室生犀星という文字を見るとゴリの三角に尖った顔が目に浮かぶ。

昔は町内会などでみんなで川へ入ってゴリを捕って、河原で大きな鍋でゴリ汁を作ったり天麩羅を揚げたりして、大人たちは酒盛りをしていたらしいのですが、ワタクシが物心ついた頃にはもうそんな事をやっている情況ではなかった。南京陥落祝賀提灯行列、紀元二千六百年奉祝花火大会、それからあとは御存知戦争一色。

ごり屋では九谷のお皿や輪島塗のお椀で出てきます。
ごり屋酢の物

酢の物

ごり屋洗い

洗い


ごり屋唐揚げ

唐揚げ





ごり屋柳川鍋

柳川鍋




ごり屋ごり汁
ごり汁

ごり屋佃煮とばい貝








ごりとばい貝の佃煮。


レシピです。

ごり汁。 ①小さめのゴリに塩を振ってもんで(ぬめりを取るようにして)水洗いをします。
②細い牛蒡を細く笹がきにして水にさらしてアクを抜いておきます。
③昆布だしを煮立てておいて①を入れ、酒と白味噌を入れてゆっくり煮ながら、仕上げに②を放して歯切れのいいところで食べます。

唐揚げ。 ①生きている大きめのゴリをよく水洗いして布巾で水気を取っておきます。
②小麦粉をガーゼに包んで①に軽く振りかけ、170℃ほどの揚げ油でカラリと揚げ食塩を振りかけます。生きたゴリでないと鰭や尻尾が形よく拡がらないので注意して下さい。

佃煮は省略します。
魚屋で生きのいいゴリを見つけた主婦は、「今日は生きのいいゴリおったわね」と喜んで大きいのは唐揚げ、小さいのはごり汁、そして佃煮を作って東京にいる娘に送ってやるのです。
13:44  |  金澤  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.03.30 (Fri)

泉光院の足跡 296 法隆寺の金堂と塔

一つずつゆっくりと見ていきます。まず金堂。
法隆寺金堂

法隆寺は昭和9年から約半世紀かけて「昭和の大修理」が行われていました。
その途中、昭和24年の1月26日、壁画の模写作業をしているときのこと、早朝に初層内部から出火して柱と壁画が燃えたのでした。
彫刻や一部の小壁画は別の場所に収蔵されていたので無事だったのでした。

納められている佛像は、釋迦三尊像、薬師如来像、四天王像など。

中へ入りましょう。
法隆寺金堂内部法隆寺金堂釋迦正面s



まず目に付くのは釋迦三尊像。
左が横から、右は正面から。

日本の佛師によって佛像が制作されるようになったのは物部廃佛派と蘇我崇佛派の抗争で崇佛派が勝利を収めた頃と考えられ、佛像制作の創生期に活躍したのが、この釋迦三尊像の制作に当たった止利佛師とされています。
法隆寺釋迦三尊

そしてこの釋迦三尊像は日本に於ける最初の佛法の理解者と考えられてる聖徳太子の冥福を祈るために、推古31年(623)に制作されたのでした。

この時代の日本の佛師が佛像制作の参考にしたのは北魏時代の雲崗や龍門の石窟の佛像だったようです。
右がその一例、龍門石窟寶陽洞の本尊。法隆寺龍門石窟寶陽洞本尊

敦煌から雲崗、樂浪、そして朝鮮の慶州、と、佛像の辿ってきたあとを見て行くと、次第に洗練されていく様子がうかがえてとても面白い、といいますが、ワタクシには判らぬことばかりですので省略します。

法隆寺金堂釋迦顔

お釋迦様のお顔です。
慈愛にみちたお顔ですね。
法隆寺金堂藥師如來顔


右は藥師如來のお顔。
優しいお顔です。







法隆寺金堂壁画焼失前

金堂の周囲の壁面には繪が描かれています。
左が焼失前の壁面の様子。
西側(6号壁)の阿彌陀浄土です。
法隆寺金堂壁画6号壁阿彌陀浄土













阿彌陀如來と、両側の脇侍、觀音菩薩と勢至菩薩が描かれています。


法隆寺金堂壁画6号壁觀音頭部

右の繪は左側の脇侍、觀音菩薩の頭部です。
右側に描いてるのですが、阿彌陀様からみれば左の脇侍にあたるわけです。
この脇侍の繪は金堂壁画中最も美しいといわれているのでのせておきました。

法隆寺金堂1号壁画釋迦淨土


東側(1号壁)の釋迦如來淨土。


法隆寺五重塔

法隆寺の五重塔です。

金堂も五重塔もその姿は1200年前の建築当時と殆どかわらない姿を見せてくれています。長年月の間に何度かの修理をうけて、元禄時代の修理では多少変わったところもあったようだが、昭和の修理では当初の姿に復元されました。美しい姿です。





法隆寺廻廊エンタシス




廻廊をめぐりながら何度もこの塔と金堂の姿を眺めていたのでした。
人のいない法隆寺の境内なんて、今では考えられないのですが、その頃はこんな写真が写せたのです。
塔の南北の扉も開けてありましたし、ゆっくり見ることも出来ました。
法隆寺五重塔構造
法隆寺五重塔釋迦涅槃塑像


五重塔の断面図(左)。
塔の内部にはお釋迦さまにちなんだ話が塑像で作られています。右は北面の釋迦涅槃の光景。おおぜいの人が釋迦の死を嘆き悲しんでいます。
東面は維摩と文殊が問答をしていて、それに聞き入る聴衆たちの場面。南面は彌勒菩薩の淨土。西面は釋迦の舎利(遺骨)を分配している場面が作られています。
これらは和銅四年(711)に作られたのがほぼそのまま残っているようです。

今こうして昔写した写真を見ながらブログを書いていると、その時の感動がワタクシの心の中に蘇ってくるようで、時間の経つのも忘れてしまいそうです。
その頃は、写真の現像は勤め先のワタクシの部屋のすぐ近くに暗室があってそこで全部自分で写真の処理をしていたので、あまり上手な仕上げではないのだが、それでも人の写っていない法隆寺の写真が手元に残っているのはウレシイ。
法隆寺伽藍配置昔
建築当時の西院伽藍の配置は右の図のように金堂と五重塔が廻廊に囲まれていて、大講堂は廻廊の外になっていたのだが、延長三年(925)に大講堂が焼けて、
法隆寺伽藍配置現在
正暦元年(990)に再建されたとき左の図のように大講堂は元の所に建てて、廻廊を「凸」形に曲げてその角にあたるところに經藏と鐘樓を建てて現在のような形になった。

始めてここへ来た時は全く不勉強で、というより、ただただ感嘆の声を上げていたばかりでしたが、その後だいぶ経ってから岩波書店から『奈良六大寺大観』。そのあとで『奈良の寺』(全21巻本)が発売されて、飛びつくように買ってしまった。安月給でウン万円の出費は非常に痛かったのだが、おかげで今は安心してこんなものを書いていることが出来る。法隆寺經藏


右が大講堂から見て南西にある經藏。反対側には鐘樓があってほぼ同じような形で建っていますから左右対称のように見えます。


法隆寺大講堂外観

大講堂です。
講堂は佛法を講義・勉強する場所ですからたくさんの僧侶が集まるので堂内は広々と作られています。
右が大講堂内部の諸佛。



法隆寺大講堂諸佛

真ん中にいるのが藥師如來で、日光・月光の兩脇侍が左右に配されています。

この三尊を守護するように四隅に四天王が邪鬼を踏みつけて立ちます。
四天王は、(東)持国天、(南)増長天、(西)廣目天、(北)多聞天の順に配置されています。多聞天だけを単独で祀る時は毘沙門天という呼び名に変わることもあるようです。

時間をかけて西院伽藍を見てまいりました。廻廊から外へ出ましょう。
法隆寺中門エンタシス

法隆寺中門内側


これは中門の内側。別れを惜しんで出ました。

21:28  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2018.03.27 (Tue)

泉光院の足跡 295 西院伽藍

泉光院は東院伽藍の方から先に廻りましたが、ワタクシは普通に西院伽藍の方から廻りました。
ワタクシが始めて奈良を訪れたのはハタチになった冬。勤め先の学校が冬休みに入ってすぐでした。横山サンに勧められたのでした。…山ばっかり行っとらんで奈良へ行って見い、奈良へ!…
そうして、…泊まるのは日吉館にせえ。…というわけで、奈良国立博物館のすぐ前にあった「日吉館」に泊まりました。はじめのうちは東大寺や西ノ京の唐招提寺、薬師寺、高畑の新薬師寺や白毫寺へ行きました。
法隆寺へ来たのは大晦日、少しばかり雨の降るうすら寒い日でした。今と違って人っ子一人いない、実に静かなお寺でした(法隆寺の写真でカラー写真でないのはその時にワタクシの写したものです)。
法隆寺松並木
松並木を歩いて行くと向こうの方に南大門が見えてきます。
この道もいまは両側に駐車場や食堂、土産物屋がひしめいていますがワタクシが始めて行った頃には何もありませんでした。

いよいよ法隆寺の始まりです。
法隆寺南大門

法隆寺南大門全景



南大門をくぐるとその先に西院伽藍が姿を現します。
門をくぐって中へ入りましょう。心が弾む一瞬です。
南大門を入って白い築地塀の向こうに東西に道があって、そこまで来ると左に西大門、右に東大門が見えます。
法隆寺西院東院の間
この写真の右の方、突き当たりに東大門があるのです。
その向こうが東院伽藍で、夢殿のある場所です。

西院伽藍の配置図を載せておきます。これも前回同様、案内書から頂いた図面。
法隆寺西院伽藍配置図



法隆寺東大門
こちらが近寄って見た東大門。遠くかすかに小さな屋根が見えるでしょうか。それが夢殿の屋根。



西院伽藍へ入ってみましょう。
法隆寺中門
左の写真、正面に見えるのが中門。堂々とした四間二戸の重層門です。
でもこの門はちょっと奇妙な門です。門というものは、訪れた人に、「よくいらっしゃいました、どうぞお入り下さい」というふうに、さきにのせた南大門でも、上の写真の東大門でも入りやすい造りになっています。

だがこの中門は、真ん中に柱があって通せんぼをしているようです。
思わずどっちの扉から入ったらいいのか迷いが生じてしまいそうです。
しかもまわりをぐるりと廻廊がとりまいていて中の様子をうかがい知ることも出来ません。入ることを拒絶しているような門です。
昔から學者の間で議論の種になっていました。


法隆寺西院伽藍空撮

右、西院伽藍全景の空撮写真。

観光客の入口は廻廊左側のすみっこから入ることになっています。
拝観料を用意して入りましょう。


法隆寺塔と金堂部分

振り向くと左の光景が目に映ります。とても大きいので全貌が一度には眼に入らないのです。


法隆寺大講堂
廻廊を歩いて中門のところまで来ると、正面に見えるのが大講堂。五重塔も金堂も視界から外れてしまいます。
首を回してみるとどれもみんな仰ぎ見るといった形です。
この西院伽藍はどれもみんな日本最古の木造建築群の一つではありますし、納められている佛像も実に素晴らしいものばかりです。

今こうしてワタクシの写した人っ子一人いない法隆寺の写真を見ていると、…昔はヨカッタなぁ、としみじみ思うのです。
そうして殆ど半日、境内各所を思うがままに歩きまわっていても誰に咎められる事もなかったのでした。
次回からもっとよく見ていきたいと思います。
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