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2017.05.08 (Mon)

泉光院の足跡 228 遊行上人の寺

…夫より本道へ返し、藤澤の驛へ出で遊行上人の寺へ詣納經す。…
廣重版画戸塚
泉光院は保土ケ谷宿から鎌倉、江ノ島とお詣りをして藤澤へと行ったので、その間にある戸塚の宿は通らなかったから、廣重版画の戸塚を入れておきます。
「戸塚 元町別道 もとまちわかれみち」。
日本橋を七つ(午前4時頃)立ちすると夕方6時頃に戸塚に着くことになります。距離にして約十里。保土ケ谷と戸塚の間には権太坂という難所があった。
明治時代の権太坂
今でもお正月に行われる大学の箱根駅伝の中継でも権太坂の所では必ず坂道を走り上がる選手の姿が写ります。
江戸時代の権太坂は今よりももっと急な坂道だった。左は明治の頃に写した東海道風景。保土ケ谷・戸塚・藤澤間は四里あって、上り下りの多い悪路だった。古い資料ではこのあたりの山道を指して「ことのほかおそろし」と書いている程です。

上の廣重版画では、右の柏尾(かしお)川にかかる吉田橋をこっちに向かって男が歩いてくる。この橋の向こうに見えている屋根が戸塚の宿場です。
橋のたもとに燈籠と石碑が見えていますが、この石碑は道標で、「左りかまくら道」と彫られています。「こめや」の看板が上がっている家は米屋でもあったのだが、旅籠屋も兼業していた。軒先の高い所にかけてある札には、「大山講中」、「月參講中」、「百味講」、「神田講中」と書いてあるのが読めるので、こういう団体の指定旅館なのでしょう。戸塚吉田大橋
右が現代の吉田橋。ガードフェンスが終わった所から橋になって、少し屈曲して、コンクリートの欄干の途切れる所までが橋。その下を柏尾川が流れる。橋のたもとに茶色のものが見えますが、それはここが廣重版画の「吉田橋」だという案内板。現代の戸塚は首都圏のベッドタウンになっているようです。
お軽勘平道行の場碑

宿場を出ると「お輕勘平、戸塚山中道行の場」という碑が左側に立っている。

江戸から落ちのびるお輕と勘平が、富士のお山を背に東海道を道行きする『道行旅路花婿』。演じているのはお輕を中村福助、勘平を中村勘九郎。(ちょっと古い画像です)
この場のあらすじを少しだけ、…
お軽勘平道行の場
『忠臣蔵三段目』
高師直(こうのもろなお)にいびられた塩谷判官(えんやはんがん)が遂に堪忍袋の緒が切れて殿中刃傷の場となる、というあたりは皆さん御存知ですね。この判官のお側の者として足利家に随行しているのは早野勘平。本当なら勘平は饗應の儀式の間中、待機しているのが勤めです。松の廊下で判官が高師直に斬りつけてしまったとき、勘平としては主人はどうなったのか、師直は死んだのか、國元の大星由良之助に何を報告すべきか、あらゆる情報を集めなくちゃなりません。ところが勘平はその場に居なかったのです。御殿を抜け出して、恋人お輕とデートを楽しんでいたのでした。お輕が足利御殿まで来ていたのは、顔世御前に託された文箱を判官に届けるために来ていたのです。勘平は、お輕の顔を見て、どうせ儀式の間は暇だろうと思って軽い気持ちでお輕を誘って御殿を抜け出してデートに出かけたのでした。ところが御殿ではとんでもないことが起こっていたのです。勘平が御殿に戻ったときには一大事出来(しゅったい)で、門はすでに固く閉ざされていたのでした。不忠者となってしまった勘平はお輕と手に手を取ってお輕の実家のある京都山崎へと落ちのびる途中の道行がここ戸塚の場面となるのです。お輕と勘平はこの松の根元で抱き合いながら、恋のなれそめ、将来の夢などを語る、という幻想的な舞踊劇がこの「道行旅路の花婿」。
もともと作り話である『忠臣蔵』の、さらに架空の人物であるお輕と勘平が、人影のないのを幸い松の根元で抱き合った、というそんな場所をここの地に設定して、道の脇に松の木を植え、碑まで作ってしまったという江戸時代の人たち、何とも情緒豊かな人たちですねぇ。
廣重版画藤澤遊行寺
右は廣重版画「藤澤 遊行寺」。
遊行寺は正式には藤澤山無量光院清浄光寺といって、時宗の本山。
宗祖一遍上人は踊り念佛で往生安樂の境地へ至る、と大衆に説いて諸國を遊行したので、上人を遊行上人、お寺を遊行寺というようになった。
この絵で大きな鳥居が目をひきますが、これは江ノ島辨財天の一の鳥居。東海道から江ノ島へ行くときにはこの鳥居の所から今の国道467へ入ります。泉光院は江ノ島から江ノ島を発って一里九丁でこの鳥居の所に着きました。前に見える境川を渡って、向こうの山の中腹に見えている遊行寺に詣納經をしました。
絵では鳥居のあたりに座頭が四人、橋の付近に婦人が二人、江ノ島へ詣でるために来ているようだ。
清浄光寺一遍上人
右は遊行寺と一遍上人像。
伊予で生まれた一遍上人は出家して諸國を巡るうち、熊野で悟りを開いた。そうして弘安二年(1279)から踊り念佛を始めて諸國遊行の旅に出た。そして一遍上人は自分では一度も寺を寺を造らなかった。この遊行寺も時宗四代目の僧呑海が建てたのだという。
この本堂の裏には小栗判官と照手姫のお墓がある。二人のお墓の間には、愛馬鬼鹿毛の墓もある。
このお二人の物語は歌舞伎や説教節でいろいろと創作・脚色されていて、ヴァリエーションがたくさんあるのです。小栗判官がこの付近の豪族横山大膳に毒殺されたのだが、遊行寺の(何代目かの僧)大空上人の夢枕に閻魔大王が立って、その男を熊野の湯へ連れて行けば治るであろう、とお告げがあり、横山大膳の屋敷に下女として入っていた妓女照手姫が苦労をして熊野へ連れて行く、というのや、照手姫は人買いに騙されてどこかへ売り飛ばされてしまう、というようなのや、色々あってワタクシにはよく判らない。奈良の金峯山寺へ行ったとき、どこかの塔頭で小栗判官・照手姫の物語を見たような気がした。いずれ泉光院が熊野に着くまでの間に決着をつけたいと思います。

…夫より一の宮へ出る、日も傾きし故に一の宮村へ宿す。
十一日 晴天。直ちに一の宮へ詣納經す。花表前松並木三丁、本社南向、社家持也。…
寒川神社随神門寒川神社拝殿


相模國一の宮は寒川神社。左が随神門で右が拝殿。
祭神は寒川比古神と寒川比女神のお二方で、この名前からするとこの神様は日本神話に登場するようなアマテラス系やオオクニヌシ系の神様ではなくて、この地方の豪族を祀ったお社のようです。大山道道標

遊行寺の所から寒川神社へ行くには藤澤宿から少し西に行って、右の(大山道と書いてある)道標のところで右に曲がって大山道に入るのです。

ここへお詣りをしてから少し南に下って、相模川を渡船で渡った所に四之宮、今は平塚市の一部になっていますが、そこに相模國四の宮である前鳥(さきとり)神社があるのです。

…夫より四の宮と云ふに渡船あり、此所四の宮とて大社あり。予納經したれば平四郎氣に入らず、二の宮三の宮は如何するやと云ふ、吾れ返答せず、八旗八幡へ詣納經す。…
前島神社
左が前鳥神社。通り道だからお詣りしたら平四郎が文句を言った。
…二の宮三の宮はどうするんだ!…と。
二の宮は川匂神社、小田原市の近くの二宮町です。
三の宮は比々多神社、これは伊勢原市の方。
通り道ではないのです。だから
…吾れ返答せず…に平塚八幡宮へ行きました。
…本社一宇南向、大神門あり、大松山の内寺一ヶ寺、門前茶屋なし。…
平塚八幡宮鳥居平塚八幡宮

左が平塚八幡宮の大鳥居、右が拝殿。
平塚八幡宮は前鳥神社のすぐ近くです。そしてここは相模國八幡庄の総鎮守で、相模國の五の宮でもありますから平四郎がこのことを知ったらもっと嫌みを言ったかも知れない。
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2017.05.01 (Mon)

泉光院の足跡 227 江ノ島

十日 半天。長谷寺門前立、辰の上刻。海邊濱道一里半行き江の島へ詣づ。江の島地方に少しの越えあり、此處腰越と云ふ。古へ義經舎兄頼朝より追返されたる所也。今漁師町となれり。…

鎌倉詣りをすませた泉光院は、翌日、江の島へ詣でてから東海道筋へ戻って藤沢の遊行寺へと行くつもりです。
江ノ島富士山稲村ケ崎
右は腰越のあたりから見た七里ヶ浜と江の島(と富士山)。

壇ノ浦で平家の軍を海の底に沈めた義経は、京へ戻って後白河法皇から左衛門少尉に任ぜられ、検非違使となりました。ところがこの任官は頼朝の許可なく行われたので、それがまず頼朝と義経の不和の原因となったのです。
頼朝の怒りを解こうと、義経は鎌倉へやって来たのだが、…追い返されて…ここ腰越の滿福寺に滞在して、「腰越状」といわれる詫び状を書いて一ヶ月も待つのだがついに許されず、一歩も鎌倉に入ることなくそれから後は日本中放浪の旅路を辿ることになるのです。そして終には奥羽の地で果てることになるのです。

江の島へ行く前に、この七里ヶ浜で発生した悲しい事件のことを書いておきましょう。七里ヶ浜の哀歌

明治43年(1910)1月23日午後、この美しい七里ヶ浜の沖で、逗子開成中学校のボートが沈んで、乗っていた少年12人が全員溺死したのでした。
その大法要が2月6日、開成中学校の校庭で行われて、この歌、「七里ヶ浜の哀歌」を鎌倉女学校の生徒が歌ったのでした。
詩を作ったのは鎌倉に住んでいてこの事件をつぶさに知った鎌倉女学校教諭の三角錫子で、当時女学生の間でよく歌われていたアメリカ人のガードン作曲、When we arrive at home , のメロディにのせて歌ったのでした。

♪真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに 捧げまつる胸と心
♪ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も浪も小さき腕に
 力もつきはて 呼ぶ名は父母 恨みは深し七里が浜辺
   …   …
まもなくこの楽譜は出版されて、女学生の愛唱歌となりました。

…夫より江の島へ三丁、島と云へども今地續き也。乍然(しかしながら)少しの川あり、麓に茶屋旅籠屋多し。先づ一の辨天と云ふに詣納經す。二の辨天、三の辨天とて三ヶ所に宮あり、三は島の絶頂にあり。夫より海邊に下り平石の上十間計りの幅なるを三丁程行けば海ぎはに洞穴あり、此内辨天影向の地と云へり。島の廻り一里、名所參り處所々にあり。奉納一句、
   涼しさや波に浮繪の島詣
江ノ島空撮

空から見た江の島です。
周囲4kmほど、標高60mほどの陸繋島です。古くは引き潮の時だけ砂州がつながって歩いて渡れたのだが、関東大震災で島全体が隆起して常に地続きになった。

ここの所に弁天さまが来たのは6世紀の半ば、欽明天皇の頃だといいます。
五つの頭を持った龍が現れて人びとを苦しめていたのだが、あるとき天地が揺れ、天の暗雲の中からは天女が、海中からは波がわきたって島が現れたのだそうです。天女は龍の願い(何だったのだろうか)を叶えてやる代わりにおとなしくさせたというのです。この天女が弁天さま。
サラスバティーシタール

辨才天は、ヒンドゥー教ではサラスヴァティーという川の女神です。この女神は、ヴィシュヌというヒンドゥー教ではシヴァ神とならぶ最高神の神妃とされていたり、ブラフマー(佛教では梵天)の神妃とされていたりするようです。
彼女は、作物を実らせ富をもたらす川の女神として、今でもインドではシタールを奏でる美女として描かれています。
右の美女は四臂として描かれていますね。この楽器を弾くには便利なようです。
佛教に取り込まれると守護神の一人となって8臂のそれぞれの手に武器を持った恐ろしげな姿になって西域から中国・朝鮮と渡来してきたのでしたが、日本へ来ると次第に本来の女性らしさが強調されて、二臂の美しい女性の姿となり、芸術、殊に音楽の守護神となってワタクシにも親しみやすい女神となりました。

江ノ島明神としてこの辨才天を(正式に)ここに祀るようにしたのは源頼朝で、養和二年(1182)、江ノ島の岩屋に文覚上人を招いて戦勝を祈願し、一ノ宮、二の宮、三の宮を建ててそれぞれの本尊として祀ったのでした。
江ノ島八臂弁才天江ノ島弁天様琵琶

左は佛教の守護神としていろんな武器を持っている辨才天。勝運を願う人に信仰されています。
右は妙音辨才天という名前で親しまれている辨才天で、琵琶を弾いている姿の裸辨天。
技芸の上達を願う人に信仰されています。

明治の神佛分離ではここも荒波を受けてしまって、それまで祀っていた弁天さまを排して、江島神社という神社にされてしまった。そして弁天さまの代わりに今までにも何度か書いてきた宗像三女神を祀ることにしてしまったのです。江ノ島辺津宮

右は辺津宮、祭神は田寸津比賣(たぎつひめ)命。泉光院のお詣りした一の辨天宮。

江ノ島中津宮

左が中津宮で市寸島比賣(いちきしまひめ)命。
二の辨天宮。

江ノ島奥津宮

そして右が奥津宮で多紀理比賣(たぎりひめ)命。
三の辨天宮です。


江ノ島法案殿
では弁天さまは今はどこにいらっしゃるかというと、辺津宮(一の辨天宮)の脇に奉安殿(左の写真)があってその中に入っていらっしゃる。

宗像三女神のことは、No.026 金印 の項で、また、No.047 厳島 の項で触れておきました。
江ノ島の三女神と宗像三女神の入っている場所はちょっと順番が違っているので、ここで宗像神社の順番を書いておきましょう。
一番遠くの朝鮮半島との中間あたりの沖の島に沖津宮があって祭神は田心姫(たごりひめ)、宗像市の沖6kmほどの大島に中津宮があって、湍津姫(たぎつひめ)、九州本土の宗像市田島にある辺津宮には市杵島姫(いちきしまひめ)となっております。

日本三辨天というのは、宮島の厳島神社と琵琶湖竹生島の寶嚴寺と、ここ江ノ島明神です。
弁天さまは、もともとの出身が川の女神なので、川や湖、つまり水辺にお祀りすることになっているようです。近所のお寺や神社にも小さな池や川があれば池の中の小島や川の畔などに小さな弁天社を建ててあることでもおわかりでしょう。
アラハバードの合流点サラスヴァティー
サラスヴァティーという川は、インドの首都デリーから東へ684km、ガンガー(ガンジス)河とヤムナー河の合流する場所にあるアラーハーバードの町の所で、この伝説的な川も一緒にここで合流していたのだそうです。
ヒンドゥー教徒にとってはこの場所は最も神聖な場所とされ、12年に一度開催される「水瓶の祭、クンブ・メーラー」は一ヶ月にもわたる長い期間、右の写真のようにインド全国から1500万人ものひとが集まってきて沐浴をするのです。
このお祭りの期間にここで沐浴をすると過去の罪障を消滅させる効果が最も高いと信じられているのです。
ガンガー河で沐浴する女
左は沐浴する女。

インドのサラスヴァティーという川、そしてその川の女神であるサラスヴァティーのことを少々入れておきました。

ヒンドゥー教の神様たちの多くは佛教に取り込まれています。
持国天、増長天、廣目天、多聞天、梵天、帝釈天といった「天部」の佛様がそれにあたります。佛陀もヒンドゥー教では最高神の一つであるヴィシュヌの化身の一つであるに過ぎないとされているのです。ヒンドゥーの神様たちのことは、いずれ泉光院と一緒に歩いている間にどこかで登場する機会もあることでしょう。

江ノ島は江戸時代の観光地としてずいぶん人気がありました。右は廣重版画「相州江之島辨財天開帳參詣群衆之圖」という浮世絵です。江ノ島広重弁才天開帳群衆之図
大群衆が江の島めがけて押し寄せています。今でいうテレビの旅番組のようなものでしょうか、東海道や中山道の画集や各地の名所、そんなものが浮世絵となって安く販売されたり、弥次サン喜多サンの東海道中膝栗毛のような道中記も出版されて、人びとの旅へのあこがれをあおったのでした。
江ノ島の弁天さまのご開帳は巳と亥の年、つまり六年ごとに行われて、この版画のように大群衆を集めたので、その観光収入は莫大なものとなり、その利権をめぐってそれぞれの宮の間では争い事もあっただろうとつい余計なことにまで思いがひろがるyorickでした。

…夫より海邊に下り平石の上十間計りの幅なるを三丁程行けば海ぎわに洞穴あり、此内辨天影向の地と云ヘリ。…
江ノ島洞窟入口

一の弁天から三の弁天まで全部お詣りをしたのでそれでおしまいかと思ったらさらに奥に入って稚児ヶ淵という海岸まで降りて、辨天さまが始めてこの島に降りてきた場所だという洞窟まで見物をしている。今は立派な道や橋が出来ているから難なく洞窟に入れるだろうけれども、泉光院が来た頃は少しばかり難儀な道だっただろう。
弁財天乱読Fさま
左の絵は「乱読F」さまの描かれた美しい弁財天の画像。お願いしましたら、…お使いいただいてけっこうです。…とここに載せるお許しを得ました。ワタクシの乱文に光を添えてくださいました。ありがとうございます。


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2017.04.28 (Fri)

泉光院の足跡 226 露座の大佛

…夫より山を越へ半道計り坂東札所岩殿寺と云ふに詣納經す。本堂五間四面、東向の堂一宇、門はなし、寺一ヶ寺門前茶屋なし。…
2番岩殿寺観音堂
左が坂東観音札所第二番の岩殿觀音。
このお寺は鎌倉の東隣り、逗子にあります。
山門から長い石段を登り詰めた所にある小さなお寺です。



…夫より在村へ下り田代寺と云ふ坂東札所へ詣で納經。本堂五間四面、寺一ヶ寺、至て小寺也。…
3番田代寺観音堂
田代寺千手観音

左が坂東観音札所第三番の安養院というお寺です。本名は長樂寺というのだが、北條政子が夫頼朝の菩提を弔うために建てたといい、北條政子宝篋印塔政子の遺骨もここに葬ったというので、政子の法名である安養院に改めたのと、本尊の阿彌陀如來像の後ろに高さ1.8mの千手觀音が祀られていて、その觀音様は田代寺から移されたものであることから、田代堂の觀音、昇龍觀音とか良縁觀音という別名もつけられていて、立身出世や良縁を求める人たちから篤く信仰されているようです。泉光院がここへ来た頃は田代寺として知られていたのでしょうか。

左は政子のお墓と言われている寶篋印塔です。本堂の裏手に徳治三年(1308)の銘のある大きな寶篋印塔(國重文)があって、その横にある小さなのがそれです。

…夫より由比の濱街道へ出で蕉翁の塚へ行く、兵(つわもの)どもの夢の跡の句あり。…
六地蔵芭蕉句碑

田代觀音・安養院から長谷寺へ行く道が「由比ヶ浜大通り」といって、昔の刑場跡であった所に右のような六地蔵が祀られていて、そのお地蔵さんの裏の石碑に芭蕉の句碑があるのです。この場所を芭蕉の辻とも言うのだそうです。
石碑が三つか四つほどあるように見えますが、そのうちの一つでしょうか。

…夏草や 兵どもの 夢の跡…

…夫より光明寺と云ふ淨土本山、尾州侯御靈屋あり、御菩提寺と云ふに付詣納經す。…
光明寺山門
左が光明寺の山門。
大きな門で、もとは鶴岡八幡宮の建物だったと言われているのだがよく判りません。
江戸時代には徳川家康が定めた浄土宗学問所の関東十八檀林の制度の中でも主席の江戸増上寺に次ぐ次席の地位にあって、建長寺・圓覺寺および藤沢の遊行寺とともに鎌倉四大寺に数えられていた。

泉光院は芭蕉句碑の次にここへ来たように書いているけれども、このお寺のある場所は安養院から南の方、海岸に近い方ですから、順路としては安養院→光明寺→そこから若宮大路へ戻って、六地蔵の所から由比ヶ浜大通りへ入るのが道順です。でも泉光院は一日で鎌倉を歩き回って、宿へ着いてから記憶を頼りに詣でたお寺を日記にしたためるのですから、多少の間違いは見逃しましょう。

…夫より由比ヶ浜へ一見に出る。…

六地蔵の場所から真っ直ぐに由比ヶ浜まで道があります。若宮大路の西側に、殆ど平行に走っている道で、江戸時代の昔もきっとそうだったと思います。
由比ヶ浜稲瀬川河口

右が滑川河口あたりから見た由比ヶ浜。遠くに見える岩場の所が「稲村ヶ崎」です。
元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉を攻めるために稲村ヶ崎の西側(この写真では岩場の向こう側)の七里ヶ浜に陣を布き、潮が引いて(つまり干潮になると砂浜が現れるのです)、全軍無事に渡れるように黄金造りの太刀を海中に投じたところ、たちどころに干潮となって砂浜伝いにこっち側の由比ヶ浜に入る事が出来たというのです。

稲村ケ崎

満潮の時の稲村ヶ崎です。これでは海岸伝いに向こう側には渡れませんねぇ。

文部省唱歌「鎌倉」の第一節はこういう歌詞です。
♪七里ヶ浜のいそ伝い、
 稲村ヶ崎 名将の、
 剱投ぜし 古戦場。

この歌は戦前の国民学校初等科(いまの小学校のことです)6年生が音楽の授業で習う歌でした。楽譜も一緒に載せておきましょう。
唱歌鎌倉
第2節目以降はこんな具合です。
♪極楽寺坂越へ行けば
 長谷観音の堂近く
 露座の大佛おわします
♪由比の浜辺を右に見て
 雪の下村過ぎゆけば
 八幡宮の御柱
♪上るや石のきざはしの
 左に高き大銀杏
 問わばぞ遠き世々の跡
♪若宮堂の舞の袖
 しずのおだまきくりかえし
 かえせし人をしのびつつ

以下、6,7,8節と、鎌倉の昔を偲びます。
…建長円覚古寺の山門高き松風に昔の音やこもるらん…

…八丁計りにして長谷寺坂東札所へ詣納經。本堂八間四面、東向、二王門、寺二ヶ寺、門前旅籠屋多し。…
長谷寺坂東札所四番

右は長谷寺、坂東観音札所第四番。本尊十一面観音は大和の長谷寺の本尊と同じ木で作られたと伝えられている像高9.18mの日本では最も大きな木像佛の一つです。
長谷寺長谷観音

左がその長谷観音。


先に楽譜を載せておいた「鎌倉」という歌。
小学校6年生のときに習うのですが、鶴岡八幡宮には大きな銀杏の木があることや、大きな寺社の名前や、静御前が♪しずのおだまきくりかえし、かえせし人を偲びつつ…と歌って義経を想いながら頼朝の前で白拍子の舞を舞ったことなども子供の時から覚えているのです。

…夫より大佛と云ふに詣づ。南向、唐金(からかね)濡れ佛、高さ五丈のビルシャナ佛也。腹中の本尊を拝す。鎌倉一句、
   夢に入るや鎌倉山の時鳥
露座の大佛高徳院

長谷寺から次に高徳院淨泉寺の阿彌陀如來坐像の所へ来ました。この金銅佛が鋳造されたのは建長四年(1252)で、本来は大佛殿の中にいたのだが地震や大風で破損や倒壊がたびたびあったようで、明応四年(1495)の津波で建物は流されて以来、露座のまま。
高さは13.4mで重さが124㌧。この像の背中の所に胎内に入る入口があって(有料)、ワタクシも入ってきました。胎内には聖観音や愛染明王があって、泉光院も…腹中の本尊を拝…しました。

…日も西山に落つる故長谷寺門前に宿す。

と一日でこれだけ鎌倉の中を歩きまわって詣納經をしてきたのでした。
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2017.04.25 (Tue)

泉光院の足跡 225 鶴岡八幡宮

鎌倉詣での続きです。何しろ一日で鎌倉の寺社全部を廻るのです。鶴岡八幡宮に続いて、坂東札所第一番から第四番、光明寺や露座の大佛、etc.
ゆっくり行きましょう。

…夫より坂を越へ鶴ヶ岡八幡へ詣納經す。本社南向、廻廊あり一丁半廻り、樓門の他に諸社、諸堂數々、社内二丁四方、花表前旅籠屋多し。…
巨福呂坂切通し明王石碑
建長寺を出て巨福呂(こぶくろ)坂切通しを越えて鶴岡八幡宮へ来ました。
やぐら群朱垂木
切通しには石佛があったり、「やぐら」という鎌倉独特のお墓、山腹を切り抜いた横穴式の墳墓があります。中世の武士や僧侶のお墓といわれ、中には五輪塔や地藏などが安置されているのです。

やぐら群百八やぐら群お塔の窪


建長寺から鶴岡八幡宮にかけての裏山、鷲峰山(127m)あたりでたくさんのやぐらを見ることが出来ます。
観光で鎌倉へ行ってもなかなかやぐらなどというものまでは目が届きません。写真で見ておきましょう。

由比ヶ浜から鶴岡八幡宮への参道として鎌倉幕府の都市計画の中心だったのが「若宮大路」です。若宮大路桜満開
右は二の鳥居付近からの参道。
櫻が満開でたいそう見事ですねぇ。

治承四年(1180)四月、後白河法皇の皇子である以仁(もちひと)王が諸国の源氏に平氏討伐の令旨(りょうじ)を出したのが発端で、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵して、権力を巡る源平の争いとなり、元暦二年(1185)、壇ノ浦の戦いを最後に合戦は幕を閉じて平家は滅亡したのでした。
勝利した源頼朝は、この鎌倉に日本最初の「武家政権」として「幕府」を開き、建久三年(1192)、後鳥羽天皇から「征夷大将軍」という役職を貰って武家のトップに立ちました。
源頼朝像伝藤原隆信画北條政子像


左は少し前までは歴史の教科書に、藤原隆信画として載っていた「源頼朝像」です。
最近になって、これは頼朝ではないのではないか、ということになって、教科書からはずされてしまったらしいのですが、ワタクシのような古い年代の人間は頼朝というとこの絵をすぐに思い出す程有名な絵です。

そして右は北条政子像。
頼朝亡きあと、尼将軍として権力を振るった時期の像です。

治承元年(1177)、21歳の娘北条政子は、父時政の目を逃れて、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』の記述によると、「暗夜に迷い、深雨を凌ぎ、君のところに至る。」と嵐の夜に頼朝の所へ出奔したのでした。その時頼朝31歳。時政は激怒したのだったが出来てしまったものは仕方がない。若い娘さんたちに言っておきましょう。この男、と見込んだ男が現れたらその時は政子に倣って親の反対なんか押し切って、手に手を取りあって逃げていきましょう。

平家との戦争に勝利した頼朝はこの鎌倉の地で幕府の基礎を固め、政子は頼家、実朝、そして二人の娘を育てたのでした。
鶴岡八幡宮黄葉
左は鶴岡八幡宮の舞殿と本殿。
大公孫樹(イチョウ)の黄葉が美しかったのですが、何年か前に根元から折れて倒れてしまった。かっての美しかった姿を写真で見ておきましょう。

源平合戦の後、兄頼朝と対立した義経は、京を落ちのびて愛妾静御前を連れて九州の菊池氏を頼って行こうとするのだが、義経の船団は嵐で難破してもとの摂津の浜へ戻されてしまいます。やむを得ず吉野へ行くのですが、ここで静御前は捕らえられて、京都にいた北条時政に渡され、文治二年(1186)三月、母の磯禪師とともに鎌倉へ送られます。
4月8日、静御前は頼朝から鶴岡八幡宮の社前で白拍子の舞を命ぜられます。
静は、
 ♪吉野山 峰の白雪 ふみわけて 
     入りにし人の 跡ぞ恋しき
  しづやしづ しづのおだまき くりかえし
       むかしをいまに なすよしもがな♪

と義経を慕う歌を歌って舞い、頼朝を激怒させ、政子の取りなしで助けられたのでした。鶴岡八幡宮静の舞

この時、静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら助けるが男子なら殺す、と命じました。安達清恒が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかったので、磯禪師が赤子を取り上げて清恒に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められました。この時静は19歳でした。静のその後は不明です。北海道の姫川で死んだとも、由比ヶ浜で入水自殺したとも伝えられています。
いま、4月第2,第3の日曜日に鎌倉祭があって、鶴岡八幡宮の舞殿で静御前の舞が舞われるのです。

…夫より由比ヶ浜とて海邊迄十八丁、大馬場眞直に南に通れり。双方杉並木所々茶屋あり、鳥居三ヶ所に建つ。…
鎌倉絵図文政11年

このページの始めの方に満開の櫻に彩られた大馬場、若宮大路を載せておきましたが、泉光院がここへ来た時代の繪圖で確認してみましょう。
一番上左が建長寺で、そこから斜め右下に伸びる白い道が巨福呂坂切通し。右一番上に赤い字で書いてあるのが鶴岡八幡宮です。一番下は海で、由比ヶ浜です。
左下の方から大路を上りましょう。
一の鳥居、二の鳥居、そして左右にのびる広い通りの所で三の鳥居の立っているのが繪圖に描かれています。
泉光院の言うように、一の鳥居から二の鳥居のあたりまでは杉並木のようだし、二の鳥居から一の鳥居の近くまで茶屋のようなものが並んでいるようです。この繪圖は文政十一年版ですから、泉光院がここへ来てから12年後に出版された繪圖です。
始めの方に見事な櫻の大路を載せておきましたが、昔は杉並木だったようです。

…坂東札所第一番杉本寺へ詣納經す。本堂西向、五間四面、二王門あり。門前茶屋二軒。…
杉本寺山門二王
杉本寺の二王門です。
二王門をくぐって、この写真に見えている少しの石段を登ると十一面観音と書いた幟が少しだけ見えていますが、この石段は右のようにかなり長くてしかも真っ直ぐに上がって行く石段なのですが、ご覧のように登り口の所に竹で囲いがしてあって通行止めとなっております。
杉本寺参道

登る人はそのすぐ左側の石段を登って下さい、というわけです。長い間に本来の石段は磨り減ってしまったようです。
杉本寺本堂

杉本寺十一面観音

登り切った所が杉本寺の本堂。この本堂には三体の十一面觀音が並んでいて、そのうちの一体、中央の平安時代後期作、國重文のものを載せておきました。三体とも御厨子の中に入っていて直接には見ることは出来ません。

釈迦堂口切通し

左は釈迦堂口切通し。
現在は通行止めとなっているらしいです。
このように、切通しは敵軍が押し寄せる事を想定してわざと通行を困難にしてあったのでした。
ほかの切通しも入れておきましょう。

朝比奈切通し2
大仏坂切通し

左は前号にも入れた朝比奈切通しの一番狭くなっている場所。右は大仏坂切通し。
鎌倉幕府の中心部は堅固な道路でしっかり守られていました。

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2017.04.18 (Tue)

泉光院の足跡 224 三行半

朝比奈切通し
泉光院は弘明寺で詣納経をしてから、朝比奈切通し(右の道)を通って、
…鎌倉入り口町圓覺寺と云ふの門前に宿す。…
と、鎌倉へ入りました。
そして一日で精力的に鎌倉のお寺を廻ったのです。


円覚寺三門




まず始めに、圓覺寺の三門。夏目漱石の小説『門』に書かれた門(左の写真)です。


円覚寺舎利殿円覚寺舎利殿内部


上左は国宝の圓覺寺舎利殿。宋の能仁寺から招来したという佛舎利(お釈迦様のお骨だというもの)を納めてあるといいます。右は舎利殿の内部。
創建当初のこのお寺は禅宗様式の配列になっていて、法堂(はっとう)・佛殿・三門・総門が一直線上に並んで、頭・心臓・腹・脚の位置を表し、そしてその両側に僧堂と東司(とうす=便所)、庫裏と浴室、が腕にあたるように配列してあります。
これらの建物すべてが禪の修行に大切な場所であり、禅宗のお寺の基本配列はこのようになっているのだといいます。
江戸幕府はここを鎌倉五山の第二位として保護をしてきたのだが、幕末・維新の混乱で寺領を失い、関東大震災で伽藍のほとんどが倒壊し、昭和になって再建した佛殿は鉄筋コンクリート造だが、元亀四年(1573)の佛殿指圖(設計図)をもとにしているので古式を保っている、とのことです。頭に当たる法堂はまだ建っていません。

泉光院は次に建長寺へ行きますが、その前に見落としてはいけないのが東慶寺。圓覺寺のすぐ向かい側です。
東慶寺
ここは鎌倉尼寺五山の第二位だったのだが、他の4寺はすべて廃寺となり、いまはここも僧寺となりましたが、江戸時代は尼寺であって、しかも駆込寺として知られていました。

結婚という制度が定着した江戸時代、町民の夫婦が離婚をする場合には、夫の書いた「去状 さりじょう、暇状 いとまじょう」が必要で、妻の側からの離縁の自由はあまりなかったのでしたが、このお寺は不幸な結婚から女性を救うお寺でした。
お寺に駆け込んで、足かけ3年奉公すれば自動的に離縁が成立するという「縁切寺法」が認められていたのは、上州の滿徳寺とここ東慶寺だけでした。
現代の離婚は夫婦連名で確認的届出書を作ってハンコを捺して提出することで成立しますが、江戸時代の離婚制度は、夫にだけ離縁状を書く権利(あるいは義務)があったのです。
もちろん妻が離縁を望んでいるにもかかわらず離縁状を書かないのは夫の恥とされましたし、親戚や媒酌人、家主、お寺の住持その他の人たちが仲介に入って円満に納めるか、あるいは離縁をさせるかしたのでしょうが、どうしても離縁状を書かない場合の救済処置が駆込寺なんです。
離縁状のことをちょっと書いておきます。
もし夫が離縁状を妻に交付しないで再婚した夫は、所払(ところばらい=追放)の刑罰に処せられましたし、離縁状を受領せずに再婚した妻は髪を剃って親元へ帰されるという刑罰がありました。東慶寺三行半

右の書面は標準的な去状で、三行半(みくだりはん)というものです。一例を挙げておきます。
     一札の事
 一、今般双方勝手合ヲ以及離縁
   然ル上者其元儀 何方縁組
   致シ候共 私方ニ二心無
   依之離別一札如件
    年月日      何兵衛
       まるどの

この本文を三行半に書くので、離縁状のことを「みくだりはん」というのでした。
意訳するとこんな具合です。
 この度、双方協議の上、離縁いたします。
 したがって、今後あなたが誰と縁組みしようとも
 私に異議はなく、翻意することもありません。
 以上本状を以て離別状と致します。

この去状があれば、女の側は次に誰と結婚しても文句は言わせないのです。
江戸時代の江戸は、前にも書いたように発展途上の都市なので、あちらこちらから働き手の男たちが集まってきますし、長屋というワンルームマンションもたくさん建ったし、一膳飯屋や煮売屋や料理屋もたくさんあって、喰うに事欠きませんし、古着屋で着るものを調達すればすぐにでも働けてお金になった。そんなわけで、男2に対して女1という、圧倒的に男が多かったのでした。だから夫の側にだけ離縁状を書く権利(というよりもむしろ義務)があったとしても、あながちそれで妻の側が不利であったわけでもないのです。女は少なかったので、女房の方が亭主よりも強い場合が多かったのです。だから去状を書いて貰わなくっても駆込寺に丸一年とちょっと(この1年とちょっとという期間は妊娠などの成り行きの確認のために必要だったのかも知れない)、足かけ3年お寺に入って居れば別の男と一緒にもなれたし、夫が反省すれば復縁も容易だった。東慶寺水月観音

右は東慶寺の水月観音半跏像。
東慶寺水月堂に安置されております。見せて戴くためには事前に電話予約などが必要だそうです。

磯田道史という人は「武士の家計簿」という本を書いてずいぶん有名になりましたが、「江戸の家計簿」という本も最近書いて、それには江戸時代の収入・支出が詳細に書かれているのです。それによると、建設業の盛んだった江戸では、大工、左官、鳶職は江戸の三職と呼ばれて花形職業で、日当は一日銀五匁四分、いまのお金に直すと、約¥27,000ほどになるそうです。一ヶ月に25日働くとすれば800万円を超える収入となります。それに対して、家賃は一ヶ月5万円程、お米が1kg\430、大根1本¥110、卵が1個\200ほど、とかなりお安いようですし、外食をしても、蕎麦一杯16文=¥250、鰻丼になるとかなりお高くて、一杯200文=\3200。
泉光院のことを書きながらいつも思うのは、江戸時代は今よりいい時代だったという思いです。

次に、…夫より建長寺へ詣納經す。寺格伽藍右に(圓覺寺のことです)同じ。…
建長寺三門

建長寺は鎌倉五山の第一位の寺格を持っていました。創建は、建長元年(1249)に場所が定まって、1251年に伽藍の建立が始まり、建長五年(1253)に落慶供養が行われたので年号をそのまま寺号とした。
右が建長寺三門。
禅宗寺院建築様式





左は禪宗寺院の標準的な配置。
建長寺も、先の圓覺寺も、宋から招いた僧が開山となっていて、左の図のような宋朝の禪宗寺院様式をとりいれたのです。その流れをくむ越前の永平寺や、金澤の大乘寺も同じように建っているのです。
一番南(図では下)に総門があって、入ると心字池が広がっている場合がよくあります。普通は太鼓橋の形をした石橋があったりしますが、建長寺の心字池はずっと奥の方、方丈、龍王殿の裏にあって、池の中に島を配した名園になっている。。
総門・三門・佛殿・法堂が一直線に並んでいて、両側に庫裏や禪堂、風呂やトイレ、というのが先に書いたとおりです。境内の廻りには塔頭や子院が建っている場合があります。ここでは三門を入って右側に鐘楼がありました。建長寺梵鐘
「建長七年・巨福山建長禪寺」の銘のある國寶の梵鐘です。

建長寺ビャクシンの巨木

左は佛殿前に立っているおおきなビャクシンの巨木です。
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