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2017.10.06 (Fri)

泉光院の足跡 257 荒井關所

荒井渡舟ノ圖広重
舞坂から渡船に乗ると荒井宿に着きます。

廣重「東海道五十三次之内 荒井 渡舟ノ圖」

向こう岸の右端に関所の屋根が見える。関所の前が船着き場。
先を行く船は大名が乗っている御座船だろう、丸に笹龍胆の紋を染めぬいた幔幕を張り、吹き流しや白熊槍が立っている。
右が丸に笹龍胆(ささりんどう)の紋。丸に笹竜胆紋
龍胆の花と葉をかたどった紋章で葉が笹に似ているので笹龍胆紋と呼ばれている。りんどうは秋に藍色の美しい花を咲かせるので藤原時代からお公家さんの間で使われ、後に武家では清和源氏の流れをくむ家がよく使っているそうで、武家が天下を取るようになってからは、ちょっと偉くなった侍は我も我もと源氏の系統であると称して自分の家の系図を源氏に書き直して、姓の上に「源朝臣」をつけた。この龍胆紋ももちろんそうなんで、これだけではどこの大名か確定するのは難しい。
うしろの船に乗っているのは下っ端の中間(ちゅうげん)共で退屈そうに欠伸をしている。
渡し船を管理していたのは荒井宿のほうで、舞坂側には権利はなかったようです。
渡し賃を見ると、延享三年(1746)では「船一艘二百七十文也。一人前船賃と云ふ事はなし。船に乘合はす人数へ一艘の船賃割合せ出す也。」でしたが、それから100年ほど経った弘化四年(1847)だと「船借切り上下共四百十七文、乘合は割付人数次第」でした。乗る人数が多ければ船賃は安くなる勘定です。
船賃に限っていえば100年ほどの間の物価上昇率は150%。
現在の百年前というとほぼ明治の末年。その間の物価上昇率は10万%(1000倍)を超えているでしょう。なにしろ江戸時代は物価に限らずすべてに於いて非常に安定な時代でした。ワタクシの子供の頃(昭和10年代)、お祭りの時にもらう飴買い銭は30銭だった。今の子供、1000円くらいは欲しがるだろう。
新居関所です。昔は荒井と書きましたが今は新居です。
新居関所
船はこの手前の岸に着くので、下りたらすぐ御關所だった。

新居関所正面

左は新居関所の正面。

そして右は厳しい顔を見せている関所の御役人。新居関所内部

御役人の後には弓矢や槍・鉄砲などが並んでいる。不審な者は容赦はしないぞ!ということか。
徳川幕府は、西の方の旧豊臣方に属していた大名の反乱を非常に恐れていたので、このように箱根、そしてこの荒井の關所を厳重にしたのでした。
『諸國道中袖鏡(天保十年刊)』に、「御番所有、女、武具御改有也。吉田の城主より勤番也」。女・武具は言うまでもなく「入り鉄砲に出女」の取締。
新居関所女通行手形

男が通る場合は、「御關所上下共男は我が所を名乗り、其行先をいつわりなく申上げて通るべし。女は上下共御手形上る也」で、左がその「女手形」。

男は「○村の×助です、△町へ行きます」と言えばよかったのだが、女はこのような書付を提出し、確認を受けた。
新居関所鉄砲通行手形
右の書類は水戸藩主徳川光圀が京都から江戸へ鉄砲一挺を取り寄せる際に発行した手形。同じ徳川御三家のうちであっても武器の搬入は厳重にチェックを受けたのでした。
鉄砲や武器を江戸へ持ち込むことを厳しく取り締まるのはわかりますが、なぜ女の出国を厳しく取り締まったかというと、大名の奥方は江戸に、いわば人質としてずっと居ることになっているので、大名が参勤交代で國元へ戻っている時に、奥方が國元へ行けば人質が逃げ出したことになるのでそれが困るのです。
新居御關所にはこのような書類がたくさん残っていて、当時の管理が厳重であったことを今に物語っているのです。

無事御關所を通り抜けたあたりは商店街だった。かの彌次郎兵衛喜多八の両名はここでウナギの蒲焼きを食べていますし、戯作者・狂歌師として知られた太田蜀山人南畝は本来の仕事である幕府の役人として大坂銅座御用のため寛政十三年(1801)に出張した時、ここで「鰻よろしと聞きて、ある酒屋に立寄りて食すに、味ことによろし、駿河なる柏原のものと同日の論に非ず。」と激賞しているのです。
ワタクシがまだ湖西市あたりに住んでいた頃は浜名湖畔に鰻の養殖場が沢山あって鰻を出荷していました。うなぎ料理渥美
亡息一周忌の時、横浜のムジコン(Musica Conchertino の略)という亡息も一緒にやっていた古楽のアンサンブルの人たちを、まずお昼に駅前近くの創業1907年という老舗鰻屋でウナギを食べてもらった。お店の中に生け簀があって、お客の注文があってからウナギをさばく店だった。
右はウナギ料理いろいろ。上から時計回りに蒲焼き、肝吸い、白焼き、丼。
お店の勧めはタレをかけないで焼いた「白焼き」(下のお皿)。ウナギ本来の味をいかして甘くとろりとしたウナギを味わうのです。
法事のあと、エピファニーという亡息の好きだったフランス料理の店を貸切にして持ち寄った楽器でミニコンサートをしたのでした。

荒井の宿を出ると街道はやがて山にぶつかるので左に折れて海岸べりに出ます。白須賀宿はもともとは海岸沿いにあったのだが、宝永四年(1707)の地震と津波で壊滅したので汐見坂の上に移転しました。
白須賀広重汐見坂圖東海道五十三次

廣重「同会堂五十三次之内 白須賀 汐見阪圖」

絵は汐見坂の途中から見た風景。
眼下に遠州灘が広がり、白い帆が海に映える絶景を見ることが出来た。
ごく最近まで国道1号線がここを通っていたのでトラックがひっきりなしに轟音を響かせていて怖い道路だったのだが、以前有料だった浜名バイパス、汐見バイパスというのが無料になった途端、トラックはそっちの方に行ってしまったので、こっちを走るトラックは激減して、汐見坂から遠州灘
以前この坂の途中にちょっと平らな場所があっていつもトラックがたくさん止まっていた空地が空いたので、そこに車を止めるとちょうどこの景色とよく似た景色が眺められるようになった。違うのは沖の白帆に代わってタンカーや自動車運搬船が居ること。





右は白須賀の町並。昔の街道風景です。白須賀宿街並



白須賀の宿場を出ると遠江國から三河國に入ります。最初の宿場は二川宿。
二川猿ヶ馬場広重東海道

廣重「東海道五十三次之内 二川 猿ヶ馬場」

白須賀の先に猿ヶ馬場という小松の生えた原があった。今はこのあたりに日本を代表するような電気関係の工場が建ち並んでいて昔日の面影はない。
二川広重猿ヶ馬場茶屋

柏餅が名物だったようで、画面左の茶屋に「名物 かしハ餅」の看板が上がっていて、男が一人、注文しているのかお金を払っているのか。
二川広重猿ヶ馬場部分

三味線を背負った女が3人、やはり茶店に向かっている。盲目の彼女たちは三味線の弾き語りをして各地を廻っている瞽女(ごぜ)という女芸人です。娯楽の少なかった田舎では喜ばれました。
水上勉に「はなれ瞽女おりん」というのがあります。水上勉文学の中でも最高という評価の高い小説です。映画にもなりました。岩下志麻がこの映画で最優秀主演女優賞を貰いました。
二川の、この淋しい風景の中に瞽女がいることでいっそう寂寥感があふれ出ています。旅を続け、芸を売ることで生きている彼女たちの人生をも感じさせる一枚です。
二川宿の場所は国道1号線が町なかを通らなかったので今でも古い面影を残している町です。町のすぐそばをJR東海道線と東海道新幹線が通っているけれどもこれもほとんど町並には影響を与えなかった。
二川脇本陣二川脇本陣上段の間

左は二川宿本陣の馬場家。そして右が上段の間。
享保年間(1720年代)建築の表門、宝暦年間(1750年代)建築の母屋、文化年間(1800年代)建築の玄関、土藏などが豊橋市の補修で残っている。雪隠(トイレ)や風呂場も公開している。裏の空地には二川宿本陣資料館というのもあってよく出来ているそうです。
窟屋観音正面
JR東海道線(新幹線も)の二川駅から京都方面に向かって右手の窓から山の方を見ると小高い山(107m)の上に観音様の立っているのが見える。窟屋観音真横

岩屋觀音といいます。

明和二年(1765)と台座に記入してあった青銅製の觀音様だったのだが、この前の戦争の時に「供出」させられてしまって、いま立っているのは昭和25年の再建です。
電車でここを通った人はたいていこの観音様を見たことはあるでしょう。身長9尺6寸(約3m)のこの観音様は、江戸下谷の大工、茂平と善左衛門が寄進しました。彼らは豊川に架かる橋の設計施工を担当したのだが、壊れない橋を設計するために七日間お堂に籠もって祈願し、満願の日に、夢に觀音様が現れて、橋の最適勾配をることが出來て、無事橋は完成したのです。それでここに觀音様を寄進したのでした。

今の豊橋市が吉田の宿です。
吉田広重豊川橋東海道

廣重「東海道五十三次之内 吉田 豊川橋」

豊川橋は今の国道1号線の橋よりももう少し下流にあって、この絵のように吉田城からはるかに「小手をかざして」見る様な距離だった。吉田広重お城から遠望

吉田広重豊川橋拡大

この橋は長さが百二十間(約218m)あって、矢作橋、瀬田の唐橋とともに東海道三大橋に数えられていました。それだけに、架橋を請負った大工はお堂に籠もって祈願をしましたし、完成の暁にはお礼の気持ちを込めて觀音様の像を寄進したのでした。
豊川橋を大名行列が渡っている。それをお城の修理に来ている大工が珍しそうに眺めている。
吉田城天守閣
右の吉田城天守閣は築城当時のものではなくて、これも明治維新後にすべて取り払われてしまったのを昭和29年に復元したものです。

吉田城の城主も 濱松と同じように、「代々の諸侯連綿として居城し玉ふ。」と譜代の大名たちが次々とやって来ては次の領地に転勤なさる。しかも所領というのは非常に少なくて、濱松が5~7万石、ここ吉田も7万石といった程度。仙台伊達の62万石、加賀前田の102万石、薩摩島津の77万石といった外様大名に比べると将に雲泥の差。
それでも東海道の交通の要地として宿場はたいそう繁盛した。さらには当時のガイドブックにもあるように、「此宿大に繁華にして娼家多し」であって、「昔唄に曰く、♪吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振袖で♪」というような唄が流行ったのです。吉田広重吉田通れば二階から

この唄は、俗説では家康の孫娘で豊臣秀頼の夫人であった千姫、吉田御殿に美男を招き入れた、といううわさ話によるものであって、おそらくは事実と異なるだろうと思います。

右の絵は廣重の「人物東海道五十三次 吉田」。
まさに二階から招いている図です。

二川から来た道は、吉田城の前を通って豊川橋を渡るのですが、その途中に創業文化年間という「菜飯田楽」を食べさせる「きく宗」というお店が今でも営業をしております。泉光院が歩いていた頃でもそのお店で菜飯田楽を食べることが出来たのです。


豊橋きく宗店の前豊橋きく宗菜飯田楽


このお店は昔は東海道に面していたのだが、吉田大橋が御城の近くに架け替えられて国道1号がそっちの方になったので、このお店の場所はちょっと捜しにくい裏通りになってしまった。
ワタクシは豊橋ではほとんど食事をしないのだが(前に書いた、白菜と豚肉のすき焼きの件のためです。豊橋の食べ物に嫌悪感を持っているのです)、饂飩の「東京庵」と、この「きく宗」だけは立ち寄って食べるのです。この菜飯はダシで炊いたご飯に大根の葉ッパを細かく刻んだのを混ぜ合わせただけのものなのだが、不思議と美味しい。
22:47  |  街道周遊  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

2017.09.30 (Sat)

泉光院の足跡 256 今切

浜松城下へ入ってしまったのだが、その前に東海道と姫街道のことを少しばかり書いておきます。
中野町から少し行った所に東海道と姫街道の分かれ道があります。
東海道と本坂通L

東海道と姫街道の関係。下の赤い道が東海道で、上のピンク色が本坂道、俗に姫街道という道です。つまり浜名湖を渡るのが東海道で、それを避けて浜名湖の北を通って本坂峠を越えるのが姫街道。
本坂越分岐
天龍川を渡ってから中野町の東海道を少し歩くと左の写真の地点。安間から姫街道へ入る分岐点です。鳳来寺道道標安間公民館
ここを入ると先号で入れておいた「鳳来寺道」の道標のある場所へ出て、上の地図にあるように浜名湖の北を通って、気賀の関所、本坂峠を経て三河國御油宿で東海道と合流します。
姫街道三方ヶ原一里塚
左が浜松市内にある姫街道の一里塚。

気賀関所門

そしてこちらは気賀の関所。平成元年頃になって再建されたというのだからいったい何のために?
観光のために役に立つのだろうか。不思議な建造物です。

観光のためなら姫街道の名前の通りお姫様の行列を見せれば宜しいのです。
春の花見の頃に見られる「姫様道中」のシーン。
気賀姫様道中気賀姫様道中駕籠のお姫様







これだとずいぶん見物人も集まってきます。

姫街道も山道となればやはりきびしいです。本坂峠県境
楽な道ではありません。
ここが本坂峠の頂点。遠江國と三河國の境です。
だが何故この山道が姫街道?
それには次のような理由がありました。

1. 新居の関所は取り調べが厳重だ。
2. 舞坂と新居の間の舟渡しが嫌だ。
3. 浜名湖の渡しは「今切れの渡し」と呼ぶのだがその名前が不吉だ。
姫街道引佐峠石畳
これらの理由は特に女性にとって重要な理由でした。新居關所は箱根と同じく鉄砲改めと女改めが厳しかったのですし、舟渡しも怖がる女性が多く、また「縁が切れる」という連想で、嫁入りのさいは絶対に新居の渡しを通らなかったのでした。
かなり傷んでいるようですが石畳道も作られています。
姫街道一里塚細江町
そのため本坂越は女性の通行が多く、いつの間にか姫街道と呼ぶ習わしになったと言われています。だが江戸幕府の公式文書では常に「本坂越」が使われています。

左、細江町に残る一里塚跡の碑。

東海道へ戻りましょう。
はじめの方に出しておいた安間の分岐点からすこし進むと領界石があります。
街道筋からちょっと入り込んだ場所にあるからガイドブックには滅多に書かれていない。従是西浜松領全体
従是西浜松領お堂

「從是西濱松領 (これよりにしはままつりょう)」と彫ってあります。従是西浜松領庚申らしいもの

石碑の左後ろにある小さなお堂を覗いて見たら庚申の様なものや佛像らしきものやよくわからぬものが並んでいました。





東海道立場の松
風変わりな松の木があって、説明によると「立場跡」。
立場というのは、宿場と宿場の間にある休憩所のようなものです。見付宿と濱松宿の間は四里七丁(12.6km)もありますから、途中で休憩したりお茶を飲んだり、という場所が必要ですよね。
蒲神明宮大鳥居
大きな鳥居が見えてきます。
ずっと奥へ入ると蒲神社があるのです。
蒲の冠者範頼(源頼朝の弟、三河守源範頼)の領地だったらしい。この神社の神主はいまも源範頼の末裔だそうです。


馬込川橋
これは馬込川に架かる橋で「馬込橋」。この橋の手前(右側)に木戸があって、濱松宿の入口でした。いまも木戸町という名前です。この橋を渡れば濱松宿。
少し行くと「夢告地藏」が見えてきます。夢告地蔵ほか新町夢告地蔵新町

安政五年(1858)にコレラが流行ってその時に死んだ人を供養してお地蔵さんを造ったのだが、明治になってまた例の廃佛棄釋の騒ぎで土中に埋められてしまった。しばらく忘れられていたのだが、ある時町民の夢枕にこのお地蔵さんが現れて掘り出されてこの地に祀られたのでした。

お堂の中に入っているのが夢告地藏。右がそのお地蔵さん。ほかにも道ばたにあった佛像らしいものも一緒に合祀してあるようです。700mほど行くと昔濱松城の大手門があった場所になりますが、今は浜松市の中心部で、道は直角に左に(南方向に)曲がって本陣跡や旅籠町などと、かっては宿場らしい家並みが続いていたであろう町となり、その裏には、肴町・大工町・鍛治町・紺屋町etc、といった庶民生活の場になります。
子育地蔵菅原町全景

そこから少し行った成子町で東海道は右手に曲がって西に向かいます。ここの所で濱松宿はお終いになって、西の番所がありました。今はその近くにお地藏さんのお堂(右)があります。

子育地蔵菅原町ほか
子育地蔵菅原町


首の欠けたのや割れてしまったのや、全部で17体ほどの石佛が納められております。後列真ん中の摩耗のはげしいお地藏さんは台座に享保八年(1723)と彫られてあるらしいから徳川吉宗が将軍だった頃から祀られていたものと思われます。縁起によると、このお地藏さんに願をかけたところ子供が授かったというので、子育地藏尊。

この先に行くと、道の両側にお堂があって「二つ御堂」といいます。
奥州平泉の藤原秀衡(この人は源義経がまだ子供だった頃、成人するまで育てた人で、のちに義経が追われたときに秀衡を頼って弁慶とともに平泉まで逃避行をする、という時の人です)が京に出向いている時のこと、秀衡公が大病であるという知らせが平泉にいた愛妾のもとに届き、看護のために急遽京に向かったところ、ここで飛脚から秀衡公死去の知らせ(それは誤報だった!)を聞いた愛妾は、菩提を弔うためにここに堂を建て、自身も間もなくここで亡くなってしまった。二つ御堂北堂と神社

右は二つ御堂北御堂です。阿彌陀如來が祀られております。

間もなく秀衡は病気が回復して帰国のためここへ来てこの話を聞いて嘆き悲しみ、愛妾への感謝の気持ちで向かい側にお堂を建てて供養をした。
二つ御堂南堂
それがこちら、二つ御堂南御堂です。藥師如來が祀られています。
二つ御堂は向き合って建っています。
毎年十二月十四日、供養が行われているそうです。二つ御堂北堂馬頭観音
上の写真、北御堂の左側に小さなお堂が見えていますね。
扉を開けてみたら馬頭観音が入っていました。馬頭観音は頭上に馬の頭と宝冠を乗せ、三面六臂の憤怒像で、台座には「宿馬中」と刻まれている。馬頭観音は伝馬を仕事としていた人たちが交通安全祈念のために建てる場合が多いです。
従是東浜松領北側

左、「從是東濱松領」の領界石です。
先に出しておいた「從是西濱松領」と対になるものです。
JR高塚駅付近のスズキ自動車㈱本社の近くにあります。

こうしてみると、「濱松領」という領地はとても狭くて、東が安間川付近にあった「從是西濱松領」(日本橋から六十四里付近)の領界石から西はここの「從是東濱松領」(日本橋から六十六里半ほど)の領界石まで、東西わずか10kmほどで、、南北は海岸から山の麓までこれまたわずか30km程度の領地しかなかったことになるのです。
だから濱松城に入った大名も慶長七年の安平忠頼5万石、慶長十九年水野重仲2.5万石、元禄十六年本庄宗俊7万石、文化十年井上岑有6万石、と実にわずかな碌しか貰っていない大名ばかりなのでした。
前号で、…濱松は文化不毛の地、…と書いたのだが、殿様の給料がこんなわずかだったら文化という金食い虫を育てる余裕はないだろうとワタクシも納得してしまった。
舞阪杉並木1

東海道舞坂付近に残る松並木。
今に残るかなり長い(約700m)松並木です。浜松市の史跡に指定されていて、両側に369本の松が並んでいて、倒木や枯死があった場合は捕植をして保存を図っているそうです。

舞坂宿東の入口です。舞阪見付石垣
街道の両側に「見付石垣」というのが残っている。
ここは宿場に出入りする通行人を監視する場所で、大名の通行の際にはこの石垣の横に番人が立ち、人馬の出入りや治安の維持に当たった。この石垣は宝永六年(1709)の繪圖に描かれているのでそれ以前に設置されていたらしい。
舞坂一里塚南側常夜灯
このすぐ先に舞坂一里塚跡がある。日本橋から68里目。
一里塚は道の両側に造るのが本来なので、左の写真は南側の一里塚跡。常夜灯も立っている。


右の写真は北側の一里塚跡。舞坂新町北一里塚


明治七年の調査では一里塚の廣さは南北共に五歩(=平方坪、約16.5㎡)だったそうだが、その後人家が侵入したようで、江戸時代と様子は違っているのかも知れない。
舞坂宿脇本陣
舞坂宿脇本陣です。
東海道筋では本陣はいくつか残っているのだが、脇本陣が昔のままで残っているのは珍しい。東海道筋では唯一のものだそうです。
この向かい側に本陣が二軒、宮崎傳左衛門本陣と、源馬徳右衛門本陣があったのだが 今は両方ともなくなってこの脇本陣が残るだけです。

脇本陣の隣りに西町常夜灯が立っている。舞阪西町常夜灯秋葉対馬両皇大神宮
今切渡船場を目前にした場所です。
文化十年(1813)建立。
正面に「両皇大神宮」、右側面に「秋葉大権現」、左側面に「津嶋牛頭天王」、背面に「文化十癸酉二月□□ 願主西町中」と書いてあります。

ここまで来ればすぐ浜名湖の船着場。
舞坂側には北雁木、中雁木、南雁木の三ヶ所に雁木(がんぎ=スロープ状に石を敷きつめた船着場)が設けられた。
舞坂北雁木
左は北雁木。
灯台のような常夜灯が立っている。北雁木は諸侯(大名や公家、幕府役人)用で、中雁木が普通の武家、南雁木が庶民及び荷物用とされた。
ずいぶんな身分差別ですね。

ここで船に乗って次宿、荒井宿へ向かいます。

舞坂今切眞景広重

廣重「東海道五十三次之内
 舞坂 今切眞景」

浜名湖は明応七年(1498)八月二十四日の地震で海寄りの濱が切れて遠州灘とつながってしまった。
その際、切れた砂州を今切(いまぎれ)と呼びます。
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2017.09.23 (Sat)

泉光院の足跡 255 犀ヶ崖

鳳来寺山を下りた泉光院は、三河一の宮、三河國分寺、と詣納經をして御油の宿で東海道筋へ出ます。天龍川を渡らず、新居の関所も通らないのでその間を簡単に書いておきましょう。泉光院は浜松宿、舞坂宿、荒井宿、白須賀宿、二川宿、吉田宿に足跡を残していないので、「泉光院の足跡」の表題で書くのは心苦しいのだがワタクシの住んでいる付近なのでお許しを願います。
池田宿天竜川渡し場標石天龍川鉄橋

見付の宿から東海道を西にむかえばすぐに天龍川です。
左はかって「渡し場」だった場所の石碑と向こうに見えるのが天龍川の堤防。暴れ川だから堤防も高くて大きいです。右の写真は天龍川を渡って浜松市の側の堤防から見た天龍川の川原と国道1号線の通っている橋。
天龍川明治天皇碑
明治元年、明治天皇は新しく東の方、江戸と言われた場所に都を作って「東京」と名付け、そこへ行くためにこの場所で一休みしました。
向こうに見えている神社の下から東海道です。

中野町東海道表示

ここが中野町で、『東海道巡覧記』には「中の町 京・江戸の眞中と云ふ」と説明している。ここからまた東海道が始まります。
中野町道路原票










中野町東海道スタート地点振り返れば中野町の町並。これが今に残る「東海道」の町並。
このままほぼ一直線に濱松城の下あたりまで続いているのです。
東海道松並木薬師町
中野町からもう少し行くと松並木が少々残っていたり(薬師町)、鳳来寺道という道標が見えて、東海道から分かれて浜名湖の北から本坂峠越で三河国へ、あるいは秋葉山経由鳳来寺山へというルートも見つかります。本坂越分岐点
目立たないけれども、ここが東海道と姫街道(本坂越えの道)の分岐点。鳳来寺道道標安間
まっすぐ行くと「鳳来寺道」という標石が見つかったりします。鳳来寺道道標


保永堂版「東海道五十三次之内 濱松 冬枯ノ圖 」
浜松冬枯れの図保永堂版

濱松宿に程近い街道筋のようだ。浜松冬枯れ城と松拡大
雲助たちが焚き火をしている手をかざして暖を取ったり、キセルで煙草を一服しているのも居る。遠くには濱松宿の家並みも(屋根だけだが)見え、徳川家康築城のお城も見える。右手に松が数本生えております。お城と松の木の部分を拡大しました。松の木(左から2本目)の横に立札が見える。「此宿、もと引馬(曳馬が正)の宿と云ふ由、いざよひの日記(十六夜日記、阿佛尼が1280年頃鎌倉幕府へくだった時の道中記)に見へたり」と書いてあるのだそうです。

この松の下で、永享四年(1432)、足利義教が富士山を見に行く途中に宴を催しました。そのとき、♪濱松の音はざざんざ♪、と謡ったことから、それまでは曳馬と呼ばれていたこの地が「濱松」となったということです。颯々松圖會颯々松圖會義教氏


義教氏だけ拡大もしておきました。
将軍足利義教が富士山を見に行くために京を離れたのは1432年9月10日のことで、歴史年表を見ていると、1441年6月に赤松氏に殺されるまでの義教氏は実に多忙な政治生活を送っていたことがうかがわれます。


颯々松野口町b
この松は浜松市の中心部からちょっと東にはずれた野口町の民家に一本だけ(代は替わっているのだろうが)残っていて、以前(ワタクシが浜松に住むようになった頃)その松の木の横にやはり立札が立っていて、「ざざんざの松」の由来が書いてあった。
颯々松野口公園

その後、右のお宅の松は廃せられて(有名な物を個人のお宅で管理するのは大変です)、近くの野口公園に何代目かの颯々松(この字でざざんざの松と読みます)が植えられ、由来を記した石碑も建てられました。

その後さらにこの颯々松は近くの八幡宮境内の片隅に移されてしまって、小さな松の木と石碑はあるのだが松の木は小さなものになってしまって今は見る影もありません。
謡曲のことをまったく知らないヨリックなので、本当は♪濱松の音はざざんざ♪というのは何かの謡曲に入っているのだろうと思うのですが、恥ずかしながら出典を書けないヨリックです。
それにしても!と思うのです。
「濱松」という地名は将軍義教氏によって名付けられたのであれば、浜松市長はもっと足利義教氏に対して敬意を払うべきではなかろうかと思うのでした。

江戸時代古地図で颯々松とワタクシの家の場所を入れておきました。
東海道は、右端、馬込川の「川」の字の所から右に真っ直ぐに伸びて、鍵の手に曲がってから下の方に延びている道です。左上のゴチャゴチャしているのは濱松城。
浜松古地図颯々松

濱松城は徳川家康が元亀元年(1570)、岡崎城を息子の信康に譲ってここに城を建てて入ってから17年住んでいて、この間に、三方原、姉川、小牧、長久手、と有名な合戦が行われています。江戸時代になってからの濱松城は譜代の大名が次々と入れ替わり立ち替わり入って、替わるたびに少しずつ偉くなって「つぎの領地へと」転勤して行くので「出世城」と呼ばれた。だが平和な時代になって、戦功を挙げることが出来なくなってからは出世するためには余程の才能があればともかく、普通の人が上司から「お覚えめでたく」偉くなるためにはやはりワイロが必要であっただろうし、そのためには集めた年貢のうちからかなりの部分がワイロに消え、数年ごとに城主が代わるので城主も「自分の領地」という愛着心に乏しいから、文化政策といったことに力を注ぐことはなかった。そのためだろうか、浜松という町は文化的には非常に後進地となっております。
金澤という町は、前田家代々が百万石余の財力を(軍備にはまったく使わずに)文化芸術のために投資して、京から師匠や職人を招いて、茶の湯、能楽、陶芸、漆芸、料理や菓子といったことに力を注ぎ、、さらには色町(東・西・主計町といった)を造って藝者さんを育てて、笛や太鼓の芸を楽しむといったことを広めたために、市民もそれに乗ったのでした。金澤では「謡が空から降ってくる」といわれましたが、それは植木屋が松の芽を摘みながら謡曲を謡うのでそのように聞こえたのでした。
浜松城天守
浜松城です。
「本坂越」の道は、江戸時代になって正式に東海道が制定されてからは脇道になってしまったのだが、浜松城の城郭を廻るようにして北へ、ワタクシの家のすぐ近くを通り、道路標識には国道257と「姫街道」を併記してあります。
姫街道は徳川家康が武田信玄の軍と戦って惨敗した記念の戦場である三方原を経て、浜名湖の北側、気賀から峠越えで三河国へと行きます。徳川家康おしかみの像
右は「徳川家康 三方ヶ原戦役画像」、俗に「神君お顰(しか)みの像」といいまして、当時31才だったのだが、この時の敗戦がよほど応えたらしくて、憔悴しきった老人のような顔に描かせて、この画像を座右に置いてその時の屈辱をかみしめ、将軍職に就く者は必ずこれを見るようにと遺言をしております。
なにしろ武田信玄の策略に乗せられて命からがら濱松城へ逃げ帰ったのですから。そしてそれは家康の戦歴の中で唯一の敗北でしたから。
犀ヶ崖三方ヶ原古戦場碑
犀ヶ崖を見下ろす

当時は荒野だった三方ヶ原から左、濱松城へ逃げ帰る途中にある犀ヶ崖古戦場の碑です。
そして右がその碑の裏から崖の下を見下ろした場面。
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この時の戦争の情況を書いておきます。

元亀三年(1572)10月、上洛の野望を抱いた武田信玄の軍はは甲斐國を出発します。甲斐から信濃へ入り、先号の所で書いた兵越峠、青崩峠あたりから遠江國に進軍して遠州北部を次々と手中におきながら南下して、三方ヶ原台地に陣をはりました。
老練な信玄は、堅固な濱松城を直接攻めるより、若い家康をおびき出して戦った方が有利と考え、一旦、台地から西に逃げ去るそぶりを見せます。
家康は直ちに濱松城を出て追撃します。
この時の武田軍は北条氏の援軍も併せて約35,000人、信玄52才。「魚鱗の陣」。
対する家康軍は約11,000人、家康31才。「鶴翼の陣」。
数に勝る武田軍に家康軍は総崩れとなり、家康も九死に一生を得てお城に逃げ帰るのです。だが家康は反撃に出るために一計を案じました。犀ヶ崖の所に布を貼って堅固な橋が架かっているように見せかけると共に、濱松城近くの普済寺に火を放って濱松城が炎上しているように見せかけたのです。武田軍は、チャンス!とばかり濱松城めがけて軍を進めたら布橋に乗り上げ、布橋は崩れて、人も馬も次々と崖下に転落したのでした。武田軍はそれ以上濱松城の攻撃をあきらめて西へ進みました。
徳川軍はこの時の戦死者1,000人に及び、大敗北でした。多くの将兵を死なせた家康は、この時の敗戦を教訓として無謀な戦争をしないようにしたのでした。
犀ヶ崖合戦図
左は「三方ヶ原合戦之図 揚州周延筆」。
左側が武田菱の文様があるので武田軍かと思われます。右の白馬に乗っているのが家康でしょうか。注釈が書いてないのでわかりかねます。


濱松城も、犀ヶ崖、普済寺も、みんなワタクシの家から徒歩10分ほどの所にあって、お散歩コースでありますし、犀ヶ崖周辺の町の名前は布橋一丁目、二丁目、などと古蹟を偲ばせる名前がついているのです。
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2017.09.17 (Sun)

日記 2017年9月

1日 金 1004hPa 晴→曇 
爽やかな風で目が覚めた。萩の花9月1日
お散歩をすれば季節の花も迎えてくれる。秋ですねぇ。
Pao へ行って珈琲。
塩崎サンも来ていた。
桃を頂く。
自家製ので、無農薬。
安心して頂けます。

桃塩崎サンPao

今月から、レコードのカタログを制作しようと思って、ファイルと紙を買いに行く。
写真のサイズ、曲目などの記載の仕方、といったことを考え中。


2日 土 1005hPa 曇→晴 賀茂記念館・古事記講座第3回。色好み仁徳天皇の行状記。
黒比賣、髪長比賣、矢田若郎女、宇遅能若郎女といった女たちのこと。皇后石之日賣命の嫉妬。
hiroサンに桃を少々お裾分け。
3日 日 1006hPa 曇 町内の防災訓練。防災訓練9月3日町内
訓練の内容は昨年と同じく毛布と竹竿で担架を作って人間を乗せて運ぶのと、消火器を使ってみるだけ(実際に火災を消すのではない)の訓練。火が燃えていないので緊迫感は全くないけれども、何回もやることで消火器のレバーを引く指の動きも滑らかになるであろう。写っているのは指導している消防団員とワタクシ。
4日 月 1008hPa 曇 Paoで珈琲。
5日 火 1010hPa 晴 DOCOMOのお店へ行って、現在は電話の料金とインターネットの料金をNTTに、携帯電話の料金をDOCOMOに支払っているのを、設備その他一切変更なしにDOCOMO一括で引き落としにする様に契約をしてきた。少し料金が安くなるかも知れない。そしてはじめはガラケーをスマホにしようかなと思ったのだがそれは止めてガラケーのままにしておき、ちょっと小さめのタブレットを一つ買うことにした。まだ使い方は全然判らない。
6日 水 ○ 1008hPa 曇→晴 Chantilly で珈琲。薄雲が少しかかっているけれども満月は美しい。
今日の朝日新聞朝刊【虎屋のようかん優しくゆるく】。
記事を一部引用します。ろらやゆるるか発売記事部分
…和菓子店の虎屋が、高齢者に配慮したようかん「ゆるるか」を発売した。主力商品の「夜の梅」のかたさの水準を1とすると約27分の1。同社の水ようかんと比べても約5分の1のやわらかさという。 … 高齢者が食べやすいようかんの開発に着手。原材料は従来と同じ小豆、寒天、砂糖だが、材料の見直しや水分量の配合などを調整し、やわらかい食感を実現した。…

とらや夜の梅こちらは主力商品である「夜の梅」です。
笛吹乙女哲子サンから頂いたのがまだ残っていたのを思い出して、さっそく食べてその「かたさ」というのを齒や舌に感じとらせました。
そして新発売の「ゆるるか」という羊羹が、この27分の1の堅さ!だというので、それじゃぁまるで甘い絹漉し豆腐のようなもんじゃぁないですか。
ワタクシも「こうれいしゃ」でありますが、そんな羊羹は食べたくないですねぇ。


7日 木 白露 1002hPa 曇一時雨。ラフマニノフAllnightvigil第3曲後半
ラジオでラフマニノフ作曲、晩禱、をラトビア放送合唱團の演奏で聞いた。とても綺麗な合唱。
ラフマニノフAllnightvigil表紙

左は表紙、
右が第3曲 Blazhen muzh の後半部分の楽譜。
アリルゥイヤ という言葉の繰り返しの部分。
全曲、どの部分をとっても綺麗な音楽です。
横山サンにも楽譜を買って送ったのに、楽譜が手元に届いた頃に死んでしまった。レコードを聴きながら一緒にバスの部分を歌う事が出来たらどんなに楽しかっただろう。それを思うと横山サンの死んだのがとても口惜しい。
8日 金 1006hPa 晴 照サンにtel。久しぶり、元気そうでした。
9日 土 1007hPa 晴 さつまいもの芋焼酎というのを買ってきて呑んでいる。好きになるかどうか不明。
10日 日 1008hPa 曇→晴 無事
11日 月 1009hPa 晴 無事
12日 火 1006hPa 雨→曇 Chantilly でケーキセットを食べた。チョコレートケーキ。
13日 水 1013hPa 晴 久しぶりで気圧は1000hPaを超えた。こっちの気圧が高いといま先島諸島のあたりにいる台風18号がこっちの方には来ないだろう。
ラジオでラヴィ・シャンカールのシタールの演奏をかなりたっぷり聞かせてくれている。北インドの音楽は以前浜松北部の光明山での演奏会で聞いてから親しい音楽です。以前、このようなインド音楽などに親しんでいると西洋音楽は単調でつまらない、とインドの人が言っていたのを今でも耳に残っている。
14日 木 1013hPa 晴 本屋へ行って「ニコリ vol.160 秋号」を買ってきた。ニコリ音楽迷路
ワタクシは迷路とクロスワードが好きで、この号の特集は迷路。右に載せたのは楽譜をちりばめた迷路で、左上の★印からスタートして右下の円内にある★印まで通過して、通ったところにある楽譜を並べると…何かの曲になりますよ…という迷路。ほかにも面白そうないくつかあるので楽しみ!
15日 金  1014hPa 晴/曇
久しぶり、Pao で珈琲。
Paoの えり子サンから左のお土産を戴く。
Paoえり子サン船旅お土産
9日間にわたる船旅、いいですねぇ。
外国人と英語で自由に会話ができて、大きな客船に乗って、港々に立ち寄って、ゆったりした時間を過ごす。えり子サンのようにできればいいですねぇ。
16日 土 1013hPa 曇/雨 Pao で珈琲。ほかにお客がいないのでえり子サンとおしゃべりができる。
秋雨前線が居座っているので、涼しい風が吹き小雨がぱらつく。
モーツアルトのピアノソナタc-moll、内田光子のピアノで聞く。この音楽は好き。内田光子のピアノも好き。
17日 日 1012hPa 曇/雨 台風18号は九州南部から四国西部に上陸。大分県などに豪雨被害。敬老の日赤飯とウナパイ
敬老の日の御祝品として町内から赤飯とうなぎパイ(ミニ)を下さる。赤飯は昼と晩のご飯で食べてしまった。
18日 月 敬老の日 1002hPa 台風18号、九州、四国、北陸へと通過、夜半少しばかり風が吹いたようだ。


19日 火 1004hPa 晴
台風一過、風はさわやか。佐鳴湖西岸風景1
佐鳴湖へお散歩。
西岸から東を見た風景。
佐鳴湖伊能忠敬測量隊跡

伊能忠敬という江戸時代の測量隊の人たちもここへきて富士山を測ったという。
この位置は、
北緯:34°42’37"
東経:137°41'30"
海抜:1.753m
の地点。

佐鳴湖八景というのがあって、瀟湘八景や近江八景にちなんでそのような名前をつけてある。
佐鳴湖八景
一番右から時計回りに、大田落雁、大良暮雪、三山青嵐、西湖山晩鐘、北浦帰帆、大家橋夕照、少林山晩鐘、大山夜雨の八つ。一回り5.5kmだからお散歩にはちょうどいいのだが、そこへ行くまでが大変。
佐鳴湖エビカツコッペ
途中で休憩して、木の切り株に腰を下ろして、シャンボールというパン屋で買った「エビカツコッペパン」という奇妙なパンを食べた。

佐鳴湖ボート部の高校生ボート部の高校生たちは練習をしている。それを眺めながらパンを食べる。

 Paoで紅茶。紅茶も美味しい。浜松演劇鑑賞会の入会金\2500と会費6ヶ月分13,800
合計\16,300を払い込む。
まず11月10日~15日、ゴーゴリ原作「検察官」を見に行く予定。見に行く日はえり子さんに一任。
20日 水 ● 1006hPa 曇 Paoで珈琲。ワルツで珈琲豆を少々買う。ポイント5倍デーなのだ。 
21日 木 1007hPa 晴 サティの歌曲を聴いている。
Je te vous. あんたを欲しいの。男声版と女声版があって、男声はテノール、ニコライ・ゲッダ、女声版はソプラノ、マディ・メスプレが歌っている。この歌は好きなので楽譜も買ってあるのだが歌う機会がないのが殘念。ワタクシの歌う Je te vous を聞いてくれる女性が居てくれればウレシイのですがねぇ。
22日 金 1009hPa 晴→雨 Paoで珈琲。
23日 土 秋分 1009hPa 晴 
秋のお彼岸。鴨江山鴨江寺へ行きました。鴨江観音秋彼岸本堂
鴨江観音秋彼岸曼殊沙華昔、(ワタクシはいつも昔、と言います。ワタクシが浜松へ来た頃のことです。半世紀ほど前の時代)お彼岸になるとこのお寺の境内はサーカス小屋や見世物などそれはそれは賑やかだった。いまはわずか十指で数えるほどの露店が店をはっているだけです。それでもワタクシは春秋、欠かさずお詣りに行きます。
秋ですから曼殊沙華の花も咲いています。
24日 日 1011hPa 晴 無事。
25日 月 1012hPa 晴 警察署へ行って、自動車運転免許証の返納方法について話を聞いてきました。バスやタクシーなど割引制度は思ったより少ないようだった。Paoで珈琲。
26日 火  1012hPa 晴
浜松中央警察署へ出頭。
悪事を働いたのではありません。
自動車運転免許証を「返納」(嫌いな言葉です)して、代わりに運転経歴証明書を貰ってきたのでした。実に簡単に仕事は済みました。警察署に出頭してから退出 するまで30分とはかからなかったと思う。
免許証返納

 before               after
免許証の有効期間は来年2月まで
まだ半年ほどあるのだがもうクルマもなくなったことだし、バスのシルバーフリー定期券という乗り放題パスが(初回に限りだが)6ヶ月有効で¥16,200で買える。つまり1ヶ月あたり¥2,700で半年間、遠州鉄道の電車やバスが乗り放題です。磐田市から湖西市まで、お散歩の範囲を広げることができそうです。ウレシイ!
警察署の帰り道、海谷眼科の診察予約日が10月の筈なのに予約券が見当たらないことを思い出して海谷眼科へ。入るとすぐ受付の所で恭子サンが笑顔で…お久しぶり!…と迎えてくれた。実に半年ぶり。事情を話して予約券を発行して貰った。10月27日(金)8時。忘れないようにしましょう。
Paoはすぐ近くなので、オレンジジュースと紅茶を飲んだ。両方とも美味しかった。
27日 水 1011hPa 晴 Paoで珈琲。
28日 木 1004hPa 雨→晴 伊豆から東にかけて豪雨だったようだがここは夜中に少々の雨。少し涼しくなったので温かい飲物がよくなった。
NorcaSorcaサンはフェースブックで、NOBUYOサンはホームページで、原村古楽祭に参加したことを報じている。写真を見ると空は綺麗に晴れていて、みなさん思い思いの衣装で楽しんでいるようだ。
29日 金 1005hPa 一日中空には一点の雲のかけらもない見事な晴天。こんな日は滅多にあるものではない。単に「晴」と書くには勿体ないような日。
夜のFMラジオで「モンセラートの朱い本」の演奏。楽団アントネッロとハープの西山まりえのアンサンブル。
30日 土 1009hPa 今日も晴天だが昨日ほどではない。
Paoで紅茶。ほかにお客がいなかったのでえり子さんが二胡を演奏してくれる。サンタルチアなど。
4度か5度ほど低いとワタクシの歌いやすいピッチになるのだがちょっと残念。
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2017.09.15 (Fri)

泉光院の足跡 254 鳳来寺

秋葉山で詣納経をすませて、大椀山盛りの飯と汁を食べた泉光院はすぐに山を下ります。
…五十丁下りて犀川村と云ふに大川あり渡船、此川東海道天龍川の川上也、當村へ宿す。秋葉山奉納一句、
   其儘に楓の幣や秋葉山

秋葉山からの下りは、いま東海自然歩道といわれている道。
東海自然歩道というのは東京都の高尾山から大阪府の箕面山まで、ハイキングに適した山々をつないで景色のいいところや古蹟などを巡り歩くようにできている、なかなかいい道です。秋葉山近くのルートをちょっとだけ書いておきます。宇嶺の滝
JR東海道線藤枝駅からバスで蔵田まで行くと秋葉街道に出ます。終点のバス停から右の方へ行くと「宇嶺(うとうげ)の滝、右の写真」という落差70m、東海地方では一番大きな滝に出会います。 急な坂を下れば滝の下まで行けます。「おきみの滝」とも言って、悲恋の末にこの滝に身を投じたおきみという娘の悲しい話、というのが伝わっているようです。左の方へ行くと髙根白山神社への道で、傍らに「おきみの墓」というのがあって、その脇の神社の参道を登っていくと髙根山871mで、頂上近くに神社がありここで10月29日に古くから伝わる神楽が能納されます。野守の池桜

髙根山から西に下ると大井川に出て、大井川鉄道家山駅から西へ入ると櫻の名所「野守の池」(右)です。

大井川鉄道は蒸気機関車が走るので人気があります。



そこから大日山金剛院、春埜山大光寺、犬居城跡、そして彼の巨大天狗面のある秋葉神社の登り口、となるのです。

泉光院は秋葉山からの下り道を、もと来た道ではなくて西の方、今なら天龍川の秋葉ダムのある方へ、…犀川村と云ふに大川あり渡船、…して対岸へ渡りました。
渡船をした場所には今は秋葉ダムが出来て、その堰堤を歩いて通れます。車で秋葉山
へ登る時も、浜松市天竜区から国道152を天竜川に沿って北上して、ここまで来たらダムの堰堤を走って秋葉山へ登ることができるのです。ずいぶん便利になっています。
秋葉ダム側面
秋葉ダム正面

写真は秋葉ダムの下流側から見た正面(左)と側面(右)。
写真では小さく見えますが、堰堤の高さは84m、長さは273mと、見た目よりも大きなダムです。
泉光院の書いている「犀川村」はこの堰堤の左側(西側)にある村で、今の地図では「西川」と表記しています。

四日 晴天。犀川村立、辰の刻。峠を越へ谷に下ること幾つと云ふことを知らず、道に人家少々あり、五里に巢山と云ふ村あり、山元屋と云ふに一宿。此のあと三丁計りに大平越とて峠あり、此處遠參の國堺也。地藏堂一宇あり。

西川から東海自然歩道は白倉川に沿っていて、白倉峡という綺麗な峡谷を歩きます。泉光院の言う通りに峠を越え谷を渡り、天竜美林を歩きましょう。このあたり一帯は天竜県立公園に指定されていて、杉林ばかりではなくて秋になれば見事な紅葉を眺められ、自然を満喫できる道であります。
自然歩道から車の通るような舗装道路に出るとそこに道の駅「かあさんの店」という手打ち蕎麦を食べさせるような店があったり、右のような水車小屋があったりします。くんま水車の里
「くんま水車の里」という所です。「熊」と書いて 「くんま」と発音する山深い村です。
浜松からは県道9号、天竜東栄線という道の途中までバスを乗り継いで終点の「熊」で下車するとこんな場所になるのです。…道に人家少々あり。…というのは江戸時代も21世紀平成の現在でも変わりません。舗装道路から離れてさらに西へ自然歩道を捜して歩くと巢山(昔の地図には載っていたのだが新しい地図にはもう名前が見えない。廃村になったのだろうか。江戸時代の人は秋葉山へ參詣するのにこの道を通ったのだからこの村は旅籠屋もあった大きな集落だった)で、鳶の巢山670mの稜線が遠江國と參河國(愛知県東部 三河)の國境です。地蔵堂が建っていたようだが今はありません。

國境といえばこのちかくの(静岡県)遠江國水窪村と(長野県)信濃國南信濃村の境に兵越(ひょーごし)峠というのがあって、ここでは水窪村と南信濃村の村民が綱引きをして勝ったほうが國境の標識を1m、相手の村の方に押しやる、という面白い行事があります。兵越峠立札
立札には次のように書いてあります。
「告 !! この標識国盗綱引合戦に於て定る国境である 行政の境に非ず」。
つまり両方の村のお遊びだから気にしないでネッ!ということですが、このお遊びは1987年(昭和62年)に第1回が行われていて、2016年迄の成績は、南信濃村(信州軍)17勝、水窪村(遠州軍)13勝で、信州軍の4つ勝ち越し、つまり国境は4m遠江國にずれてしまっている。
兵越峠新聞写真
右の写真は以前ワタクシが見物に行った時の新聞写真で、右(手前側)が遠州軍、この時は遠州軍が勝利だった。だから静岡の新聞は左のように大きな見出しで勝利を報じているのです。ついでに新聞記事も書いておきましょう。
兵越峠新聞見出し
「綱引きで領土を広げる国盗り綱引き合戦が28日、浜松市と長野県飯田市南信濃の境である兵越峠(1168m)で行われた。遠州軍は昨年に引き続き、信州軍をストレートで破り、通算成績を10勝11敗とした。浜松市側に2㍍食い込まれていた「国境」の立札を1㍍、飯田市側に押し戻した」。
このお遊びは毎年10月の第4日曜日、正午から開始で、選手は各10人、一人以上の女性選手を含む、試合は3本で2本先取した方が勝利、という定めになっている。今年(2017年)は第31回で、10月22日(日)に行われます。

五日 晴天。巢山村立、辰の刻。三里に鳳來寺と云ふがあり、登り三十六丁、八合目に行者かへりとて道惡き所十四五間程あり、大峰油掛の石に似たり。西谷に下り八合目に藥師堂あり、八間四面、南向。又東照宮の宮あり、伽藍多し。寺一ヶ院、皆谷合大石の間に建てり。上は大石、麓は杉檜柏松等の山也。納經所より下ること十八丁、麓に樓門あり、夫より三里に大川あり、瀧川とて渡船あり此上に宿す。

巢山村の山元屋という旅籠を出て、次の目標は鳳来寺です。
このあたり、ずっと東海自然歩道を歩けばそのまま泉光院の足跡と重なります。
阿寺の七滝
巢山村から一里ほど行った所に阿寺の七滝、日本の滝100選に入っている名瀑があります。高さ64mとちょっと小ぶりではありますが甌穴を造りながら礫岩層を七段になって流れ落ちるさまはとても美しく、名勝天然記念物に指定されています。
この瀧は平安時代中期、陰陽博士安倍晴明が修行したという伝説があって、たいていの瀧は弘法大師とか役行者だとか、佛教系の人が開く場合が多いのだが、占い師のような人が修行をするのは珍しい。

阿寺川に沿って少し下りましょう。とても綺麗な道です。東海自然歩道の登り口が見えるのでそっこから登ってもいいし、(少し距離は長くなるけれども)いいのだが、下ると豊川上流、JR飯田線三河大野駅に出ます。東海自然歩道はそのまま真っ直ぐ山へ向かいます。登って行くと、今は「鳳来寺パークウエイ」という有料自動車道路に突き当たりますが、そんなものには目もくれないで横切ってしまいましょう。鳳来寺行者越え
泉光院の言う…行者かえりとて道惡き所…、(右の写真)があります。今の地図には「行者越え」となっています。この道には石の羅漢サンが16人居たというのだが、数えた人がいて現在は14人だそうです。

鳳来寺山東照宮

鳳来寺仁王門




左は行者越えから少し行ったところにある「東照宮」。この東照宮は、日光の東照宮、久能山の東照宮とともに「三東照宮」と称せられている豪華絢爛な建物、國重文です。
そして右が本堂前にある大きな仁王門を最後の石段の途中から写したので何だかよくわからない写真になってしまった。

泉光院は裏参道の方から鳳来寺山へ登ったので、ちょっと順序が逆になってしまったのです。
鳳来寺山鏡岩

左が鏡岩。鳳来寺山頂上のすぐ下にある、高さ60mほどもある一枚岩。
下りは表参道の1425段の石段を下りました。
鳳来寺山雪の石段

鳳来寺山石標


右は雪の日の石段。
この石段は登るにも下りるにも、高さ、歩幅共に割合具合がいいので、亡息を連れてここへ行った時、まだ幼かったのだが文句も言わずに歩いていた。
鳳来寺石段杉の木
左は石段の途中にある「新日本名木百選 傘杉」で、最近の測定では、高さ58.5m 幹廻り7.5m、樹齢800年というもので、高いところまで途中に枝がなくててっぺんの所が傘のように開いているというので「カラカサ杉」。泉光院はこの石段を下りて鳳来寺の参詣を済ませたのでした。
鳳来寺山門谷



表参道入口の門谷(かどたに)から見た鳳来寺山690mです。入って行くと両側にお土産物屋や蕎麦屋が並んでいるのはどこの門前町でも同じようなものですが、だんだん歩いて登る人は減ってしまって近頃は寂れてしまったようだ。みなさんこの1425段を敬遠して、クルマでサッと登ってしまいますから。

ワタクシが始めて此所へ上った時の経路を参考のために書いておきます。
1968年の頃です。

国鉄東海道本線、浜松駅乗車。豊橋駅で下車。そこで飯田線に乗り換えて本長篠駅で下車。
そこから私鉄の豊橋鉄道田口線というのに乗ります。田口線というのはその時代としては珍しく電車で、「モハ10」というタイプでした。田口鉄道電車
田口線は、本長篠駅から設楽(しだら)町田口まで通じていました。二つ目くらいの鳳来寺駅で下車、そこから歩くのです。
田口線は1日に12往復ほどの本数しか動いていないし、東海道本線・飯田線・田口線、それぞれの鉄道の乗り継ぎが非常に不便きわまるので、一日で往復するのはたいへんでした。
この電車は惜しまれながら1968年で廃線になってしまいました(つまりワタクシは田口線の廃線になる直前、この電車に乗って鳳来寺山へ行ったのでした)。

この山には「ブッ・ポウ・ソウ (佛法僧)」と鳴くコノハズク(フクロウ目フクロウ科の鳥)が住んでいて、NHKがこの鳥の鳴いているのを録音するのにずいぶん大げさな準備をやったのが評判になりました。ずいぶん昔のことです。
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